意識を飛ばしていたのは一瞬だった。
気が付いた時、あかねは頼久の背に隠れ縋りつくようにして彼の服を握り締めていた。
頼久も友雅の視線からあかねを隠すため、後ろにまわした腕で彼女の体を支えてくれていた。
「君も隅におけないねぇ。………逢瀬の邪魔をしてしまったようだ。悪い事をした……」
少しも悪びれない口調でそう言い、友雅はゆっくりと玉砂利を踏みしめて近づいてくる。
あかねは怯えるように体を縮ませ、ぎゅうっと頼久に縋りついた。
頼久は自分の背中に庇うあかねを気にしながら、友雅に対し鋭い制止の声を上げた。
「お待ちを!友雅殿!こちらの対へは誰も近づいてはならぬと、藤姫からのご命令が下っております」
それで歩みを止めると思いきや、友雅は手に持った扇で口元を覆い薄く笑みを浮かべただけだった。
「知らないねぇ…」
そんなはずはない。と頼久は歯噛みする。
この対へ藤姫の許可無く近づかぬよう、誰よりも先に友雅へ知らせが行ったはずである。
最もこの対へ訪れる友雅に……。
現に友雅の表情が、分かっていながらここへ来たと雄弁に物語っていた。
「友雅殿!それ以上お近づきにはならぬよう願います!」
「……頼久さん…」
か細く怯えた小さなあかねの声が助けを求めるように頼久を呼ぶ。
頼久の背に置かれれたあかねの手から震えが伝わってくる。
頼久はあかねを安心させるよう、自分の衣に縋ったあかねの手をしっかりと握りしめた。
「こちらを訪ねるのはいつもの事だよ?何故今夜に限って止める?」
「藤姫様のお客人がいらっしゃいます」
「お客人?この対にかい?それはそれは……」
「お引取りを!友雅殿!!」
厳しい声を上げる頼久の向こうに、あかねが何度も夢みた友雅が立っている。
一歩踏み出せば、一声出せば彼の人に手が届く距離。
それでも………。
「…こちらの対をお使いとは、ずいぶんと重要なお客人かな?」
友雅の探りに、頼久が慎重に答える。
「左大臣家縁の姫君です。ご無礼なきよう、お引取り願います!友雅殿」
「縁の姫君……ね。では君が後に庇うのは姫君付きの女房殿かな?」
友雅の指摘に、あかねの体が大きく震える。
「っ!無礼な!この方は女房などでは」
「頼久さん」
あかねは友雅に聞こえぬ小さな囁き声で反論しようとした頼久を止めた。
夢にまで見た人だった。
別れを選んだあの日から、ずっとずっと想っていた人。
幼さから飛び込めなかったその胸。
どんなに恋焦がれても、決して再会できるはずないと思っていた。
でも、今……。
たった一歩踏み出せば、その広く暖かい胸に飛び込める。
けれど……。
あかねの左の薬指に輝く指輪が、あかねの理性を縛り付ける。
一緒に人生を歩むと決心した人の顔が頭をよぎる。
それに友雅にもすでに結婚話がある聞いた。
今更おめおめと姿を現せようか?
あの時のように、二度と人の運命を乱したくない。
すべてはあの日に終わっている…。
一度己で断ち切った運命の糸を、再び己の意思で繋げるなんて出来なかった……。
「神…、姫…」
思わずあかねを『神子』と呼びそうになった頼久が、慌てて声を顰めた。
あかねは友雅に聞こえないよう注意しながら小さく言った。
「部屋へ戻ります」
このままここにいても、この様子では友雅はすぐに立ち去る気はないようだった。
それならば、自分か立ち去ればいい。
これ以上、友雅の存在を近くに感じていたくなかった。
身体から溢れ出しそうな恋しさで、どうにかなってしまいそうだったから。
あかねは羽織っていた袿を引き上げ、友雅の視線から顔を隠して背をむけた。
背中に焼け付くような強い視線を感じる。
あかねが向こうの世界へ帰ってから、ずっと使われていなかったこの対の使用を許された者に対する探るような視線。
振り向けば、その名を呼べば、あの人はどう答えてくれるのだろうか?
でもそれは絶対に出来ない……。
泰明が教えてくれた向こうに帰れる日まで、あかねは自分の存在を隠し通さなくてはならない。
そう自分で決めたのだから。
頼久は友雅を視線で牽制しながら、あかねを妻戸まで支えてくれた。
あかねの背中で、ぱたりと妻戸が閉まる。
そのとたん緊張が解けて身体の力が抜け、ずるずると座り込んでしまった。
扉の向こうで、頼久と友雅の声がする。
いつまでも忘れられないあの人の声が……
あかねはその場で膝を抱え、零れる涙はそのままに、必死で嗚咽を堪えていた。
頼久の身体の影から姿を現して背を向けた女性に、友雅は一瞬の幻を見た気がした。
小さく華奢な身体、俯き加減だったが背筋にすっと芯が通った歩き方、そのすべてが友雅に月へ還った彼の人を思い出させた。
袿の襟から零れ落ちた髪は、普通の姫君よりもずっと短いのも彼の人を連想させた要因かもしれない。
それでも友雅の想う人の髪よりも、ずいぶんと長かったのだが……。
いるはずのない人の面影をいつまでも追い求めている。
友雅は静かに自嘲を浮かべた。
back |
top |
next