まっすぐに愛し愛される事が、これほど幸せだとは知らなかった。
激しさとは違う熱さで、俺の心は満たされている。
「もう!瀬伊くんったら冗談ばっかり!!」
玄関のドアを開けたとたん、明るい室内に可愛らしい笑い声が響いていた。
俺が帰宅した音に気付いた彼女が、携帯電話を耳に当てたまま、ダイニングキッチンからひょっこりと顔を出した。
「あ、お帰りなさ〜い」
「ただいま。瀬伊かい?」
俺の問いかけに、むぎはクスクスと笑いながら頷く。
きっと電話の向こうで、瀬伊が何かを言ってるのだろう。
「え?うん、今、依織くんが帰ってきたから……。……う〜る〜さ〜い〜、瀬伊くん一言余計なの!」
怒った振りをしながらも、楽しそうに話しているむぎ。
俺は何も口を挟む事が出来ず、苦く笑いながら着替える為に寝室に入った。
むぎが俺以外の同居人だった3人と、頻繁に連絡を取っていたことは最近知った。
俺の舞台を、取引先のアメリカ人と観に来た一哉が楽屋に訪ねて来た時、彼の口からそれを聞いたのだ。
「松川さん、鈴原とよりを戻したんだってな」
「……相変わらず、耳が早いね。一哉」
僅かに驚いてみせると、一哉は腕を組んで軽く口の端を上げた。
「俺だけじゃないさ。羽倉も一宮も知ってる。鈴原が連絡してきたからな」
「むぎが?」
「松川さんは知らないと思うが、鈴原とはそれなりに行き来がある」
意外な事実に、俺は一瞬言葉につまった。
それはむぎからは、一切聞いていないことだった。
だが、むぎにとって彼らと連絡を取っている事は当たり前すぎて、わざわざ俺に改めて告げる必要のないものなのだろう。
確かに彼女が、彼らとの繋がりを絶つとは思えない。
きっと俺ともあの事がなければ、彼らと同じような付き合い方をしていたはずだ。
今更、俺の知らない彼女の交友関係を突付くのも大人気ない。
俺は僅かな戸惑いを押し隠し、軽く頷いて見せた。
「……そうか」
「あんたたち二人の事に口を挟むつもりはないが、もう二度とごめんだせ。…いろいろとな」
「すまなかったね、一哉。肝に銘じるよ」
一哉はそれだけ言うと、慌ただしく楽屋を後にした。
クールに見える彼も、むぎのことを心配していたのだろう。
だが、彼らしいむぎに対する優しさが、俺の心に小さく引っかかった。
「依織くん、いい?」
寝室のドアが、小さくノックされる。
「いいよ」
俺はジャケットを脱ぎ捨て、シャツのカフスボタンを外しながらむぎに答えた。
俺の返事を聞いてから、むぎがドアを開けて顔を出す。
「依織くん、瀬伊くんが用事だって」
「瀬伊が?」
珍しいことがあるものだ。
彼は俺に対して無関心なはずなのだが。
「あ、今度瀬伊くんの帰国コンサートがあるから、そのチケット、二枚お願いしちゃった。依織くんも出来るだけスケジュール空けておいてね。一緒に行こう?」
むぎは俺に携帯電話を差し出しながら、うれしそうに笑った。
「あたし、お夕飯の用意してるから」
瀬伊からの電話があったからだろうか?
いつにも増してご機嫌な彼女は、寝室から弾むような足取りで出て行った。
俺はその可愛らしい後姿を見送り、渡された電話を耳に当てた。
「瀬伊かい?」
『こんばんは、松川さん』
返ってくる答えに、少しタイムラグがあるのは、彼が国内にいないからだろう。
世界的ピアノコンクールで優勝経験があり、新進気鋭の若手ピアニストとして地位を確立している瀬伊の活動拠点は、主にヨーロッパだ。
帰国するのは年に数回だけだと、むぎから聞いていた。
「珍しいね、君が僕に用事とは」
『たまにはね。せっかくだから、松川さんに一言言っておきたくてさ』
「なんだい?」
俺が先を促すと、瀬伊はわざと一呼吸置いてから切り出してきた。
『僕は、いや、僕たちは松川さんが知らない時間のむぎちゃんを知っているから』
「瀬伊」
俺は瀬伊を牽制するように、声を抑えて彼を呼んだ。
だが、電話の向こうの彼もまた、いつもの彼らしくない低い声で俺に告げた。
『あの頃のむぎちゃんに戻ることがあったら、僕は松川さんを許さないからね』
「ああ、わかってるよ。……瀬伊、ひとつ聞いてもいいかい?」
『何?』
「……君たちが口を揃えて言う、俺が知らないむぎは…」
『その質問に答える気はまったくないよ、松川さん』
瀬伊は、俺にすべてを言わせなかった。
きっぱりと俺の質問を拒絶した。
『多分、誰に聞いても答えないだろうけど』
「…そうだろうね」
それは俺も予想してた答えだった。
まあ、聞く相手も一番悪かったと思うけれども。
『それから、むぎちゃんは気付いてないけど、僕らは本気だから。あなたに隙があれば、僕はむぎちゃんを奪うよ?』
俺に対して、大胆な宣戦布告。
冗談半分であるだろうそれは、しかしながら残り半分は本気だ。
それならば、こちらも受けてたつだけ。
「絶対に渡さないから、安心しなさい」
『油断大敵だよ。ああ、コンサートは別に松川さんは来なくてもいいから。僕はむぎちゃんさえ来てくれればそれでいいんだからね』
「そう……。だったら、ご期待に応えて、むぎと一緒に花束を持って楽屋に行ってあげるよ。瀬伊」
『……やっぱり嫌な人だね、松川さんは』
瀬伊の渋面が思い浮かぶ。
けれど、宣戦布告されたからには、優しい顔はしていられない。
「君には負けるけれどね」
『ま、どっちでもいいけどさ。じゃあ、むぎちゃんにまた電話するって伝えておいて。それじゃ』
「ああ」
瀬伊との何年ぶりかの会話は、あっさりと終わった。
相変わらずの瀬伊だが、彼は彼なりに一哉と同じようにむぎを心配していたのだろう。
俺が知らない時間のむぎとは、一体どんなむぎだったのだろう?
彼らがこれほど気にかけていたのは、何故だ?
彼女自身が自覚しているとは思えない。
そしてきっと一哉も麻生も、瀬伊と同じように俺に彼女について話すことはないのだろう。
「依織くーん、もうすぐ用意できるよー」
キッチンから、俺を呼ぶ彼女の明るい声が聞こえる。
「ああ、すぐ行くよ」
俺は物思いを振り払い、急いで着替えを済ませた。
仕事柄、不規則な生活と外食を繰り返す俺を知った彼女は、出会った頃を思い出したのか、相変わらずだと呆れたような苦笑を浮かべた。
それから俺が早めに帰宅する日に、彼女のスケジュールがあえば、こうやって夕食を作りに来てくれるようになった。
おかげで俺の外食回数はかなり減った。
そして、栄養バランスのよい食事を取れるようになった。
食事を作りに頻繁にこの部屋に、自宅から通ってくるようになった彼女。
俺が迎えに行けるのならばいいのだけれど、なかなかそうもいかず、彼女に不便をしいている。
それでもここで暮らせばいいと言った俺の申し出を、「大学が遠くなるから嫌」の一言で、断ったのは彼女らしいのかもしれない。
ダイニングテーブルに並べられた温かな料理。
それらを並べていた彼女は、俺が部屋に入ってきたのに気付くと振り返って笑顔を見せた。
「お帰り、依織くん。丁度いいタイミングだよ」
俺は彼女の明るい笑顔しか知らない。
別れを告げたあの時でさえ、彼女は涙を堪えながらも鮮やかに笑ってみせた。
彼らが気にかける、俺の知らないむぎとは一体……。
むぎと別れて再会するまでの彼女を、俺は知らない。
もしかするとむぎを再びこの腕に抱いた夜に見せた、あの儚げな彼女が彼らの心配する姿のかもしれない。
精一杯気を張っていながら、今にも泣き崩れてしまいそうな、アンバランスな姿が……。
「依織くん?どうしたの?」
俺は腕を伸ばして、彼女の華奢な体を黙って攫うように抱きしめた。
唐突な俺の行動に、彼女は一瞬驚いたようだったが、すぐにくすくすと笑いながら俺の腰に軽く腕を回してきた。
「瀬伊くんが変なこと言ったの?」
「いや…。ただ、むぎが可愛いから抱きしめたかっただけだよ」
この風景があまりに幸せで、俺はむぎがいなくなるのを恐れている。
綺麗な笑顔のむぎが消えてしまう不安に駆られてしまったのだ。
むぎの温もりと鼓動、そして肌の甘い香りを身体に直接感じて、俺はやっと安心できた。
「……ずるいなぁ、依織くんは」
むぎは苦笑を混じらせて小さく呟いた。
「そう?」
「ずるいよ……。そんな風に言われたら何も聞けないもん」
「……何を?」
俺が問いかけると、むぎは少しだけ体を放して大きな瞳でまっすぐに俺を見つめた。
「…依織くん、どこか辛そうな顔してるよ?どうしたの?」
辛そうな顔?
顔に出したつもりはないのだけれど、どうやら彼女にはばれてしまったらしい。
僅かに眉を寄せたのを目ざとく見つけたむぎが、ふわりと表情を緩める。
「嫌なことでもあったの?」
「……いや」
気になる事はあるのだけれど。
俺が知らず、彼らが知る君の事を……。
「じゃあ、瀬伊くんに悪戯された?」
彼女らしい発想に俺は思わず笑ってしまう。
「瀬伊に悪戯されるのは君だろう?」
図星を突けば、むぎは笑いながらも口を尖らせた。
「そうなんだよね。瀬伊くんって、いっつもあたしをからかうの。失礼しちゃうわ!……大丈夫?」
むぎは、俺を心配そうに見上げてきた。
俺はむぎを安心させるため、彼女が好きだと言う微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。……そうだね、少し仕事で疲れたのかもしれないね」
「じゃあ、ご飯食べたら、ゆっくり休んでね」
「ありがとう……。今日は泊まれるのかな?」
今夜は、彼女を放したく無かった。
離れていた時間を取り戻せるわけではないけれど、一緒に居ることで少しでも空白の時間を埋めたかった。
むぎは、少し考えていたようだが、こっくりと頷いてくれた。
「うん、泊まっていく」
むぎが帰る予定だったのは、彼女の様子を見れば分かる。
それでも頷いてくれたのは、俺を心配してくれたからだろう。
彼女はそんな自然な優しさを持っている。
だから惹かれた。
「ありがとう……」
「本当に、どうしたの?依織くん」
「うん?どうもしないよ。むぎと過ごせるのが嬉しいだけなのだけれど」
「……うまいなあ、依織くん。……でも、あたしもうれしいよ」
むぎはそう言うと、ひょいと背伸びをして俺の唇に軽く自分のそれを触れさせた。
珍しい積極的な彼女の行動に、俺は少しだけ驚く。
そんな俺を見て、彼女はしてやったりと口の端を上げ悪戯めいた笑みを浮かべた。
「……積極的だね?」
「そう?でも、依織くん、して欲しかったでしょ?」
俺を驚かせて勝ち誇ったように笑うむぎが、とても愛しい。
やっぱり俺は君に敵わないみたいだ。
何故、俺はこんなにも愛しい存在と離れていられたのだろう。
これほどまでに、俺の心を奪う君なのに…。
「もう一度、してくれないか?」
俺の願いに、彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑いながら、今度はゆっくりとキスを与えてくれた。
誰よりも愛しく、大切なむぎ。
もう二度と、この手を放したりしない……。
俺は強い想いとともに、その大切な存在を腕の中に閉じ込めた。
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