「松川さん!」





「ん?」
 不意に女の子に名前を呼ばれて、僕は何気なく振り返った。
「はい、これあげる」
 目に映った悪戯好きのクラスメイトの笑顔に、まずいと思った瞬間、何かが僕の口の中に放り込まれた。





「!?」
 口の中いっぱいに広がる甘味料の人工的な甘さ。
 思わず眉間に皺が寄る。
 そんな僕の顔を、してやったりとくすくす笑いながら見た彼女は、ひらひらと手を振った。
「ストロベリー味、しっかり味わってね!じゃあね、バイバイ」
 悪戯に成功した満足そうな笑顔。
 彼女は軽やかにパタパタと走り去っていった。
 ショートカットの活動的な彼女は、僕に対してたまにこんな悪戯を仕掛けてくる。
 いや、僕だけじゃないな。一哉も犠牲者の一人だ。
 今回もまんまと彼女の悪戯に引っかかってしまった、自分の間抜けさにため息を吐きつつ、口の中のキャンディを転がした。
 しつこい甘さは僕が苦手とするものだけど、吐き出すほどのものではない。
 仕方なく彼女の置き土産のキャンディを口に入れたまま、僕は歩き出した。
 自分の吐息の甘ったるさにため息を吐きながら……。





「さようなら、松川様」
「さようなら。気をつけて帰るんだよ」
 すれ違う、顔も知らない生徒達がかけてくれる挨拶に、いつもの笑顔で言葉を返しながら目的の場所へ向かった。





「どうぞ〜」
 その部屋のドアを軽くノックすると、中から明るい返事が即座に戻ってきた。
「失礼します!?先生?」
 目に飛び込んできた室内の意外な光景に、僕はらしくもなく驚いてしまう。





「あ!松川くん、丁度いい所に!!」
 上に伸ばした手に箱を持って、棚の前で思いっきり背伸びをしていた彼女は、僕の姿を見て嬉しそうに笑い目線だけで僕を呼んだ。
 彼女はスーツのジャケットを脱いだ、タンクトップ姿だ。
 家では見慣れている姿だが、ここではいつもスーツをきちんと着ているはず。
「鈴原先生?」
「これ、もう一段上の棚に置いて〜」
 確かに、彼女の身長では踏み台がないと目的の棚には届かない。
 それでも頑張って伸びていたらしい。
 僕はドアを閉めてから彼女に近づき、それを片手で取り上げ指示された棚に置いた。





「助かった〜、ありがとう!」
「どうしたの?むぎちゃん。それにその格好は…」
 ドア一枚とはいえ、外界から隔絶された美術準備室に二人きり。
 僕の声も自然と甘くなってしまう。
 でも君はまったくそれに気付いていないようだけれど。
 にこにこと邪気の無い笑みで僕を見上げてくる。
「もうすぐここを辞めちゃうから、片付けてるの。動いてたら暑くなっちゃって…」
「そうか……。あと少しだね…」
 本当は9月いっぱいのはずだった彼女の教職期間は、少しだけ延びていたがそれももう終わってしまう。
 短い期間だったけれど、本当に色々あった……。
 そして出会ったときには思いもしなかった。
 君がこんなに大切な存在になるなんて……。






「依織くん、何か食べてる?甘い匂いがするよ?」
 僕の口の中のキャンディの甘い香りが、言葉と一緒に零れたのだろう。
 不思議そうな君のつぶらな瞳が、まっすぐに僕を見つめてくる。
 純粋なそれが眩しくて、僕は少しだけ目を細めた。
「さっきクラスメイトにキャンディを貰ったんだ」
「へぇ〜、珍しいね。依織くんがお菓子食べるなんて」
 僕からすすんで食べたんじゃないけれど。
 それを説明するのは面倒だから、にっこりと微笑むだけに止めた。
 僕の笑顔が好きだと言ってくれる君は、ほんのりと頬を染めて上目遣いに笑い返してくれる。
 その甘えを含んだ照れた笑顔がとても愛らしい。
「おいしそうだね〜。帰りにお菓子買って帰ろうっと」
 にこにこと笑う君があまりに可愛くて、僕はつい悪戯を思いついてしまった。





「欲しいならあげるよ」
「えっ?」
 嬉しそうに目を輝かせた君。
 その細い腰を僕はぐっと抱き寄せた。
「依…」
 僕の名を紡ぐ間さえ与えない。
 引き寄せた君に僕は口付ける。
 驚きできつく結ばれた君の唇を、舌先で優しくあやすように撫でてあげると、躊躇いながらも僅かに開いて僕を迎えてくれる。
 僕はゆっくりと柔らかい唇から進入し、並びの良い真珠ような歯を撫で上げて深く君を味わう。





 上顎を舌先で擽れば、君の背中が小さく震えた。
 君の手がためらいがちに僕の腕を掴む。
 けれどそれは拒絶ではなくて……。
 僕が口に含んだキャンディよりも甘い君の唇。
 それはどんなに甘くても、僕には心地よいぬくもりだ。
「…ふ、う」
 鼻から抜ける甘やかな吐息。
 そんな声を耳にしてしまったら、我慢が出来なくなってしまいそうだ。
 僕は、もう少しむぎを味わいたい欲求を押さえ、自分の舌をガイドにしてそれを彼女に送り込んだ。





「!?」
 僕がそっと唇を離すと、むぎは目を丸くして両手で口元を押さえた。
「おいしい?」
「〜〜〜依織くんっ!」
 怒鳴ったむぎの口の中で、コロリとキャンディが音を立てる。
「あげる」
「あげるって……信じられない!!」
 顔を真っ赤にして僕に背を向けたむぎ。
 でも怒っているわけじゃない。
 恥ずかしくてどうしていいか分からないだけだ。
 そんな初心な所も可愛くて仕方ないなんて、僕はかなり彼女にまいっているらしい。





「ストロベリーだそうだよ。どうだい?」
「………おいしいけど」
 むぎの片方の頬がキャンディで丸みを帯びている。
 僕は誘われるように、その頬に口付けを落とした。







「片付け、手伝うよ。そして早く帰ろう?」





 軽く合わせた彼女の柔らかな唇から零れる甘い吐息は、僕の口に入っていたものと同じなのに、不思議と嫌な甘さを感じることはなかった。









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