むぎの機嫌が悪い…。





 ラ・プリンス4人は、いつものように家政婦としての仕事に勤しんでいるむぎを横目に、心の中で異口同音にそう思った。
 しかしむぎの機嫌が悪いと感じても、あからさまにどうということは無い。
 誰かが用事を頼めば、明るい返事で受けてくれるし、廊下などですれ違えば他愛の無いことを尋ねてくる。
 けれど……。
 一人で黙々と仕事をこなしているむぎの眉間には、僅かだが皺が寄せられているし、唇も不機嫌そうに尖っている。





 まあ、女の子だしそんな日もあるかな……、と思ったのは、女性の扱いに慣れた三人。
 なんなんだ?一体?とただ首を傾げるのは一人だけ。
 この家のたった一人のプリンセス(家政婦だけど)のご機嫌を少しだけ気にしながら、プリンス達はいつものようにふるまっていた。
 それが破られたのは、たわいない一言だった。。





「今日の仕事終わりー!!」
 午後11時、キッチンからむぎの声が聞こえ、珍しく四人揃ってリビングで寛いでいたラ・プリンス達は、ふっと僅かに顔を綻ばせた。
「あれ?珍しい!みんな、揃ってる!」
 ひょいとリビングに顔を覗かせたむぎが、四人の姿を見て目を丸くした。
 二人、三人と同じ部屋にいることはよくあるが、四人が揃うのは食事以外では稀だった。
 別にたいした会話をするわけでなく、テレビを見たり雑誌を捲ったり、やっていることはてんでバラバラなのだが…。
「お疲れ様、むぎちゃん」
 にっこりと優しい微笑みで、仕事を終えたむぎに労いの言葉を掛けてくれたのは依織だった。
 この辺はさすが気配りの達人と言おうか……。
 むぎは、依織の言葉にうれしそうに近づいてきた。
「ありがとう、依織くん。ところでどうしたの?皆してリビングにいるなんて?」
「別に…。偶然だ」
 素っ気無く答えたのは、ニュースを見ていた一哉だ。
 ご機嫌斜めらしいむぎが気になって、ついついここに集まってしまったということは、男達のトップシークレットだ。
「ふーん?」
 むぎは訝しげに首を傾げながらも、一応納得したようである。
 その顔が、また僅かに顰められる。
「むぎ?」
 些細なむぎの表情の変化に気付いた麻生が、ソファの背に両腕を乗せむぎに声をかけた。
「なに?麻生くん」
「お前、なんか調子悪ぃのか?」
 麻生の直球ストレートな質問に、他の三人が一瞬固まる。
 




 聞くか?普通?
 麻生以外の三人が、心の中で即座に突っ込む。
 




 しかし聞かれたむぎは、何のことかときょとんと麻生を見つめ返し、二、三度瞬きした後、ああ!と何かに思い至ったようだった。
「調子は別に悪くないんだけどね。……分かる?」
「何となく分かる。ここに皺が寄ってるぞ」
 麻生がむぎに向かって、眉間を指し示すと、むぎは肩をすくめて自分の眉間を指先でつついた。
「いけないなぁ……、うん……」
「大丈夫か?」
「大丈夫。あと2、3日もすれば、たぶん痛みも引くだろうし。この時期はね〜、仕方ないって分かってるんだけどね〜」
 微妙な会話に、後の三人は聞き耳を立てつつも口を挟まない。
 デリケートな部分に触るような会話は、極力回避したい。
 いつどこで、むぎの怒りに触れるか分かったものではないから。
「そっか…」
 聞いている麻生は、あまり深くは考えてないらしい。
 答えているむぎも考えていないようだが……。
 男三人が、心の中で深い溜息を吐く。
 しかし、それに気付かないむぎは、じゃあ部屋に上がるね、と言ってくるりと背を向けた。
「あ、そうだ!むぎ!」
 ふと用事を思い出した麻生が、さっさとリビングを出て行こうとするむぎの二の腕を咄嗟に掴んだ。
 その瞬間。





「いったーーーーーーい!!」





 突然、むぎが絶叫してその場にしゃがみこんでしまった。
「麻生!何をしたんだい?」
 むぎの悲鳴に、反射的に皆が腰を浮かし、直前までしゃべっていた麻生に依織が厳しく問うた。
「お、俺の所為かよっ!知らねーよ。むぎが突然…」
 麻生もむぎの突然の悲鳴に驚き、焦って依織に弁解する。
 背中を丸めて座り込み、微かに身を震わせていたむぎは、突如がばっと顔を上げた。
「だから痛いっていったじゃないのよ!!麻生くんの馬鹿!」
「はぁ?何のことだよ!」
 確かに痛いとは聞いたが、麻生はむぎがどこを痛がっているなど、一切聞いていないし予想も出来ない。
 むぎは、掴まれた二の腕を抱え込み、涙で潤んだ瞳でキッと麻生を睨みつけた。
「インフルエンザ!毎年、打ったら腫れるのよ!!」
「知らねーよ!そんなこと!!」
 当たり前だ。初夏に知り合ったむぎのいつもの冬のことなんて、この家の誰も知るはずがない。
「あ、インフルエンザの痕が痛かったんだ〜。てっきりお腹だと…」
「瀬伊!」
 邪気の無い声だが、力いっぱいからかいを含んだ声。
 一哉が一喝するが、むぎは痛さに顔を顰めながらも瀬伊を睨んだ。
「…あんた達、何考えてたのよー!!!」
「別に〜」
 小悪魔がくすくすと笑う。
「インフルエンザくらいで大袈裟な…」
 溜息混じりに呟いた一哉は、涙目のむぎに射殺されそうな視線を向けられ、口をつぐんてしまった。
「くらいですって?よくもそんなこと言えるわね!!」
 あまりの痛さに逆ギレ状態のむぎは、ぐっと左の袖を捲り上げた。
「見てよ!これ!!」
「げっ!」
 麻生が驚き、声を思わず上げてしまった。
 むぎの左肘の少し上が、手のひら大の大きさで赤紫に腫れ上がっていたのだ。
 それを見た四人は、あまりに酷いむぎの腕の状態に絶句してしまう。
「もう!体質で、毎年こうなのよ!打ってから二、三日は痛くて寝返りも打てないんだから!寝返り恐怖症なのよ!!」
「ひでぇな…」
「それなのに、麻生くん、思いっきり掴んでくれちゃって…」
 痛くて息止まったんだから…、と頬を膨らませるむぎ。
 麻生は、すまん…と頭を下げた。
「大丈夫?むぎちゃん」
「うん。なんとかね……。と言うことで!!」
 心配する依織に頷き返し、むぎはラ・プリンス四人をビシッと指差して宣言した。
「私の左側にはしばらく近寄らないで!わかった!?」
 その異様な迫力に、四人はただ頷くだけしか出来なかった。






「むぎちゃん」
 お風呂から上がって、ポテポテと部屋に戻るところを、むぎは階段を上がってきた依織に呼び止められた。
「何?依織くん」
「あとで部屋においで」
「今でもいいよ?」
 素直に依織に近づいてきたむぎに、依織が柔らかく微笑んで首を振る。
 そして軽くその長身を曲げ、むぎの耳元に唇を近づけて吐息とともに囁いた。
「あとで。眠れるようにしておいで…」
 耳を擽る甘い吐息。
 一気に頬を染めたむぎが、慌てて一歩飛び退る。
「き、今日はダメ!寝返り恐怖症!!」
 年上の恋人の手馴れた誘いに、むぎは思いっきり首と手を振る。
 力いっぱい依織を拒絶するむぎに、どれだけその痕が傷むのか想像がつく。
 依織は片手の拳を口元に当てクスリと笑い、むぎの頭を軽く撫でた。
「期待したところ申し訳ないけど、そうじゃないよ」
「期待なんかしてませんっ!」
「そう?残念」
 どこまで本気かわからない笑顔で依織がむぎを見つめる。
「もうっ!」
「フフ…。冗談はさておき、後で部屋においで」
「うん…。わかった。じゃあ、後でね」
 むぎは素直に頷いた。






 コンコン…
「依織くん?」
 軽いノックの音の後、ドアが少しだけ開いてむぎが顔を覗かせる。





「どうぞ」
 入室を促すと、むぎがうれしそうに依織の元に駆け寄ってきた。
 依織はそんなむぎを軽く抱きとめる。
 他の住人の目があるところでは、絶対に依織に触れてこないむぎが、二人っきりのときだけにみせる甘え。
 依織は愛しそうに、腕の中のむぎを見下ろした。
「用事ってなに?」
「ん?それは後でいいよ。ところでむぎ?」
「はい?」
「インフルエンザ打ったって?」
「うん。昨日の帰りにね。毎年のことなんだけど、やっぱり今年も腫れちゃった」
 おどけたようにペロリと舌を出して笑うむぎ。
 依織は心配そうに柳眉を顰めた。
「かなり腫れていたけれど、大丈夫なのかい?」
「うん。先生が体質だって言ってた。痛いのが辛いんだけど。寝返り打つたびに痛くて目が覚めちゃうの」
「可哀想にね…」
「何日間だから、我慢するよ。インフルエンザにかかるほうが嫌だもん。依織くんも打ってよ?」
「さあ、どうしようか?むぎの状態を見ると、気がすすまないな」
 たしかに、むぎの腕の状態は酷すぎる。
 これを見て打とうと思うほうが稀だろう。
 でも……。
「かかっても知らないよ?」
「その時は、むぎが看病してくれるんだろう?」
「………それは、そうだけど」
 出来ることなら、この家にウイルスは入れたくない。
 予防接種したとしても、インフルエンザにかからない保障はないのだが、感染の可能性は格段に低くなる。
 誰だって、大好きな人が病気で苦しむのは見たくないから。
「気が向いたら」
「……お願いね」
 依織の曖昧な答えに不服そうにしながらも、むぎはそれ以上うるさく言わなかった。






「ところで、依織くんの用事ってなに?」
 依織に軽く抱きつき、むぎがつぶらな瞳で彼を見上げる。
 依織は軽く眉を上げ、うんと頷いた。
「一緒に眠ろうと思って」
「無理っ!」
 その申し出を、むぎは間髪いれず断った。
「どうして?」
「だから寝返り恐怖症なのよ。寝返りを打つのが怖くて、眠りが浅いの。それなのに依織くんとなんて眠れないよ。隣が気になって……」
「寝返りを打たなければいいのだろう?」
「えっ?」
 依織の身体が動いたと思った次の瞬間、むぎの身体がふわりと浮いた。
「依織くんっ!?」
「じっとしておいで」
 ぽふんと下ろされたのは、依織のダブルベッドの上。
 依織はぱさりと毛布を捲ると、むぎを抱きしめたままベッドに横たわった。
「え、え〜と…?」
 依織の考えていることが分からない。
 むぎは戸惑いながら、身体に回された依織の腕を解こうとするが、力では叶わなかった。
 身体にかけられた毛布と依織の体温で、身体が気持ちいいぬくもりに包まれる。
 むぎは、しばらく間近にある依織の整った美貌を見つめていたが、彼が腕を解くつもりが無いのを悟ると、溜息を吐きつつごそごそと居心地のいい位置に身体を動かした。
「依織くん?どうして?」
 むぎが観念して大人しくなると、依織は腕を伸ばしてルームライトを落とした。
「寝返りが怖いのだろう?」
「そうだけど……」
「だからだよ」
「………よく分からないんだけど」
 頭の上を?マークが飛び交っているのが分かるような表情。
 依織はその可愛らしさに笑みを零す。
「こうやって僕が抱きしめていれば、寝返りをうたなくていいだろう?……むぎもね、僕に抱きついていればいい…」
「え……と」
 つまり、むぎのかわりに依織が腫れている左腕をカバーしてくれるというのだ。
「う〜んと……」
「おやすみ…」
 どうにも納得いかずに唸っているむぎを尻目に、依織は瞳を閉じてしまう。
 もちろんむぎを抱きしめた腕はそのままに……。
 しばらく唸っていたむぎだったが、やがて溜息を一つ吐くと小さく笑って、ぎゅっと依織にしがみ付いた。
「ありがとう、依織くん。おやすみ…」






 その夜、むぎは寝返りを怖がることなく、依織の腕の中でぐっすりと眠った。










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