朝晩の冷え込みが徐々に厳しさを増してきた晩秋。
 祥慶学園高等部一年鈴原むぎは、しん…と静まり返った図書館で一心不乱に傍らに開いた本から、内容をノートに書き写してきた。




 
 とある事情で一学期から二学期の半分近く高校を休学していたむぎは、祥慶学園に編入した(させられた)のはいいけれど、これまでの単位をとる為に、
いくつかのレポートを仕上げなければならなかった。
 そのうちの一つの提出期限が迫ってきていて、むぎは資料を集めてしまおうと、放課後図書館に籠っていたのだった。
 時折、人が歩く靴音とページを捲る音しかなかった室内に、ウエストミンスター風の鐘の音が響いてきた。
「えっ!うそっ!」
 本と首っ引きだったむぎが、チャイムの音で顔を跳ね上げる。
 窓を見れば、先ほどまで西日が差していた空は、すでに夕闇に染まっていた。
「あらら、もうこんな時間……」
 時計を確認したむぎが呟く。
 先ほどのチャイムは、下校時刻を知らせるものだった。
「帰らなくっちゃ」
 むぎは本を閉じて立ち上がり、元通りに棚へ戻す。
 そしてノートやペンケースを鞄に詰め込むと、足早に図書館を後にしたのだった。






「ちょっと予定より遅くなっちゃった」
 階段を降りながらもう一度時間を確認して、むぎはしまったなあ…と肩をすくめた。
 予定では、もう30分早く帰るはずだったのだが、集中してうっかり時間を過ごしてしまった。
 むぎは少し急いで、昇降口から外へと飛び出した。
「うわっ!寒っ!!」
 外へ出たとたん、身体を押し返すほどの強い北風に襲われ、その冷たさにむぎはぎゅっと身体をすくめてしまった。
 日が沈んで、気温もかなり下がっている。
 むぎは縮こまるように、胸の前で手を組むと、そこにはーっと息を吐きかけた。
 冷たい空気で白く染まる吐息。
 想像していたよりも、強い寒さに怯んでいたむぎだが、キッと顔を上げて早く帰宅する為に駆け出そうとした。
 その時だった。
「むぎちゃん?」
 後から少し驚いたようにかけられた声。
 聞き慣れた、ほんの僅かに掠れた優しい声音は……。
「依織、くん?」
 むぎは寒さに固まった身体ごと、声がした方向へ振りむいた。






「ああ、やっぱりむぎちゃんか……。どうしたの、珍しく遅いね?」
 冬の制服であるロングジャケットをひる返し、オフホワイトのマフラーを首にかけただけの依織が近づいてくる。
 ビビッドブルーのワイシャツの胸元は相変わらず緩めていて、素肌にラ・プリンスの象徴であるルビーを埋め込んだアクセサリーが揺れていた。
「図書館で調べものしていたら、いつの間にかこんな時間になってたの。…依織くんは?生徒会?」
「そう。もう終わったけれどね。…一緒に帰ろうか?」
 にっこり優しく微笑まれて、思わず素直に頷きそうになったが、むぎは慌てて周りをキョロキョロと見回した。
 しかしすでに日が暮れた下校時刻。
 むぎ達の近くに生徒の姿は見当たらなかった。
 慎重にあたりの様子を窺うむぎの姿を見て、依織はくすくすと面白そうに笑った。
「…依織くん?」
 何を面白がって笑っているのかピンときたむぎが、ムッと唇を尖らせて依織を睨みつける。
 しかし咎めるようなむぎの視線さえ、今の依織には心地よいものだった。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「……依織くんは甘い!祥慶女子の、ラ・プリンス人気は半端じゃないんだからね!」
「そう?」
「そう!」
 力いっぱい頷くむぎだったが、もう一度辺りを確認してから、ふんわりと表情を和らげた。
「でも、もう人がいないしいいかな?帰ろう、依織くん」
 むぎは先に昇降口から歩き出し、振り返りながら依織を誘った。
 依織はうっすらと笑みを浮かべ、むぎを追って足を踏み出した。
「うわっ!」
 依織が追いつくのを待っていたむぎに、またもや冷たい風が吹き付ける。
 その痛いような風の冷たさに、むぎは声を上げて首をすくめた。
「さ〜む〜い〜!!明日からはコート着ないと…、って、依織くん!?」
 いきなりふわりと身体を包み込んだ温かさ。
 一瞬驚き戸惑ったむぎだが、すぐにその正体を理解して、思わずその場から飛び退いてしまった。






「むぎちゃん。寒いのだろう?」
「いい!大丈夫!!」
 優しく微笑む依織が何気なく広げてくれた、彼が纏うロングジャケット。
 おいで……、と慣れた眼差しで誘う依織に、むぎは思いっきり首を横に振った。
「遠慮します!」
「フフ…、誰かに見られるのを気にしているの?それこそ大丈夫だよ。もう日が暮れているから、誰かなんて見えやしない」
 確かに、依織の言うとおりむぎは見えにくいかもしれない。





 がっ!!





 たとえ日が落ちていようと、ラ・プリンスの依織は、そのシルエットだけで彼だと分かってしまう。
 なぜなら、祥慶学園で依織だけがこのロングジャケットの制服を纏うことを許された男だからだ。
 ただでさえ、元(偽)美術教師という肩書きを持つむぎ。
 何かの拍子で依織との関係がはっきりとばれて、これ以上へんに有名にはなりたくなかった。
「寒いのは大丈夫!依織くんは気にしないで」
 ていうか、気にしてくれるな……。
 しかし、むぎの心の叫びは、優しいけれど強引な恋人に通じなかった。
「むぎちゃん、おいで?」
「いい!」
 じりじりと依織との間合いを計って、後ずさるむぎ。
 遠慮深い恋人に、依織は優しげな、それでいて底知れぬ何かを感じさせる美しい笑顔を見せた。





「むぎ?」





 依織の声音が、ほんの僅かに変わる。
 深みを増したその響きと、2人で過ごす時だけに使われる「呼び名」





 ………やばい。





 本能で『何か』を察知したむぎは、ピタリと動きを止めた。
「捉まえた…」
 固まってしまったむぎを、容易くふわりと包み込んだ、依織のぬくもりと香り。
「…依織くん」
「僕から逃げようとするなんて、悪い子だね」
 僅かに目を細めて自分を見下ろす依織に、むぎは思わず見惚れてしまった。
 依織はいつだって、自然にむぎを魅了する。
 寒さのせいだけでなく頬を染めたむぎを、自分のロングジャケットに閉じ込めた依織は、風で乱れた前髪から覗くむぎの白い額にそっと唇を落とした。
 額に触れるやわらかなぬくもり…。
「依織くんっ!?」
「たったこれだけの時間で、こんなに冷えてしまって……」
 大胆な依織の行動に目を丸くするむぎを、依織は自分の体温を与えるかのように深く強く抱きこんだ。
「あの…、えっと……。依織くん?」
「ん?」
「ここ、学校なんだけど……」
「知っているよ?」
「えーっと………?」
 依織の広い胸にしっかりと抱きしめられたむぎは、戸惑いの声を上げるが、依織は軽く笑うだけで離してくれない。
「帰ろう?」
「そうだね…」
 むぎの言葉に頷きながらも、依織はその腕を解こうとはしない。
 最初は慌てたものの、だんだんと冷静になってきたむぎは、依織に抱きしめられながら諦めの吐息をついた。
「依織くん?」
 包まれたロングジャケットの中、むぎは少し恥らい躊躇いながら、そっと依織の腰に腕をまわした。
「もうあったかくなったから、帰ろう?ご飯の用意しなくちゃ」
「大人しくしてる?」
「うん。依織くんがあったかいから、仕方ないね」
「じゃあ、帰ろう」
 優しい依織の腕の檻が解かれる。
「荷物、持つよ」
 スマートに差し出された手を断ることなく、むぎは礼を言いながら持っていた鞄を依織に渡した。
 依織は自分が纏うロングジャケットでむぎを包むようにして、その華奢な肩を抱く。
 むぎも依織に寄り添い、歩調を合わせやすいように、彼の腰に片手を回した。
「あったかい……」
「そう?じゃあ、冬の間毎日こうしてあげようか?」
 笑いながら依織が提案するのは、冗談めいていながら、少しだけ本気を含んでいる。
 でもむぎはその本気の部分に気付かず、即座に首を振った。
「丁重に遠慮します。明日からコートを着るから大丈夫」
「それは残念」
 依織の一言に、むぎが苦笑する。
「私は大勢の女生徒を敵に回す勇気ないよ。でも、今日は甘えちゃうね」
 言葉どおり、子猫のように甘えて擦り寄るむぎを依織は優しく抱きこみエスコートする。
「よろこんで。お姫様?」
 素敵なプリンスの優しさに、むぎは心から温かくなるような幸せの笑みを浮かべた。










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