鈴原むぎが、美術教師から生徒へと華麗なる転身をかましたのは、つい先日のこと。
 真実を知らなかった学生、そして一般教員達は上から下への大騒ぎ。
 当然だろう。たった数ヶ月とはいえ、資格を持たないどころか、本来であれば教育を受ける立場の者が教壇に立っていたのだから。
 しかし教員のむぎをかってくれていた学園長や桜木かお子、そしていつも親身になってくれていたラ・プリンス達のおかげで、なんとか学生として編入できたのだ。
 視線はとっても痛かったけれど!






「夏実、お昼は?」
 4限目終了のチャイムが鳴り、使っていた教科書を揃えながら、むぎは前の席に座る夏実に声を掛けた。
「まだ未定。すずは?」
「ん〜、カフェテリアに行きたいんだけど、付きあってくれない?あそこのデザートが食べたくなってさ」
「いいよ。私も甘いものが食べたかったんだ〜」
「じゃ、行こうか」
 2人はロッカーに教科書をしまうと、肩を並べてのんびりとカフェテリアへ向かった。






「……すず、シャンプー変えた?」
「いいや?いつもと同じだよ。どうして?」
 一緒に歩いていた夏実が、ふと思いついたようにすずの髪先を掴んだ。
「それに今日は、髪結んでないし」
「寝坊しちゃったんだよ〜。ご飯作ってたら、髪を結んでる暇なくって」
「……ご飯作ったんだ」
「作ったよ。じゃないと、あの顔のいい生活不能者達は、なにも食べなくて登校するんだもん!」
 まったくもう!と頬を膨らますむぎに、夏実はこめかみを押さえた。





 本当に優秀な家政婦だこと……。






 むぎは、再び御堂家の家政婦に返り咲いていた。
 姉の苗が安藤とイギリスに行ってしまい、一人になってしまったむぎ。
 でもそれは、不安だったあの頃とは違う一人なのだが。
 本当は、両親が残してくれた家で一人暮らしをするはずだった。
 そのつもりだったのだがっ!!






 ある日、麻生に借りていたCDを返しに久々に御堂家を訪ねたむぎが目にしたものは……。
 悪夢、再び!!
 であったのだ。






 家柄も才能も美貌も兼ね備えた、皆が羨む祥慶学園のカリスマ、ラ・プリンス達は、揃いも揃って生活不能者だった。
 





 あれだけ磨き上げていた家が、見事にごみ屋敷と化しているのを見て、むぎは切れた。
 それはもう盛大に。
「何よ、これーーーーー!!!」
 むぎの上げた悲鳴は、御堂家すべてに響き渡った。






 怒りにまかせて猛然と掃除し始めたむぎ。
 おろおろと手伝おうかと申し出てくれた麻生を、「邪魔!」の一言で部屋の外へ追いやり、優雅にピアノを弾いている瀬伊の横を、最高レベルで掃除機をかけてやった。
 家主の一哉は、仕事中の自室で思いっきりハタキをかけられ、外出していた依織は帰宅した時、リビングを掃除していたむぎに声を掛けて、キッと睨まれてしまった。






 すっきりと片付いた家の中、ピンクの割烹着で腰に手を当て、満足げに頷くむぎに一哉が一つの提案をした。
 それは「家政婦として住み込みで働くこと」だった。
 もちろん給料は高額。
 しばらく考えたむぎだったが、生活費やこれから先の事を考え、それを受け入れたのだ。
 もちろん、学校側には内緒である。
 何故通いでなく住み込みなのか?
 それは、毎日の送り迎えに関係している。
 毎日、学校が終わってから仕事をしていれば、夜になるのは当然。
 むぎは年頃の女の子である。夜道を一人で歩かせるのは危ない。
 それならば、いっそ住み込みのほうが都合がいいと考えたのだ。
 これまで一緒に暮らしていたのだ、いまさら戸惑うことも無い、とむぎもあっさりと納得した。
 それを知っているのは、親友の夏実。そして、教員時代はなにかとむぎを目の敵にしていた、遊洛院十和子だった。
 十和子とは、いまはいい友人関係を築いていた。






「あ、十和子!」
 カフェテリアで一人テーブルについていた美少女に気付き、むぎがうれしそうに駆け寄っていった。
「姫神さんと白崎さんは?」
 十和子の取巻きの姿が見えず、むぎはキョロキョロとあたりを見回した。
「彼女達なら、少し用事があるとか……。お座りになったら?」
「わ〜い、じゃあ一緒にご飯食べよう!」
 十和子に同席を促され、むぎはうれしそうに椅子に座った。夏実もくすくすと笑いながら席に着く。
 早速やってきたウエイトレスにランチを注文すると、彼女達はおしゃべりに花を咲かせ始めた。





 
「このイチゴゼリーおいし〜」
 食事が終わり、ランチについていたデザートのイチゴゼリーを一口頬張って、むぎは幸せそうな声を上げた。
 ランチセットのイチゴゼリーと馬鹿にするなかれ。
 人気ケーキ屋顔負けのおいしさである。
 きらきらと宝石のように輝くゼリーの下には、しっとりとしたムースが隠れている。
 さすが祥慶学園!とむぎは妙なところで感心してしまった。





「幸せ〜!おいしいよ〜」
「じゃあ、僕にも一口頂戴?」
「ぐっ!」
 いきなり両肩にずしりと重みがかかり、むぎはスプーンを銜えたままつぶれたような声を上げた。
「むぎちゃん、その声はないんじゃない?」
 色気もなにもないむぎに、あきれ返った声がかかる。
 衝撃から一瞬にして復活したむぎが、声の方へキッときつい視線を向けた。
「瀬伊く〜ん……。いきなり現れないでよ。びっくりするじゃない!」
「だってあんまり楽しそうにおしゃべりしてたから、声かけそびれちゃって」
「…………」
 うそだ。絶対、むぎを驚かそうとしてこっそり近寄ってきたに決まっている。
 しかしむぎはそれを口にするほど愚かではなかった。
「味見させて?」
 むぎの背後からその肩に腕を回した祥慶学園の妖精は、ふんわりとした笑顔をむぎにむけた。
 その笑顔が邪悪に見えるのは、気のせいなのだろうか?
 カフェテリアはラ・プリンスの一人、一宮瀬伊の出現に華やかなざわめきと、その瀬伊にかまわれるむぎに対する怨嗟の声に包まれていた。





 むぎがラ・プリンス達の寵愛を受けているのは、周知の事実。
 だが、女生徒達の感情は納得できていないのだ。
 どうして、あんな庶民がっ!と……。





「……瀬伊さま。どうぞお座りになって…」
 テーブルに集中する恨みの視線に耐え切れなくなったのは、視線を向けられている本人ではなく十和子だった。
 微かに声を震わせながら、十和子は空いている椅子をむぎの背中に懐いている瀬伊に勧めた。
 しかし暗にむぎから離れて下さい、と言われているのを分かっているのかいないのか、元凶の瀬伊はにっこりと十和子に微笑を返した。
「僕、すぐ行くからいいよ。むぎちゃん、味見」
 味見させてくれるまで離れないよ?と、無敵の笑顔。
 むぎは溜息を吐きつつ、イチゴゼリーの入れ物を瀬伊に差し出した。
「はい、どうぞ」
「え〜、食べさせてくれないの〜?」
「食べさせません!!」
「けちー」
 ……瀬伊の理不尽な一言に、むぎのこめかみがぴくりと引きつる。
 しかしここで事を起こすわけにいかないと分かっているむぎは、もう一度瀬伊にイチゴゼリーを押し付けた。
「つまらないな〜」
 ほんの少しだけ唇を尖らせ、身を起こした瀬伊はイチゴゼリーを受け取ってスプーンに一掬いした。
「あ、おいしいねぇ……。むぎちゃん今度作って」
 語尾にハートマークがついていると思うのは、気のせいだろうか?
「はいはい……」
 むぎは瀬伊から返してもらった、イチゴゼリーを疲れ気味に口に運んだ。
「あ、間接キスだ〜」
「けほっ!」
 瀬伊の指摘に、イチゴゼリーを喉に詰まらせるという器用なことをしたむぎがむせる。
「一宮さん。あまりすずをからかわないでください」
 こほこほと咳き込むむぎの背を擦りながら、夏実が瀬伊に抗議した。
「ごめんね〜。でも事実だよ?」
 妖精の微笑みは何処までも透明で……。
 たとえ、その背中の向こうに黒い尻尾が揺れていようとも……。
「瀬伊さま……」
 十和子の声も、すでに疲れきっている。
 瀬伊を囲む3人の気持ちなど分からない周りの女生徒からは、羨望と憎悪の眼差しがバシバシと飛んできていて、本当に理不尽である。
「先に間接キスしたの瀬伊くんじゃない!」
「あ、そうか……」
 復活したむぎが、ぷんすか怒りながら再びイチゴゼリーを口に運んだ。
 スプーンは替えない。
 ここで瀬伊の言葉に反応して替えようものなら、またどんなからかいがくらわされるか分かったものではない。
「もう!!」
 ぷんっと顔を逸らしたむぎの髪が風で揺れる。
「むぎちゃん、その香り……」
 瀬伊の鼻先を掠めた微かな香り。
 その言葉に夏実は先ほどの疑問を思い出した。
「あ、やっぱり一宮さんも気付きました?すずの香り」
「私も気付きましたわ。いつもはむぎから香りなんてあまりしないのに」
「え〜?くさいの?」
 3人の指摘に、むぎが慌てて腕を鼻に寄せる。
 その仕草に、十和子が不快気に眉を寄せた。
「誰がくさいっていいました?微かに、すっきりとした爽やかな香りがしますのよ。シャンプーを替えたんじゃなくて?」
「替えてないよ。ねぇ、瀬伊くん?」
「うん、替えてないね」
 ……どうしてそこで、なんの躊躇いも無く男に聞くのだろう?
 夏実は相変わらず天然なむぎに眩暈がする。
「なんの香りなんだろう?自分じゃ気付かないんだけど……」
 本当に不思議そうに自分の髪を鼻先に近づけるむぎに、瀬伊が優しく尋ねる。
「何の香りか知りたいの?」
「え?知ってるの?瀬伊くん!」
 ぱっと顔を上げるむぎ。
 夏実と十和子もそろって美貌の妖精を見つめた。
「うん、心当たりはあるよ」
「教えて!」
「知りたい?」
「うん」
「私も知りたい」
「私もですわ」
 興味津々に身を乗り出してくる女の子達を見渡し、瀬伊はそれは見事な美しい微笑を見せた。






「それ、松川さんのコロンの香りだね」







「………………………………………は?」
 鳩が豆鉄砲を喰らった顔とはまさにこのことか。
 瀬伊は聞こえなかった?と首を傾げた。
「松川さんのコロンの…」
「わー!!何回も言わなくていいよ!!」
 真っ青になって慌てるむぎと正反対に、瀬伊は大層な上機嫌だ。
「あ、心当たりあるんだ〜。むぎちゃん」
「無いっ!心当たりなんて全然ないっ!」
「へぇ……」
 物言いたげな視線が痛い。
 ズキズキと突き刺さる。
 特に両脇から……。
「すず?」
「むぎ?」
「いや、だから、これは……」
 剣呑な光りを宿す親友達の視線に、むぎは思わず椅子ごと後ずさってしまう。
 2人ともむぎと依織の関係は知っているのだが、さすがにこれは許せない。
「むぎちゃん、昨夜なにしていたの?」
 顎に指先を当てて、にっこり邪気の無い笑みを浮かべる瀬伊。
「何って……」
 だらだらだらだら…、背中に嫌な汗が流れていく。
 その時だった。






「楽しそうだね、何を話しているの?」






「松川さん!」
「松川さま!?」
 制服のジャケットを無造作に肩に掛けた依織が、ズボンのポケットに軽く指を引っ掛けた姿で颯爽と近づいてきた。
 長身の依織が現れ、カフェテラスの女生徒達は小さく黄色い声を上げた。
「噂をすればなんとやら、だね。松川さん」
 くすくすと笑う瀬伊に、依織は訝しげな視線を投げた。
「どんな噂をしてたんだい?」
「ん?悪いことじゃないよ。ねえ?むぎちゃん?」
「あ、うっ……」
 むぎはあらたなプリンスの登場に、声を失くしていた。
「むぎちゃん?どうしたの?大丈夫?」
 真っ青になっているむぎに、依織が少しだけ背を屈め顔を覗きこむ。
 すると、一瞬にして青かったむぎの顔が、真っ赤に染まったのだ。
 そしてむぎは依織から飛び離れて、わたわたと立ち上がった。
「あ、私、午後の授業の予習しなくちゃいけなかったんだ!先に教室に帰るね!じゃっ!!!」
 引きつった笑いでチャッと手を上げると、むぎは一目散にその場を逃げ出したのだった。






「丘崎さん。午後は体育の授業じゃなくって?」
「そうね。予習なんてしようがないはずよ」
 残されたクラスメート二人は、怪しすぎるむぎの態度に心の中で洗いざらい吐かせることを誓った。






「あ〜あ、逃げちゃった。残念」
 脱兎のごとく駆けていくむぎの後姿を見送りながら、あまり残念そうでもない瀬伊が、腕を組んで軽く肩をすくめる。
 その瀬伊を依織はちらりと流し見た。
「むぎちゃんに何をしたんだい?瀬伊」
「え?嫌だなぁ。僕は何もしてないよ。松川さん」
「そうかい?そのわりには、むぎちゃんの態度が変だけど?」
「それは松川さんの所為じゃない?僕は事実を教えてあげただけだよ」
「事実?」
 話が分からない依織が、僅かに目を細めた。
「むぎちゃんから、松川さんのコロンの香りがするって」
「……それは…」
 依織にしてはめずらしく、一瞬言葉に詰まる。
 その様子に、瀬伊はかるく眉を上げた。
「ふうん……。心当たりがあるんだ。珍しいね、松川さんが動揺するなんて」
「……ご想像におまかせするよ」
 依織は綺麗な余裕の微笑を見せ、瀬伊の挑発を軽くかわした。
 それは決して心の奥を見せない、うわべだけの笑み。
 瀬伊は、つまらなさそうに息を吐いた。
「やっぱりむぎちゃんの方がおもしろいや」
「といって、あまり遊ばないようにね。何を食べさせられるかわかったものじゃないよ?」
「はいは〜いっと。さてと、僕はもう行こうかな。じゃあね」
 瀬伊は、そういうとあっさりとその場を立ち去った。






 その後、親友2人に囲まれたむぎは、本当に真相を洗いざらい吐かされたのだった。






「瀬伊くんのばかーーーー!!」
 むぎの叫びは空しく青空に響いたのだった。









                    back