暗い廊下が奥から順々に明るくなる。その明かりに導かれるようにアイは足を進めていた。
(今日も雑魚だった)
 独り、ほぅと息をはき、慌てて彼女は辺りを見回した。誰も周りにはいない。
 磨かれた白い床は、光を反射させ眩しい。一日の通行量がたったの五人ほどでも、毎日掃除されているのだから仕方がないが。
 アイはなるべく下を見ないようにしてとにかく歩いた。
 右へ曲がり、左へ曲がり、再度左へ曲がる。
 白い廊下は迷路のようだ。実際に迷路として作られたのかもしれない。ふと余計な考えが彼女の頭に浮かんでは消えていった。
 一つのドアの前にアイが止まると、音をたてドアが自動で開いた。
「お帰り、アイ」
 やわらかな男の声に、アイは顔に小さな笑みを浮かべた。
「ただいま戻りました、教官」
「アイ、こっちに来てくれないか?」
 言われた通り、部屋の奥へと彼女は向かった。そこにはカーテンが掛けてあり、普通の人間では立ち入ることは許されない。しかし彼女は特別だった。
 布の隙間に身体を滑り込ませ、カーテンの向こう側の男を見た。
男は寝間着姿でベッドに上半身を起こし、彼女に小さな笑みを向け
ていた。
「お父さん、起きててもいいの?」
「ああ、薬を飲んだからね。ところでアイ、今日の仕事はどうだった?」
 七十歳ほどの老人である。頭には少々白髪が混ざっているが、そこまでは目立たない。
 尋ねる老人にアイは苦笑して見せた。脇に抱えていた封筒を老人に差し出す。
「とっても小者だった。私が出なくても十分だったと思うんだけど……」
「でもまぁ、要請があったのだから仕方がないだろう?」
 老人は言った。
「そうね。でももう少し考えてから呼んで欲しい」
 アイの言葉を聞き、老人は失笑した。
「あー、お父さん! 笑わなくてもいいじゃない!」
 アイが頬を膨らます姿は、到底二十歳の女性には見えない。しかしこのような顔ができるのは老人の前だけで、多くの人間の前では冷たいと言われる表情ばかりしていた。
「すまないすまない。九年前に比べてとても変わったと思ってな」
「もぉ、その話はなしでしょって言ったじゃない」
 そう言えば、と彼女は九年前の事を思い出した。
 九年前、アイは身寄りもなく、スラムで行き倒れの状態で老人に発見された。それ以来二人は本当の家族のように暮らしている。老
人は彼女の養父であり、仕事上での上司である。
「それじゃぁ、お父さん。私そろそろ仕事に戻るね」
「無理してけがをしないようにな」
「はいっ」
 短く返事を返し、アイは部屋から退室した。すぐさま緩んでいた顔を引き締め直した。
 微かな物音がした。
 鋭い藍色の瞳が動く人影を捕える。こんなところに人がいることなどそうないはずである。
「そこにいるのは、誰?」
 多少きつい口調でアイは尋ねた。
 びく、と肩を縮ませ、右廊下から現れたのは、金髪の少年だった。
「す、すみませんアイさん。道に迷ってしまって……」
 申し訳なさそうに頭を下げる少年の名は、確かリークと言ったか。アイと同じ職務に就くにはまだ幼すぎる気がしたが、彼の持ち合わせた力が人並み外れているとうわさに聞いたことを思い出した。
「別に謝る必要はないわ。右に二回曲がって、左に曲がれば多分知っている場所に着くはずよ。早く仕事に戻りなさい」
 アイは普通に言ったつもりだったが、リークには厳しく聞こえたのかもしれない。彼は再度深く頭を下げてから、逃げるようにして
アイの前から立ち去った。
 まだ半人前と呼ばれている少年の背を見つめ、アイはため息をついた。
「やっぱり、私ってきついかしら?」
 いつもこうなのだ。誰もがアイをおびえた顔や、冷たい目で見る。
優しい顔で彼女を見てくれたのは、老人と亡き兄だけだった。
「仕事に戻ろ……」
 気を取り直し、コンピューターに囲まれた仕事場へとアイは戻った。ここで出動要請が出るのを待っていればいい。そうあることではないが。
 彼女の出動が少なければ少ないほど、世界が平和なのだと彼女自身分かっている。
 
 アイは『Blue・Eyes』と呼ばれる、国家機密クラスの特殊部隊の隊員だった。特別な力、俗に言う魔力――特別な遺伝子配列を持って生まれた人間が、自然の力と類似した力――を持ち、特別な訓練を突破してきたエリートだ。互いに偽名で呼び合うのが約束である。
 魔力を扱う者は目が青く染まる。これが部隊の名の由来であった。
 一体彼らが何をしているかと言うと、未登録の魔術師の登録や魔力を間違った使い方をしている魔術師を逮捕するのが仕事だ。 何台もあるコンピューターの中で彼女は小さな一台の前に腰を降ろした。これだけがノート型である。実はこのコンピューター、彼女が勝手に持ち込んだ私物だった。
 メールポストを開く。入っていないことなど分かっているアイに、始めて聞くメール着信音が聞こえた。
「一体、誰から」
 慌ててアイはメールを開いた。そこには使われることがなくなった文字が打ちこまれている。
 ――鬼ごっこをまたしよう。結崎冬也より
 普通の人間にわかることのない文字を見て、アイは唇を噛んだ。
口の中に血の味が広がる。
「もう、死んだと思ったのに……」
 胃が軋んだ。
 トウヤ・ユイザキ、生きていればニ十代後半ぐらいだろう。アイが担当した違法魔術師であり、アイが初めて殺してしまった魔術師でもある。
 約一年前――彼女が威嚇のために放った魔術を、ユイザキはなぜか避けようともせず、自ら命を絶ったかのように見えた。
「何故いまさらでてくるの?」
 モニタに向かい、アイは悪態をついた。
(せっかく、忘れられたと思っていたのに……)
 しばらくの間、モニタを睨みつけていたアイは、すっくと立ち上がった。 ソファに放り投げていたコートを引っ掴み、アイは部屋をあとにした。