「緑茶売り切れ…。ウーロンでいいかな?」
購買部前の自販機のワンパターンな品揃えをチェックし、望美は手に持っていた財布から硬貨を取り出して投入口へ視線を移した。
その瞬間、ふっと何かが顔の横を掠める。
何事かと振り返る間もなく、視線の先の自販機の投入口が、バンッと音を立てて後ろから伸びてきた手に塞がれた。
「え!?」
「久しぶりだね、望美ちゃん?」
耳元で囁かれる、低い笑いを含んだ透き通った声。
望美は驚愕に目を見開いて振り返った。
「やっぱ当たりだ。さすがだね、オレ」
「ど、して…?」
突然現れたヒノエに驚いて、望美の声が掠れる。
ヒノエは望美の顔を覗きこみ、得意げに軽く片目をつぶって見せた。
「ふふ…。渡り廊下を歩いてただろ?」
「あ…。確かに通ったけど……まさか、見えたの?」
この購買部は管理棟にある。
望美たちの教室からは、渡り廊下を通らないと行けないのだが、ヒノエ達が作業している場所から望美が使った渡り廊下は離れている。見えたとは思えない。
だがヒノエは自信たっぷりに口の端を上げた。
「望美なら、シルエットでもわかるよ」
「嘘ばっかり!」
ヒノエの軽口を、望美は間髪いれず否定した。
ヒノエとはたった一度、出会っただけだ。
しかも言葉を交わしたとはいえないくらいの短い時間。
ただすれ違っただけと言ってもいいような、一瞬の邂逅。
望美はテレビやポスターで見る『グリフォンのヒノエ』を知っているが、ヒノエがあの一瞬に等しい時間で望美をはっきりと覚えているなんて信じられなかった。
警戒心も露に睨み付けてくる望美へ、ヒノエは口元に苦笑いを浮かべてみせた。
「酷いな」
「酷いのはどっち?仕事なんでしょ?からかうのもいいかげんにして」
ヒノエの笑顔は望美にありえない夢を見させる。
それが望美には怖かった。
期待を抱くだけ無駄な夢なら、見ないほうがいい……。
望美は、ふいっとヒノエから視線を逸らして自販機に戻した。
これ以上、ただのからかいで自分の心を乱してほしくなかった。
彼が現れただけで、こんなに胸が高鳴ってる。
それを知られたくない。
彼は遠い世界の人だから……。
少しでも自分を気にしてくれてるなんて。
そんなはずは無いから。
ありえない甘い夢は見たくない。
「手、どけてくれない?」
冷たいくらいそっけない望美の態度に気を悪くするでもなく、ヒノエは素直に自販機から手を引いた。
「なあ、名前教えてくれないかい?」
ヒノエはぴりぴりとした空気をはらんで背中を向けた望美を、ひょいと横から覗き込む。
「さっき呼んでたじゃない」
望美は表情を強張らせたままヒノエと目を合わせず答え、自販機に硬貨を入れボタンを押した。
二人以外誰もいない廊下に缶が落ちる音が大きく響く。
「フルネームだよ。あれは望美の友達が呼んでたから知っただけ」
そういえばヒノエに手を掴まれて呆然とする望美に、『望美!』と呼んで意識を引き戻してくれたのは一緒にいた朔だった。
そして我に返った望美は、その手を振り払ってヒノエの前から一目散に逃げたのだ。
「教える必要性を感じないわ」
「冷たいね」
「冷たくて結構よ。からかうつもりなら、もうやめて」
「……手強いな」
隙を見せない望美に、ヒノエが軽く息を吐いた。
「あなたの気まぐれに付き合ってる暇はないの」
友達から頼まれた飲み物を腕に抱え、望美が身体ごと振り返った。
そしてきつい眼差しでヒノエを見上げた。
「どいてくれない?」
取り付く島も無いとはこのことだ。
あまりに頑なになっている望美に、ヒノエはかるく肩をすくめて一歩横に避ける。
自分の前に道がひらき、望美が微かに息をついたのをヒノエが気付いた。
望美の綺麗な横顔はどこか緊張していて……。
ヒノエを意識していますと、全身で信号を発しているようなものだった。
ふっ……、とヒノエの唇に薄い笑みが浮かぶ。
ヒノエの表情の変化に気付かず、まっすぐに前を見て歩き出そうとした望美に、いきなりヒノエが手を伸ばした。
あまりにもすばやい動きで、避けることはできなかった。
「あ!」
「いただき」
胸ポケットから鮮やかに抜き取られた生徒手帳が望美の目の前をすっと横切った。
「春日望美ちゃんね…」
ヒノエは、生徒手帳の表紙を器用に片手でぱらりと開き、望美の学生証を眺めた。
「返して!」
抱いた飲み物を落とさないよう気をつけつつ、望美は片手で盗られた手帳を取り戻そうと手を伸ばす。
しかしヒノエは望美の手をひらりとかわして、それを頭上に掲げた。
背の高いヒノエにそうされると、望美の手は背伸びをしても届かない。
軽く飛び上がるようにしながら、手帳を取り返そうとする望美の手を、ヒノエは右に左にと翻弄した。
「返して欲しいかい?」
本人は必死だけれど、見ているヒノエからすれば、子猫がじゃれているような可愛らしさだ。
ヒノエは機嫌よく笑いながら、手帳を餌に望美をからかう。
「ふざけないで!」
余裕綽々のヒノエが腹立たしくて、思わず望美の語気が荒くなる。
苛立つ望美を逆撫でするように、彼女を見下ろしてヒノエが軽く口笛を吹いた。
「怒った顔も可愛いね」
「ヒノエくん!!」
ヒノエは手帳を取り返そうとしている手を掴んで、ぐっと望美に顔を近づける。
そしてその強い眼差しをすっと細めて、望美の瞳を覗き込んだ。
「ただでは返せないな」
間近に迫った美貌に、望美が思わず顎を引く。
でも負けん気の強い望美は、ぐっとおなかに力を入れて、意地だけでヒノエの目をまっすぐ見返した。
「ふざけるのもいいかげんにして!」
学生証は身分証だ。なければ色々と困る。
第一、生徒手帳の携帯は校則でもあった。
奪われた生徒手帳を取り返そうと、再び躍起になる望美の攻撃を避けながらヒノエが楽しそうに笑う。
その屈託のない笑顔に、望美は一瞬見惚れてしまった。
グリフォンのヒノエとして作った表情ではない、年相応の素顔。
同年代の男の子にこんな事を思うのは悪いかもしれないが、ヒノエを可愛いと感じてしまった。
ヒノエに一瞬目を奪われ、攻撃の手を緩めた望美に、ヒノエがいきなり手を差し出した。
「?」
「返して欲しかったら、携帯出して」
「は?」
「携帯だよ。ほら、さっさと出す」
ヒノエの勢いに押されて、望美は思わずポケットから携帯を取り出してしまった。
幾つかつけたストラップが、シャラリと音を立てる。
ヒノエはそれを受け取ると、開くぜと申し訳程度に断ってからパカリと開いた。
「あ……」
望美が止める隙などなかった。
ヒノエは慣れた手つきでいくつかボタンを操すると、携帯を開いたまま望美の手に戻した。
「?」
ヒノエの行動の意味が分からず、望美が不思議そうに首を傾げ、携帯の画面に視線を落とした。
そこには090で始まる11桁の数字が並んでいる。
「これって……」
「オレの携帯の番号。そのままかけてよ」
突拍子もない申し出に、望美が勢いよく顔を上げた。
「何で私が!!」
「一応、無理強いはしないつもりなんでね。オレの携帯に伝言残しておいてよ。時間が空いたらかけるからさ」
「だから何で!?」
「え?デートの待ち合わせを決めないといけないだろ?」
「デート?!」
驚きすぎて望美の声が裏返った。
大きな瞳を驚きで見開いた望美に、ヒノエは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
「デートの時に、これ返してあげるから」
「何言ってるのよ!?」
突拍子のない条件に、望美が声を荒げる。
しかしヒノエは楽しそうに笑うばかり。
「連絡待ってるぜ」
ひらひらと見せびらかすように頭上で望美の生徒手帳を振り、ヒノエはくるりと身を翻して足早に去って行ってしまった。
それこそ望美が止める暇も無く。
まるで嵐のように望美を翻弄して、ヒノエは姿を消した。
望美は携帯とお茶を抱えたまま、呆然と立ち尽くすのみ……。
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