「おっそーい、望美!」
 教室に戻ると、出迎えてくれたのはお茶を待ちわびていた友達。
「…ごめん。緑茶無くてウーロンにしたけどいい?」
 伸びてきた手にそれぞれ頼まれたものを渡していく。
 友達は望美からそれを受け取りながらも、意識の大部分は校庭に向けているようだった。
「うん、ありがと。あ、そろそろ再開かな?」
「さっきヒノエ、戻ってきたからね。どーこ行ってたんだか?」
 友達の言葉に、望美の鼓動がひとつ跳ねる。
 ヒノエは今まで、望美の傍にいたのだ。
 そっと胸ポケットを押さえても、いつもある生徒手帳はそこにない。
 それこそが、ヒノエが近くにいた証…。






 友達に飲み物を配り終えた望美は、また窓からグラウンドを見下ろした。
 グラウンドではすでに現場に戻っていたヒノエが、弁慶と共にセットにスタンバイしているところだった。
 スタイリストに乱れた髪を整えてもらいつつ、弁慶と言葉を交わしてマイクスタンド前に立つ。
 先ほどまで望美に見せていた、軽薄なふざけた表情はどこにもなかった。
「やっぱグリフォンはかっこいいよね〜」
 うっとりと呟く友達は、自他共に認めるグリフォンファンだ。
 彼女からたくさんグリフォンの話を聞いた。
 今度、一緒にグリフォンのライブに行く約束もしている。







 望美にとって彼らは光の中の遠い存在だったのに……。







 望美はポケットに入れた携帯を静かに強く握り締めた。







「………」
 望美は自室でベッドの上に座って、目の前に置いた携帯を無言で睨みつけていた。
 あれから数日。ヒノエの残した番号は登録したけれど、まだ回線を繋げる勇気は出ないまま。
 それでもこのままではいけないと、ことあるごとに携帯を見ながらヒノエに連絡を取ろうとするが、いざとなれば手が強張ってしまう。
「生徒手帳、返してもらわなきゃ……」
 何度自分に言い聞かせるように呟いても、携帯をなかなか手に取れない。
 どうしていいかわからず、望美は幾度目か知れない溜息を吐いた。







「辛気臭い顔が鬱陶しいですよ」
「うるせーよ」
 雑誌の取材の合間に、何をするでもなく一点を見つめて考え込んでいるヒノエに、撮影から戻ってきた弁慶が声をかけてきた。
 弁慶は衣装のジャケットを脱ぎつつ、ヒノエの様子を窺う。
 ここ数日、ヒノエは人待ち顔で何かを考えながら、今まで必要最小限しか使わず、あまり興味を示さなかった携帯を手の中で弄んでいることが多くなった。





 もともとヒノエは携帯が好きではない。
 いつでもどこでも自分の時間を傍若無人に邪魔してくるそれがうっとおしいのだと、仕事用の携帯を持たせた時に文句を言っていた。
 ヒノエも弁慶も、仕事用とプライベート用と携帯を使い分けているが、二人ともあってもなくてもいいような扱いだった。
 それなのに、ヒノエは最近プライベート用の携帯を眺めているのだ。
 周りは誰も気づかなくても、長い付き合いの弁慶にはヒノエの些細な変化にいち早く気づいていた。
 今も難しい顔をしてヒノエが携帯と並べて見つめていたものに、弁慶が横からひょいと手を伸ばした。





「おい!」
 慌ててそれを取り戻そうとしたが、すでにそれば弁慶の手の中。
 弁慶はヒノエから取り上げた、手のひらサイズの小さな紺色の手帳をぱらりと開いた。
 そこにはかしこまって写真に写った少女の顔が刻印入りで貼り付けられている。
 その下には写真の少女の直筆と思われる、少し丸みを帯びた署名。
 弁慶は見覚えのあるその少女の顔に、すっと目を眇めた。
「春日望美さん……?……もしかして?」
 弁慶の脳裏によぎる、はにかむような笑顔が印象的な髪の長い少女…。
 女の子好きと言われながら、実は慎重なヒノエが珍しく一目で気に入り、弁慶が止めるのも聞かずにちょっかいを出した少女だった。
「そうだよ。返せ」
 ヒノエは苛立たしげに弁慶に盗られた手帳へ手を伸ばす。
 望美の事を誤魔化すつもりはないようだ。
 もっとも敏い弁慶を誤魔化せるとも思ってないが。
 必要な情報を仕入れた弁慶は、すでに用がなくなった手帳を、あっさりと差し出されたヒノエの手に乗せた。
「よく出会えましたね」
「まあな」
「どこで?」
「撮影現場」
 隠すつもりもないのか、ヒノエは弁慶の質問にするすると答えていく。
 最近の撮影現場で、ヒノエと同年代の少女と出会うチャンスといえば……。
「まさか、あの時?」
 たったひとつだけその場所を思いついて、軽く目を見開き驚く弁慶にヒノエが軽く頷いてみせる。
 瞬間、ヒノエの後ろ頭に、それはそれは綺麗な弁慶の手刀が入った。







「いってーな!何しやがる!!」
 ヒノエは弁慶を振り返り、殴られた後頭部を押さえて怒鳴った。
 そんなヒノエに弁慶は、仕上げとばかりにもう一度、握った拳を頭頂部に落とした。
「ってー!」
「あれほど言ったのに、君は校舎の中に入ったのですが?」
 弁慶が何に引っかかったのか、やっと気付いてヒノエがばつ悪そうに顔を顰めた。
「……管理棟だよ」
 不貞腐れてぼそりと呟いたヒノエへ、弁慶がにっこりと笑って見せた。
 目だけは例外だけれど…。
「僕達の立ち入りが許されていた管理棟の一階は、生徒の立ち入りが禁じられていました。そこで会ったというのですか?偶然、彼女に?」
 嫌味なほど、事実を並べ立てて問いつめてくる弁慶に、ヒノエは言葉を詰まらせた。
「……」
「ヒノエ?」
 僅かに掠れたやわらかな声が独特の調子でヒノエを促す。
 優しげであって無視を許さないそれに、ヒノエは小さく舌打ちをした、
「はいはい、オレが悪かったです。勝手に二階にあがりました」
 まったく反省の色がないヒノエだが、弁慶は呆れて肩を軽くすくめただけで、今度は手を出さなかった。
「二階で偶然に?いや、そんなはずはないですね」
「まあね」
「では、何故?」
「見えたんだよ、望美が。渡り廊下を歩いているのが」
「………さすが、と言っておきましょうか。狙った女は逃がさないということですか?」
「人聞きの悪い。…運命だよ」
 にやりとヒノエが笑う。
 弁慶は心底嫌そうに、眉間に皺を寄せた。
「…そんなクサイ台詞は歌詞にだけ使ってくださいね。それに運命というのなら、ヒノエの運命は今までいくつあったんでしょうね?」
 過去の所業に対しての嫌味に、ヒノエは思いっきり顔を顰めた。
「ほんっとむかつくよな、あんた」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
 天上の微笑みとファンに称される弁慶の甘い笑み。
 だが、ヒノエにはそれが悪魔の微笑に見えた。







「お願いしまーす!」
 ノックと同時にかけられた声。
 ヒノエは望美の生徒手帳と側に置いていた携帯を無造作にバッグへ放り込んだ。







 その携帯がバッグの中で震えたのは、ヒノエがスタジオの中央で眩いばかりのスポットライトを浴びている時だった。














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