私は求めたものを手放してしまったのだろうか?







「私は、何をしたかったの?……何を望んだ?」






 ヒノエが好きだった。
 彼を失うことなんて出来なかった。
 なのに今、望美はヒノエを失ってしまった。






 カツン…。






 不意に、窓ガラスに何かがぶつかった様な音がし、混乱する望美の思考を断ち切った。
 






「譲くん?」
 望美が立ち上がって窓を開けると、隣の家の窓から譲が立っていた。
「答えが出ましたか、先輩?」
 穏やかに微笑むその顔が、少しだけ切なく見えるのは、夜の暗さが作る翳ゆえだろうか?
 望美は頼りになる年下の幼馴染みを見つめ、ゆっくり首を振った。
「わかりそうでわからない…」
 このはっきりとしないもどかしい思いを、譲なら解決してくれるのではないかと考えてしまう。
 でも譲に頼ってしまっては答えが出ないのでは?とも思う。
 譲は望美の混乱する気持ちを分かったのか、一つだけ頷いて口を開いた。






「では聞きます。先輩は何故逆鱗を使いました?」
「……死なせたくなかった」
「誰を?」
「一度目はみんなを。二度目はヒノエくんを……」
「何故?」
「生きていて欲しかったから」
「どうして?」
「どうしてって……」
 譲からの矢継ぎ早の質問に答えながら、望美はひとつひとつ過去の記憶とその時の気持ちを辿っていく。
「一度目は全員を失い、みんなを助けようと思った。でもその中に『特別』は無かったですか?」
 特別……。
 思い浮かぶのは、鮮やかな紅を纏うあの人…。
「………時の狭間に落ちる直前の雨の中で、ヒノエくんを思い出したよ…」
「そして二度目もヒノエを助ける為に、時空を超えた」
「うん……」
 彼のあの笑顔をもう一度取り戻したくて、血を吐くほど泣き叫びながら逆鱗を握り締めた。
「ねぇ、先輩?あなたはどうしてヒノエを助けたかった?どうして生きていて欲しかった?」
「………好きだったから」
「ええ、あなたはヒノエが好きだった。だからヒノエに生きていてもらいたかった。では、その先は?」
「その先?」
 望美は、譲からの思いもよらぬ質問に眉を寄せた。
「ヒノエの生の先に、あなたは何を望みましたか?」
「……わからない…」





 生きていて!!





 あの時は逆鱗を握り締めて、必死にそれだけを願った。
「先輩は戦いが終わって、こちらの世界を選びました。もう、運命を書き変えることの出来ない世界を。それなのにどうして、後生大事に逆鱗を持っているのですか?逆鱗を砕いて白龍に返す。それが筋でしょう?」
「それは……」
「あなたが言えないなら、俺が言いましょうか?」
「譲くんっ!」
 聞きたくなかった、それが望美が気づかないようにしていた本音だから。
 しかし譲はきっぱりとそれを望美に突きつけた。
「逆鱗が唯一、今もヒノエとあなたを繋ぐものだからだ」
「…違うわ」
 震える声で、それを否定する。
 だが譲は静かに首を振った。
「違わない。ヒノエの生を掴んで、その先にあなたは自分の未来を重ねませんでしたか?逆鱗を見つめて、ヒノエを想い出しませんか?」
「……」
「あなたは、今、俺が逆鱗を預けてくれと言ったら、手放せますか?………ヒノエとの時間を繋ぐ、ただひとつのものを」 
 逆鱗を失う?
 望美はそれを考えて、思わず唇を震わせた。
「……私は」
「先輩はいつだって前向きにあの時間を生きてきた。……らしくないですよ」
「譲くん…」
 譲が小さく微笑みを浮かべた。
 優しい、いつでも望美を守ってきた顔で。
「俺は先輩が好きでした。幼馴染みじゃなく、一人の女性として。……あなたは気付いてなかっただろうけれど」
「……譲、くん?」
 突然、想像もしていなかった譲の告白に驚愕し、望美は大きく目を見開いた。
 その驚きように、譲のほうが苦笑してしまう。
「先輩がこちらへ戻ると決めたとき、正直チャンスだと思った。ヒノエよりもこちらを選んだのなら、俺にもまだ望みはあると……。でも違った。あなたはヒノエを忘れはしない。忘れられない……」
「………」
「俺はね、先輩が逆鱗を白龍に戻せる日が、すべての区切りだと思うんです。……ヒノエを忘れて、ここで生きていきますか?」
「………忘れるなんて出来ないっ!」
 ヒノエを忘れる日なんてありえない。
 何を犠牲にしても、生きていて欲しいと願った、ほど、深く愛した人を忘れるなんて。
 





 ヒノエを助ける為に、歴史を塗り替えるという禁忌を犯した。
 清らかな神子と崇められながら、ヒノエの前で愚かな女を晒して見せた。
 それほどにヒノエが好きだった。







 迸る様な望美の叫びを聞きながら、譲はどこかすっきりとした表情を浮かべた。
 自分の想いを告げたからか、望美の本心を引き出したからか……。
「先輩は自分が運命を書き換えたから、誰かの運命を狂わせて命を奪ったと言いましたね。でもそれさえも運命だったら?それに、俺やヒノエのように、先輩が運命を書き換えたからこそ、助かった命もたくさんあったのかもしれない」
「譲くん?」
 譲の思いもよらない言葉を、すぐには理解できなくて、望美は小首を傾げた。
「白龍という神がオレ達をあの世界へ召喚した。そしてその力を知っていて、白龍は逆鱗を先輩に渡した。……もしかすると、先輩が運命を書き換える事も運命だったのかもしれない。……上手く言えませんが」
 譲は自分の考えを上手く言葉に出来ないもどかしさに苦笑して、軽く指先で眼鏡のフレームを押し上げた。








 運命を上書きすることも、定められた運命のうち……?








「運命は人が切り開くものと言います。だったら先輩がしたこともその一部だったのかもしれません。先輩は逆鱗を使っても、変えられる運命と変えられない運命があると言っていましたね?ヒノエの運命が、逆鱗によって変えられたのなら、それが本当の運命なのかも…。それに、先輩が逆鱗を使った事によって。奪った命の数と同じく、助かった命もあるのでは?……本当のところは誰にも分かりませんが」
「譲くん…」
「ただ、俺はいつでも先輩の味方ですから、都合のいいように解釈してるだけかもしれませんが。でも、そろそろ逆鱗を白龍に返しましょう。でないと、先輩はいつまでもその苦しみから逃れられない。逆鱗は砕いたら白龍と同化するんでしたね。……どこでなら、砕けますか?」
 穏やかで切なげな譲の微笑み。
 年下なのに、はっとするほど大人びた彼をしばし見つめ、やがて望美がしっかりと頷いた。
 すっきりとした迷いの消えた笑顔で。
「先輩…」
「私、馬鹿だったね。こんなに好きなのに。どうしてヒノエくんの手を取れなかったんだろう?」
「……行きますか?」
 どこ、とは聞かないし、言わない。
 行く先はただひとつしかないから……。
「うん。譲くんと話して、気持ちがすっきりした。私がやった事はもう変えられないけど、私はもう一度行くよ」
「……ヒノエは、もう先輩の事を過去にしているかもしれません」
 厳しい言い方かもしれませんが…。
 言いにくそうに、それでもはっきりと告げてくれる譲の優しさがうれしかった。
 ありえそうな厳しい予想だが、望美は晴れ晴れとした顔で笑った。
「それでも行く。行って、白龍に逆鱗を返す。……どうなっても、もうこちらへは戻ってこない。将臣くんのように……」
「想いがかなわなくても?」
「ダメだったから、こっちに帰ってくるなんて、虫のいい話だと思わない?もうヒノエくんの側には行けないかもしれないけれど、私はヒノエくんが生きている世界を感じていたいの。それに、何度も自分の都合で、逆鱗を使って時空を超えられない気がする。
たぶん、これが最後のチャンスだと思う。ハンパな気持ちじゃいけないよ」
 望美の眼差しの中の固い決意を、譲は複雑な思いで見つめた。
「…いい顔ですね。それでこそ俺の好きな先輩だ」
「ありがとう。譲くん。そして………、ごめんね」
 気付かなくて、甘えてばかりで……。
 譲は苦く笑って首を振った。
「謝らないで下さい。情けなくなるから…」
「うん。本当にありがとう」
「行く時は、一言声をかけてください。…でも、見送りはしませんよ?」
「うん。見送られると淋しくなるからいいよ。……譲くんとは、また会えると信じてるから」
「そうですね……」
 ふたりは、そっと笑って、いつまでもたわいない話でその夜を過ごした。








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