「綺麗……。桜の花びらのようだね……」
望美は住み慣れた自分の部屋の窓から差し込む光で、逆鱗を透かして見た。
淡い燐光を放つそれは、不思議な色合いで光を弾いていた。
やるべきことはやった。
両親に宛てた手紙、そして譲への手紙。
それらを机の上に置いて、望美はこれからこの世界を旅立つ。
あちらへ行くと決心を固めてから、ゆっくりと見て回った自分が生まれ育った世界。
愛しくて、大切だった暮らし。
友達ともたくさんおしゃべりをして、笑って遊んだ。
たわいない話を、深く心に刻み込んだ。
大切な世界。少し前までは、ここで時間を積み重ねて行くのだと思っていた。
でも気付いてしまった想い……。
気付けば、もう我慢は出来なかった。
逢いたくて、逢いたくて………。
だから、望美は旅立つと決めた。
たった一人のあの人に、想いを伝えるために……。
「さようなら。そして……、ありがとう……」
窓から見える風景が涙で揺れる。
けれど、望美は天を仰いで涙を零さなかった。
これは自分で決めたことだから……。
望美は一つ息を吐くと、逆鱗を手のひらに乗せ、両手の指を絡ませて合わせた。
そして、祈るようにその手を額につけて目を閉じる。
「ヒノエくんっ!」
望美は万感の思いを込めて、その名を口にした。
伸ばした指先さえ見えない深い闇。
それなのに白い靄が渦巻いているのだけは見える不思議な空間。
少しでも気を抜けば、何処へ流されてしまうか分からない。
四方八方から強い誘いの波を感じながら、望美は逆鱗を握り締め、懸命に祈った。
ヒノエへの想いを胸に抱いて。
遙か時空の向こう、彼の元へと……。
「……ここは?」
遠く離れていた意識が、ふっといきなり身体に戻ったような感覚に包まれ、閉じていた瞼に明るい光を感じ、望美はゆっくりと目を開いた。
周囲は緑溢れる木々が豊かに生い茂った森。
白龍の力だろう。初めてこちらへ飛ばされた時のように、いつの間にか着ているものが変わっている。
そばにいなくても、神である白龍は神子の望美を見守っているということだろうか?
ただ以前と違うのは、その服が戦闘向きではないだけだ。
前は『龍神の神子』として有無を言わさず召喚された。
今回は望美自身の意思で時空を超えた。
望美はとりあえず状況を把握しようと、握り締めていた逆鱗を袂に入れて歩き出した。
「あ、本宮……?」
あの夏に熊野水軍の力を借りる為、頭領を訪ねて来た時に敦盛が弾かれた結界の場所を通りかかり、望美はやっと自分の居場所を知った。
変わらない風景が懐かしい。
「このまま本宮に向かっちゃおう」
ヒノエがどこに居るのか情報収集すべきかと思ったが、熊野水軍のお膝元であまり怪しい動きをしてトラブルに巻き込まれたくない。
それになにより、ヒノエに少しでも早く会いたかった。
全身全霊でヒノエを想って、上も下も時間も空間も判らない時空を必死に超えた。
ここに望美が現れたのは、もしかしたら白龍の計らいがあるのかもしれない。
いつでも神子を見ていると言ってくれた優しい神…。
だからヒノエは絶対にここにいる。
望美は強い確信を抱いて、本宮へ向かった。
「不在?」
「ああ。昨夜まではいらしたんだが、朝早く出かけられたよ」
望美が見上げるほど長身の男は、腕を組んで望美にそういった。
がっしりとして日に焼けた逞しい男は、少しだけ面白そうに望美を見ていた。
どうやらヒノエを追ってきた女と思われているらしい。
そういえば、あの夏の熊野でも別当を追いかけている娘と思われたっけ……。
ふと浮かんだ、懐かしい思い出に望美がくすりと笑う。
相変わらず、ヒノエは女の子に追いかけられているのだろうか?
彼はとても目立つ存在だ。
纏った艶やかな色彩と、その綺麗な容姿に目が行かないなんてありえない。
しかも熊野別当という地位もある。
そんな彼に甘い言葉を囁かれて、舞い上がるなというほうが無理かもしれない。
望美自身、ヒノエが囁いてくれる言葉の威力をよく知っているから……。
望美は、女の子を口説くヒノエを想像し、苦笑しながら男を見返した。
「戻るのは?」
「さあ?別当殿は忙しくて身軽だ。お戻りになるかどうか………」
頭領の予定はある程度把握しているだろうが、何者かわからない望美に軽々しくしゃべるような愚かな男ではないらしい。
それにヒノエは相変わらず自分の目で物事を確かめないと気がすまないようだ。
望美は、わかりましたと素直に頷いた。
「また出直します」
あっさりと引き下がる望美に、男はどこか心配そうに望美を見下ろした。
「……悪い事を聞くかもしれないが、あんたが会ったのは本物の別当殿かい?」
「え?」
何のことだろう?偽者の別当がいるのだろうか?
首を傾げる望美に、男は苦く笑って続けた。
「ここ最近、別当殿を訪ねてくる娘は多いが、どうやら別当殿を語る男に騙されているようなんだ。こちらもなんとかしたいと思っているんだが……」
言外にお前も騙されているんじゃないか?と問いかけているようだ。
しかし望美は小首を傾げてにっこりと笑った。
「大丈夫です」
その笑顔に、少しの不安も見えない。
男は小さく溜息を吐いた。
「そうか……。別当殿は平家との戦が終わってから、ずっと忙しい。女性の相手をしている暇はないと思うがね……」
「私が相手をしてもらっていたのは戦の間だから……」
「え?」
望美の言葉を耳にして、男が不思議そうな顔をした。
そう、ヒノエと過ごしたのは戦の間だけ。
ただそれだけなのに、何故今もヒノエに想ってもらっていると感じるのだろう?
立場的には、ヒノエを振った望美だ。
すでにヒノエにとって過去の存在になっていておかしくない。
でもヒノエはあの時、頭領としての立場を曝け出して望美を求めてくれた。
その言葉を信じている。
「それに…」
望美は男に、さらりと長い髪を軽く掻き上げて見せた。
「私にはこれがあるから……」
望美の耳元で揺れるのは、美しい細工が施された真珠の耳飾りだった。
「あいかわらず賑やかだなぁ……」
熊野の町は活気に満ちている。
持て余した時間で望美は市に立つ店をのんびりと覗いていた。
ヒノエが愛するこの土地の活気は、ヒノエ自身の息災を教えてくれるようだ。
熊野の空気に触れるだけで、望美はなんだか嬉しかった。
「あ、綺麗……」
飾り細工の店でふと目に入った螺鈿の櫛。
思わず感嘆の声を上げると、恰幅のいい店の女将が「いい品だよ」とそれを差し出してくれた。
七色の光を反射する螺鈿は繊細なデザインで、価値などわからない望美にもいい品物だと感じさせる。
「安くしとくよ」
店の女将がにこにこと売り込みを始めてきたが、望美に手持ちの金はない。
「い、いえ。今日は我慢しておきます」
当たり障りの無い断りと共に、慌てて陳列棚にそれを戻した。
その時、横から不意に手が伸びてきた手が、望美が置いたばかりの櫛を取り上げた。
「これ、貰える?」
望美のすぐ脇から差し出された手。
背中に感じる人の気配。
ここまで接近されるまで気づかないなんて……。
浮かれすぎていたらしい。
望美はあまりにも近い距離に不快感を抱きつつ、そっと目を上げその手の持ち主を窺った。
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