その人物は望美より頭一つ分、長身の男。
年は望美より4つ5つ上くらいだろうか?
望美は眉宇を寄せ、その男にひたと睨み警戒心を露にした。
しかし男は強い望美の視線を無視し、螺鈿の櫛を買っている。
望美は視線を外さないまま近すぎる男から離れ、足早にその店を後にした。
『絶対わざとだわ』
男からの接触は、買い物を装った望美を狙ったもの。
自意識過剰と言われるかもしれないが、いきなり見ず知らずの女に触れるほど近づくなんておかしい。
店先が混んでいるなんて状況ではなかったのだから。
わざとでなければ、あれほど近くに立つ必要が無い。
望美はすれ違う人を見るようにして、そっと後ろを窺う。
だが、さっきの男の姿はないようだった。
強い視線を感じたのは気のせいだったのだろうか?
気のせいならばいいのだけれど……。
望美はどこか拭いきれない不安を感じ、先ほどの店から十分離れてやっと歩調を緩めた。
ぴりぴりとした緊張を僅かに解き、ほっと息を吐く。
そしてここはどこだろうときょろきょろと辺りを見回した。
先ほどの店のあった場所から離れようとばかり考えていたからだろうか?望美がいるのは大通りから路地へ入った人通りの少ない場所だった。
道幅も狭く時折行き交うのは、はしゃぎまわるやんちゃな子供や野菜を抱えた女性などで、店が軒を連ねていた通りよりも生活感のあるところだ。
「うろうろすると迷っちゃうかな?」
迷ったとしても誰かに本宮までの道を尋ねればいいだけのことだが……。
望美がとりあえず大通りへ戻ろうと踵を返した時だった。
不意に現れた人影に思いっきりぶつかったのは……。
予想だにしない衝撃に、望美の身体がふらりと傾ぐ。
「危ねぇ!」
だが、倒れそうになった望美の腰がぐいっと力強く引き寄せられた。
「きゃっ!」
身体を包む熱さ。
それが他人の体温と感じた瞬間、望美は反射的に自分の腰に回ったそれを振り払って後ずさった。
「……ご挨拶だな…」
やれやれと呆れたように両手を挙げたのは、先ほどの店で望美の背後に現れた男だった。
望美は無意識のうちに少しだけ左足を引き、再び姿を見せた不審な男に対して構えを取った。
「…何の用ですか?」
「そんなに警戒しなくていいじゃないか」
日に焼けた肌の色、野性味のある整った顔立ち。その男の顔は笑うと少しだけ目じりが下がって柔和になる。
けれどどんなに優しげな笑みを見せても、その獲物を狙うような瞳の底知れぬ光は隠せていなかった。
まずい、と思う。
戦いの中心にいた頃に感じた嫌な気分だ。
「やるよ」
男がそう言って投げたものは、放物線を描いて望美の胸元に飛んできた。
望美はそれを隙を見せぬように片手でぱしりと取った。
「……なんのつもり?」
「それ、欲しかったんじゃないのか?」
望美の手の中にあったのは、さっきまで見ていた螺鈿の櫛だった。
それに気づいた望美は嫌悪感に眉を寄せ、櫛を男の胸元に思いっきり投げ返した。
「おっとっ!」
真っ直ぐ飛んできた櫛を男が笑いながら掴む。
「いらないわ」
「……そう警戒するなって。別に怪しいモンじゃない」
「思いっきり怪しいわよ。見ず知らずの人が贈り物なんて怪しすぎることこの上ないわ」
「そうかい?俺はただいい思い出を作って欲しいだけなんだよ。俺の熊野で」
「『俺の熊野?』」
その一言に望美の目が鋭さを増す。
だが男は望美の変化に気づかぬまま、自信に満ちた笑みを深くした。
「全部言わせるなよ……。この熊野で俺の知らないところはない。俺の思いのままに出来ないこともな。……この意味、わかってくれるな?」
この地を自分の物と言える人物はたった一人しかいない。
けれどその人は望美が探している人であって、目の前の男じゃない。
望美の脳裏に、先ほど本宮に仕える男が言っていた<別当を騙る男>の話が思い浮かんだ。
「ふーん、そう……。あなたがそうなんだ?」
望美の瞳が鋭く冷たくなる。
けれど目の前の男はそれに気づかずに話し続ける。
「あんた、参拝に来たんだろう?大方、ちょいと一人で宿を抜け出したお姫様ってとこか?」
「そうだったらどうするの?」
「宿まで送っていくさ。もちろん寄り道つきでね。俺が気に入ったあんたにも俺を見てほしいし。来いよ」
差し延べられた手。
それをじっと見つめたあと顔を上げ、望美はにっこりと笑った。
「じゃあ、せっかくだし相手をしてもらおうかな?」
望美は手を伸ばし、家の軒に立てかけてあった自分の胸の高さほどある木の棒を掴んだ。
「頭領っ!?」
夕方、まだ戻るはずの無い時間に熊野別当が邸に現れ、留守を預かる者や邸の女房達が慌ただしく動き始めた。
「どうされましたか、頭領?予定は……」
「予定変更だよ。……本宮の結界に何かが触れた」
ヒノエは厳しい表情で本宮へと向かう。
それを追いかけるのは、留守を預かっていた男だ。
「まさか怨霊ですか?」
怨霊を操っていた平家は打ち破り、その恐怖からは解放されたと思っていた。
だが熊野の結界を揺らし、熊野の神職も勤める別当に何らかの危機感を抱かせたのは……。
最悪の事態を想像して顔色を無くした彼らに対し、ヒノエはその不安を打ち消すように、即座にかぶりを振った。
「それはねぇな。怨霊なら結界に弾かれる。だが、今回のヤツは結界をあっさり抵抗なく通り抜けた。怨霊というより神聖なモノだと思う」
「神聖なモノ?だったら、そう心配することでは」
「神聖なモノでも熊野には異質なモノだ。……結界に触れられた事に、オレが気付く程度にはな。用心に越したことはねぇ。……何か変わったことはなかったか?」
「別に何も……。あえていうなら、頭領を訪ねて若い娘が来たくらいです」
「……またかよ」
ヒノエはうんざりとぼやいて、前髪を乱暴に掻き上げた。
「もてる男は辛いですな?」
からかいを口にした男を、ヒノエがちらりと睨みつけた。
「バカ言ってんな。ほとんど濡れ衣だろうが」
「ほとんどは、ね」
「…何が言いたい?」
「本当に頭領が声をかけた娘もいますから」
「うるせーぞ。可愛い姫君には、声をかけるのが礼儀だろうが。だいたい、オレを騙る不届き者を未だに見つけられないってどういうことなんだ?たるんでるんじゃないのか?」
「探してはいるんですがね……。ヤツが声を掛けるのは旅の娘たちで……。なかなか囮の娘には引っかからないんですよ。それに今日の娘は頭領の『礼儀』だったようですが?」
「うるせーよ。ったく、使えねぇ……。まあいい。今は結界を通ったモノの話だ」
「また出直してくるそうです」
「オレは知らねぇ。適当に誤魔化して諦めさせろ」
心底面倒くさそうに顔を顰めて、手で追い払う仕草を見せる。
少しでも興を惹かれた女には甘い言葉をこれでもかと吐くくせに、自分を追いかけて深入りしようとする女には、これっぽっちも情を見せないヒノエに、男は吹き出しそうになるのを堪えて言った
「はいはい。……でもいいんですか?戦の最中にまで、声をかけたお気に入りだそうですが?」
瞬間、ヒノエが眉を顰めて振り返る。
「……戦?平家とのか?」
「ええ…。そうだと思いますが…?」
「おい!その女、他に何か言ってなかったか?」
今まで適当に聞き流していた別当の、突然豹変した態度に男は目をぱちくりとさせる。
「え?他にって……。ああ、あと大陸渡りと思われる見事な細工の真珠の耳飾りをしていましたが……。って、頭領!?」
いきなりなんの予備動作もなく、ヒノエに胸倉をつかまれた男は、驚きの声を上げて慌てた。
「どこに行った!その女!!」
「知りません。女は追い返せってのが、頭領の命ですからね」
「その女は別だ!」
「……頭領の女なんぞ、見極められるわけないでしょう!それより、結界が先なんじゃ!」
「十中八九、結界に触れたのはその女だ」
「え?」
「……だからか。くそっ!気付かなかったぜ」
ヒノエは男から手を放すと、片手で顔を覆って苛立たしげに吐き捨てた。
結界に触れられた瞬間、それを張ったヒノエに届いた衝撃。
激しいものではなかったが、額の真ん中にちりりとした熱さを感じた。
今考えれば、そこは八葉の宝珠があった場所だ。
彼女に反応したのか?
彼女が隠し持っていた白龍の逆鱗に。
今はもう、この世界にいない筈の神子姫に……。
そう、彼女はいないはずだ。
彼女は、ヒノエの差し伸べた手を取らなかった。
そして自分の世界に帰っていった。
ヒノエに、花のような笑顔を残して。
それが何故、いまさら?
「頭領!」
物思いにふけっていたヒノエを引き戻したのは、表から小走りに近づいてくる男の声だった。
はっとヒノエが顔を上げる。
「どうした、なにを慌ててるんだい?」
「最近、町で頭領の名を騙ってたヤツが捕まりました」
「へぇ…、やっと捕まえたか?だが、ちょっと遅いんじゃないか?被害が発覚してからどれだけ経ってると思ってるだよ?」
「申し訳ありやせん…」
確かにヒノエが言うとおり、熊野別当の名を騙る不届き者の噂が流れ出してずいぶんと経つ。
警戒を強めていたが、若い娘を誘惑し純潔と金銭を奪い取るという手段を取るため、被害にあった娘たちが口を噤んでしまいなかなか表ざたにならなかったのだ。
しかも狙うのは本宮に参拝に来た旅の娘……。
いつもと違う環境についつい娘たちの行動も軽くなるというもの……。
それにつけこんだ不埒な輩が、あろうことか熊野別当を騙って幾人かの娘たちを餌食にした。
といっても、はっきり『熊野別当』と名乗るわけではなく、それとなく匂わせて娘たちを勘違いさせるずる賢いヤツだった。
ヒノエの頭を悩ませていた原因のひとつのそいつが捕まった……。
「誰が捕まえたんだい?褒美を取らせないとな…」
「……それが……」
ヒノエの問いに、報告に来た男が言いにくそうに口ごもった。
「ん?どうした?何か不都合があるのかい?」
「いえ……。その男を捕まえたのは水軍のヤツですが、その前に手痛い一撃を喰らって伸びてたんだそうです」
「手痛い一撃?それを見舞ったのは誰だ?」
「まだ若い娘だって言ってました。急所にぴたりと入れたその腕は惚れ惚れするくらいだったそうですよ。その娘が『熊野別当を騙ってる男』だと教えてくれだそうで……」
その話しを聞いたヒノエの瞳が鋭さを増す。
「へぇ。男相手にやるねぇ……。で、その娘は?」
「男が捕らえられたのを見て、どっかに行っちまったらしいです。用があるとかで。まあ、いいとこのお嬢らしいんで素性がバレたらまずいだけでしょうが」
「どうしていいとこの姫君だってわかった?……唐渡りの真珠の耳飾りでもしていたかい?」
「すげぇ、頭領。どうしてわかるんです?確かにその娘、真珠の耳飾りをしていたの言ってました」
「……やっぱりか……」
「頭領?」
「別当を騙るヤツが分かる余所者の娘。すなわちそれはオレを知ってるってことだ……」
ヒノエは痛む頭を押えて、深く溜息を吐いた。
本当にいつでもヒノエの予想を超えた行動をしてくれる女だと思いながら……。
「……とりあえず、神子姫を探さないとな」
「神子姫?」
ヒノエの呟きを聞き取った男が問い返す。
「『白龍の神子』だよ。オレを訪ねてきたのも、不届き者に天誅を食らわしたのも神子姫だ」
「え?あの神子姫ですか?!でも天に還ったんじゃなかったので?」
「あいつの考えが今のオレに分かるかっていうんだよ。とにかく今すぐ探せ」
「でも、またここに来ると言ってましたが?」
「待ってられるか。さっきだって男に絡まれてるだろうが!返り討ちにしたみたいだけどな。神子姫はまだ本宮の結界の外には出ていない。それに……」
「それに?」
「……いや、いい。とにかく探せ。一年前の戦で神子姫を見ているやつがいるだろう?そいつらにも探させろ」
「わかりました」
男は一礼すると、ヒノエの命令を伝える為に足早に去っていく。
ヒノエは、肩から落ちた上着を引き上げると、腕を組んで深く息を吐いた。
「……何を考えてる?望美……」
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