次の日……





 いつものようにお昼休みに入った花梨が、レンジの前で楽しげにお弁当を温めている。
 千歳はそれを横目に、自分のサラダを冷蔵庫から取り出して、先に休憩室に行くと声をかけた。
 ややして温め終わったお弁当をレンジから取り出した花梨。
 しかしそれからいつものように、休憩室に向かうのではなく、温めたお弁当を抱えて花梨は一階の診療室へと向かった。





 日頃は用のない診察室。
 花梨はお弁当を胸に抱えたまま、ひょいと顔だけで中を覗き込んだ。
 診察室では、午前中のカルテを見直していた翡翠がちょうど立ち上がったところだった。
 視線に気付いた翡翠が、花梨に顔を向けて皮肉気に口の端を上げた。
「おや、珍しい。もうお昼を食べつくしたのかい?」
「……人を食欲魔人みたいに言わないでください!」
「違った?」
「違います!……ところで翡翠先生?」
 にこにこお弁当を胸に近づいてくる花梨。
 いつもとはまったく違う花梨の態度に、翡翠は腕を組んで面白そうに彼女を見下ろした。
「何かな?」
「お弁当一つ500円でいかがですか?」
 サッと翡翠の目の前に差し出されたお弁当箱。
 いつも掠め取るものより大きめの容器に入れられたそれは、明らかに翡翠の為に作ってきたのだろう。
 だが……。




「高い」




「えぇ!!」
「500円は暴利をむさぼりすぎではないかな?」
「いーえ!安いです!ちゃんと彩りも栄養バランスも考えてます!」
「ほう?君に栄養士の資格はなかったと思うが?」
「うっ!」
翡翠の鋭い突っ込みに、花梨が胸を押さえる。
「それにね、私は欲しいと思った時に欲しい物を奪うのが好きなのだよ。押し付けられると興が醒める」
「えぇ〜、そんなぁ……。いい案だと思ったのに〜」
「いい案?」
 今までの勢いはどこへやら。翡翠の言葉に、花梨は耳をうな垂れてしまった子猫のように頼りない風情で彼を見上げた。
「値引きするから。…だめ?」
 うるうるとした瞳で見つめられては、さすがの翡翠も苦笑するしかない。
 日頃は元気良く翡翠に恐れを知らず向かってくる花梨のその弱気な態度は、それなりに翡翠の興味を惹いた。
 翡翠は診察用の椅子に腰を下ろし、その前に置かれている患者の為の椅子を顎で示した。
「座りなさい。理由をきちんと説明したら、言い値で買ってあげてもいい」
「本当ですか!?」
 うなだれていた耳がピンッと立つのが見えるような勢いで、顔を輝かす花梨。
「私を納得させる理由ならね」
 翡翠に理由を知られることを千歳にはあれだけ嫌がって見せた花梨だが、お金を手に入れるチャンスを逃してなるものかと、いそいそと椅子に座ってその訳を翡翠に説明した。





「寿貧乏ねぇ……。それはそれは…」
 拳を口元に当ておかしそうに笑う翡翠を、花梨がきつく睨みつける。
「笑い事じゃありません。女の子は男の人よりずっとずっとお金がかかるんです!」
「だがその半分以上は自分への投資だろう?」
「うっ!……確かにそうですけど!でも、もしかしたら二次会とかで運命の出会いが待ってるかもしれないじゃないですか!チャンスは少しでも生かさなきゃ!!」
「ああ、そう…。で、運命の出会いの為に、私相手にお金儲けをしようと思いついたわけだ」
「人聞きの悪いこと言わないで下さい。正当な報酬です!今までただ食いしてた院長から材料代+労働代を貰ったって罰は当たらないです!」
「ただ食いねぇ…」
「あっ」
 慌てて口を押さえても出てしまった本音は戻らない。
 翡翠は喉の奥で低く笑うと、すらりと伸びた足を組みかえ背もたれに身を預けた。
「……ダメですか?」
 再びしゅんとしてしまった花梨。
 そのクルクルと変わる表情がまた面白い。
 翡翠は見飽きることのない花梨の反応を楽しみつつ、もったいぶりながら告げた。
「まあ、買ってあげてもいいが…」
「本当に!?」
「だが弁当だけとは、微々たる稼ぎだね。焼け石に水といってもいい」
「……院長も、私に水商売を勧めるんですか?」
 ムッとした花梨の言葉に、翡翠がわざとらしく驚きを浮かべて眉を上げる。
「君が水商売?冗談だろう?そんな無謀な提案をした人がいるのかい?」
「悪かったですね!どうせ私は酔っ払いと喧嘩しそうですよ!」
「確かに。その勧めに乗らなかった君の賢明な判断を褒めてあけるよ」
「それはどうもありがとうございます!」
 翡翠と話せば話すだけ、腹がたつような気がする。
 それも花梨が一方的に怒ってばかりだ。翡翠のいいように扱われてからかわれて……。
 冷静にと思うのだが、翡翠を前にするとどうしても赤い布を振られた牛のように突っ込んでいってしまう自分を止められない。
 そして翡翠も花梨の扱い方が上手かった。

 しばし何かを考えているようだった翡翠が、ふと思いついたように花梨に言った。
「そういえば、いいバイトの話があるんだが……」
「えぇ!本当ですか!?」
 翡翠のバイト話にすぐさま反応し、花梨が身を乗り出す。
 翡翠はクスクスと笑いながら続ける。
「本当だよ。労働時間は一日一時間から二時間。ただし休みは基本的に無し。用があって休みたい時には前もって言う事。それで報酬はこれくらいかな?」
 翡翠の手が示した金額に、花梨の目が驚きに見開かれる。
「うそ!たった二時間くらいでそんなに!?……先生、ヤバイ仕事じゃないでしょうね?」
「大丈夫。別に危なくないよ。で、やるのかな?」
「仕事内容は?」
「それはやると言ってもらわないと説明できないなぁ……」
 ……怪しい、怪しすぎる。
 それは内容を説明してしまうと、絶対に断ってしまうような仕事なのではないのだろうか。
 第一、翡翠が斡旋すること自体怪しすぎる。
 しかし、今の花梨には仕事を選り好みする余裕はなかった。
 とにかく先立つものが欲しいのだ。
 花梨は自分を納得させるように一つ頷くと、読めない笑みを浮かべる翡翠に向かって、本当は下げたくない頭を下げた。
「やります。紹介してください!」
「内容を聞いて断ることは出来ないよ?」
「いいです。一ヶ月か二ヶ月ですから頑張ります!とにかく今はお金です!!」
「そう。では働いてもらおうかな?今日から」
「はい?」
 まるで雇い主のような翡翠の言葉に、花梨が訝しげに聞き返す。
 翡翠はその秀麗な美貌に、にっこり喰えない笑みを浮かべ、こう言ったのだった。

「私の食事を作りなさい。それが仕事だよ」
「先生の食事〜!?何よそれ!!」
 思ってもいなかった仕事内容に花梨の声が裏返る。
 その見事なまでの驚きように、翡翠は珍しく肩を震わせて笑った。
「否やは無しだ。朝はいいから、昼と夜。昼は弁当でいいが、夜はきちんと私のところで作ること。出来たてを食べたいからね」
「はい、先生、質問!」
 学校の生徒みたいに、まっすぐ天へ伸ばされた花梨の腕。
 翡翠は軽く手を差し出して先を促した。
「報酬は材料代込みですか?」
「込み、と言うと粗食に耐えないといけなくなりそうだから、別でかまわないよ」
「ちなみに私は料理の勉強をこれといってしてませんが、それもちゃんと分かってますか?」
「もちろん」
「何を出しても文句いいませんか?」
「さぁ、それはどうかな?こちらは雇い主だからねぇ……」
「うぅ、確かに……」
「まぁ、私は好き嫌いはないからあまり気にすることはないよ。まずいのはごめんだがね」
「……わかりました。なるべく頑張ります」
「では、契約成立だ」
 話は終わったと立ち上がった翡翠は、花梨が膝に抱えていたお弁当箱をひょいと取り上げた。
「あっ!」
「これは頂いていくよ?もちろん契約の内だから500円は払わないからね」
 そして翡翠は白衣を翻して、さっさと診察室から姿を消したのだった。





 ポツンと独り診察室にとり残された花梨。
「……早まった?」
 ほんの少しの後悔を滲ませた問いかけに、答えてくれる者は残念ながら誰もいなかった。






 その日から、こっそりと翡翠の自宅に出入りする花梨の姿がスタッフに度々目撃され、あらぬ誤解を受けていると花梨が知るのはしばらく後のことである。











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どうも翡翠さんが餌付けされていっているような気がしてならない……(汗)
このシリーズは書き始めると早いです。
しかしいつになったら恋人に……??
まだまだまだまだかかりそうな予感(笑)
それ以前に、この二人に『恋人』って言葉が似合わないような…。