扉の向こう












 とある町のとある外科内科医院。
 大きくも無く小さすぎもしない、その診療所の医療事務員として高倉花梨は働いていた。
 資格を取って初めて働くには丁度いい規模だと思い、募集がかかったのを幸いに面接を受け、無事に就職が決まった。
 しかし実際には、この診療所は花梨が思っていた以上に患者が多かった。それも男女を問わずに・・・。
 その理由は、友達に『鈍い』と言われる花梨にもすぐに分かった。
 女性が多いのは、もちろん美貌の院長の所為。男性が多いのは、見目麗しい看護師達の所為。




「看護師の採用条件に、眉目秀麗って入ってるんですか!?」




 就職したての頃、物怖じしない花梨が院長に直球で尋ねたくらい、看護師達は美女揃いなのである。
 40代の看護師長も、高校生を筆頭に3人の子供がいるとは信じられなくらい、容姿もスタイルも綺麗なのだ。
 もちろん花梨の質問は、院長である翡翠に笑い飛ばされて答えてはもらえなかったけれど・・・・。
 しかし花梨は、絶対に院長翡翠の好みで看護師を集めていると信じている。あくまで看護師のみに限ってだが。
 何故なら、放射線技師は男だし(しかしこれもいい男だったりする)事務員にいたっては、花梨を採用したくらいだから翡翠の眼中にないだろう。
 確かに日頃、診察室にいる翡翠の周りで仕事をするのは看護師達だ。
 受付の花梨とは、お昼休みにお弁当の攻防を繰り広げるくらいしか院長翡翠との接点はなかった。
 だからきっと、常に側にいる看護師達は自分好みの美女を集めているだと、花梨は確信していたのだった。






「花梨?まだ帰らないの?」
 白衣を脱いで、私服に着替えた千歳が受付でカルテと格闘している花梨に声を掛けた。
 花梨の傍らでは、レセコンと呼ばれる医療事務用のパソコンが沢山の紙を印刷している最中だった。
「うん。今日中にレセプト(正式名称、診療報酬明細書。保険請求する為に患者一人につき入院、外来別に一枚ずつ、その月の診療内容を明記した紙)を打ち出してしまいたから。もうちょっと仕事するよ」
「じゃあ、先に帰るけどいい?」
「いいよ〜、お疲れ様!」
「お疲れ様、またね」
 千歳がバイバイと軽く手を振って、受付から姿を消した。
 受付に独りになった花梨は、打ち出されたレセプトをパラパラと捲りながら、ミスがないか軽いチェックを行う。
「あれ〜?」
 花梨がチラリと見ても分かるような間違いのあるレセプトを抜き、カルテを持ってきて付き合わせる。漏れがあればその場で必要事項を書き足していく。
 しかしカルテを確認しても、花梨の望む答えが書いていないものもいくつかあった。
 花梨はしばし逡巡した後、しぶしぶ目の前の受話器を取り上げた。
 そして内線の1番を押す。 
 コールは7回まで。そう決めて花梨は数を数え始めた。
「1か〜い・・・。2か〜い・・・。出なくていいよ〜3回目・・・」
 そんなに嫌ならかけなけらばいいのに、負けず嫌いの花梨はそれが逃げに思えてついつい勝負に出てしまう。
 そう、相手が出ないことを祈りつつ・・・・。
「6か〜い、出るな出るな!7か〜・・」
 カチャ・・・。
 回線が繋がる小さな音に、花梨はがっくりと肩を落とし落胆の溜息を吐いた。






『・・・いきなり嫌そうな溜息はやめてくれるかな?』
 受話器から流れてくる、低く響きのある美声。
 声だけで女が落とせるような艶声だが、それがよけい花梨の感に触る。
「あら?聞こえました?」
 花梨は、翡翠の指摘にわざとらしく驚いてみせた。
 すると今度は、向こうから呆れ果てたような溜息が返ってきたのだ。
『それはもう盛大にね・・・。そんなに嫌ならかけてこなければいいのに。私も夕食の途中なのだから』
「それはそれは失礼いたしました。でも仕事ですから、好き嫌いは言ってられません。ところで、先生に少しお聞きしたいことがあるのですが?」
『本日の診療は終了』
「はいはい。え〜っとですね、いくつか病名漏れと思われるカルテがあるのですが・・・・」
 きっぱり告げられた言葉を、花梨は黙殺して自分の用件を告げ始める。そんな花梨に翡翠の声が被さる。
『私の言葉を聞いてるかい?』
「都合の悪いところは自動削除します。なので、病名を一度確認していただきたいのですが、いいですか?」
 花梨の強気の発言に、電話の向こうから微かな笑いが漣のように聞こえてきた。
『医者に向って病名漏れを指摘するとは、なかなか小生意気な事を言うね』
「・・・このまま提出したら、確実に国保も社保も通りませんよ?保険の振込みが減ってもいいなら、私はかまいませんけど?」
『何件だい?』
「3件です」
『そう・・・。では、確認するからカルテを持ってきてくれるかい?』
「・・・・はい?」
 翡翠の言った事が上手く理解できず一瞬の間の後、花梨は間抜けな声を返した。
 反対に翡翠はとても普通に告げる。
『そちらに行くのは面倒なのだよ。今すぐ確認してほしいのなら持ってきなさい』
「・・・・どこに?」
『私のいる所に決まっているだろう?他にどこがあると言うんだい?面白い子だね』
「先生がいるところって・・・・。医院内ではないですよ、ね?」
『夕食の途中だと言ったはずだけれど?』
「まさか自宅?」
『ここに内線かけてきて、なに馬鹿なこと言ってるのかな?』
「うっ・・・、そうでした・・・」
 がっくり、項垂れた花梨。
 確かに翡翠が指摘したとおり、花梨は翡翠の自宅へ内線をかけていた。
 翡翠の、面白がっているような笑い声が耳に響いてくる。
『私は別に明日でもかまわないけれど?』
「明日は休診日です!先生、明日は「休みには働かない」とか言って、絶対話し聞いてくれないでしょう!?」
『・・・よくわかっているねぇ』
「何、感心してるんですか!?それに私だってお休みなんですからね!今月の請求に間に合わなくなっても知りませんよ!?」
『だから持ってきなさいと言っているだろう?……まさか噂を聞いて、こちらに来るのが恐いなんていうんじゃないだろうね?』
 明らかに花梨を馬鹿にした物言い。その翡翠独特の口調に、花梨がカチンとくる。
 花梨は思いっきり息を吸い込むと、大声で噛み付くように言い放った。
「そんなことあるわけないじゃないですかー!!分かりました!今すぐそっちに行きますから、覚悟しておいて下さい!!」
 売り言葉に買い言葉。負けず嫌いの花梨の性格を分かった上での言葉だったのだろうか?
 花梨は雇い主である翡翠に向って怒鳴りつけ、鼻息荒く電話を叩き切った。








「何を覚悟しておけばいいのだろうねぇ・・・・・」
 花梨のあまりの大声に、耳から話した受話器。
 乱暴に切られ味気ない機会音が聞こえてくる子機をテーブルに置き、翡翠はその手で薩摩切子のグラスを取って口に運んだ。
 キリッと冷えた辛口の酒が、喉を心地よく滑り落ちていく。
 部屋の満たすのは、柔らかな間接照明の灯りと、微かに聴こえるヒーリングミュージックだけ。
 上質のソファーで寛ぎながら呑む酒は、翡翠の好む物の一つだ。
 その上、これから面白い少女が来るという・・・。
 このプライベートな空間に、久々に招き入れる自分以外の人間。
(さて・・・・、この退屈を少しでも紛らわせてくれるのかな?)
 翡翠は、ソファーの背に凭れて、そっと瞳を閉ざした。
 やがて聴こえてくる、元気な足音を感じる為に・・・・・










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