「むむむ………」
カルテを胸の前で抱きしめた花梨は、例の「扉」のドアノブを見つめながら唸っていた。
この扉の向こうは、憎きお弁当の敵の本拠地。それに開けたが最後、自分がこの病院の伝説と化す、とスタッフの間で密かに噂されている禁断の扉でもあった。
怖いもの知らずの花梨でさえ、二の足を踏んでしまう、それくらい得体のしれないものを、お弁当の敵、翡翠院長から感じるのだ。
確かに翡翠は、格好いいと人気の俳優さえ、かすんでしまうほどの美貌の持ち主だ。女性患者が騒ぐのも、一応(あくまで一応)分かる。
そして患者(本物の患者限定)に対する人当たりの良さと、うっとり見惚れてしまう微笑と耳障りの良い響きのある美声は、病気で不安に苛まれている心を癒してくれる。
だがしかし!!
どんなに患者に人気でも、毎日毎日女性達が手を変え品を変え、せまり倒そうとする美丈夫でも、とにかく『奴は危ない』と、何かが花梨に告げている。
いわゆる野生の勘というやつだろうか?
でもだからといって逃げてしまうのは、花梨の性格からしてありえなかった。
敵(?)が強大ならば、その分だけ力いっぱい向って行くのみだ。
そして返り討ちにされたら、不屈の闘志で這い上がって炎のリベンジ!!
花梨の辞書に逃走という文字はなかった。
「仕事、休み明けにすればよかったかな〜………?」
ポツリと小さく呟いてみても、返事など返ってくるはずない。
電話では、思いっきり啖呵をきったが、いざこのドアを目の前にすると腰が引けてしまう。
ここに就職した当初から、『伝説』についていろいろ刷り込まれた所為だろうか?
だが、花梨は逃げ腰になる自分を叱咤するように、首を振り軽く頬を叩いて気合を入れた。
「いけない、いけない。これは仕事なんだから!そうよ、ムカつくお弁当泥棒だけど、それでも一応雇い主。私のご飯のタネなのよ。平常心、平常心」
よし!と声を掛けて気合を入れなおし、花梨はその扉のノブに手を伸ばした。
「失礼しま〜す」
でも何故か、翡翠に食って掛かった勢いとはうらはらに、扉を開けた花梨の声は小さくなり腰も引けている。花梨は、とりあえず顔だけを向こう側に突っ込んで、キョロキョロと中を見回した。
院内から院長の自宅に繋がるこの扉は、二階にある。自宅部分の一階はガレージになっているのだ。
扉を開けた所にはガレージに通じる階段があり、自宅に入るにはもう一枚のドアをくぐらなければならないようだった。
「お化け屋敷に入るより不気味なのは、何故?」
ぶつぶつ呟きながら、花梨はドアを開けナースシューズを脱いで翡翠のプライベートゾーンに踏み込んだ。
木の温もりを感じさせる室内。
花梨は微かに流れてくる音楽と、漏れてくる明かりを目指して歩を進めた。
無意識にギュッと抱きしめたカルテが、少しだけ変形してる。
人の気配のする部屋の前で気を落ち着ける為、一度だけ深呼吸をして、軽く握った拳でドアをノックした。
「先生、失礼します」
返事は、ない。
広いリビングに置かれたソファに、身を投げ出すように座った翡翠は、花梨の方を振り向きもせず、手の中のグラスを口に運ぶ。
花梨はひとつ呆れたように息をつくと、翡翠の側に歩み寄って、抱えたカルテを彼に差し出した。
「確認、お願いします」
翡翠は花梨の手からカルテを受け取ると、テーブルの上にグラスを置き、ゆったりと足を組みなおしてカルテを広げた。
(見た目は、いい男、なんだけどなぁ・・・。どうも得体が知れない・・・・)
いつもはその身長差ゆえに見下ろされる立場の花梨だか、今はソファに座っている翡翠を見下ろしている。
女には羨ましいほどの、まっすぐに伸びた艶やかな髪。
(この髪みると、三つ編みしたくなるのは何でだろう?)
翡翠の長い髪を見て、つい指がわきわきとしてしまうのは、絶対に自分だけじゃないと思う。
翡翠を狙っている女ならば、「その髪に指を絡めたい・・・」と色めいた事を考えたりするのだろうが、花梨の脳裏にそのようなものは、これっぽっちも浮かばない。
浮かんでくるのは、子供の悪戯のような事ばかり・・・・。
(後からはさみでザックリ切ったら、気持ちいいだろうな〜)
「……何かよからぬ事を考えてないかい?」
カルテを確認しながらも、何か感じるものがあったのだろうか、翡翠は訝しげに花梨を見上げた。
それに慌てたのは花梨だ。
「いえ!別に!!」
思わず一歩下がって、両手を否定に振る様は、いかにも怪しんで下さいといわんばかりである。
翡翠はその切れ長の瞳で、わたわたと慌てふためく花梨を見つめながら、微かに口元を緩めて何かを要求するように手を差し出してきた。
「はい?」
「ペンを…」
「あっ、はい!」
差し出された手に、胸ポケットから取り出したボールペンを乗せた。製薬会社からの粗品のような味気ないものではなく、可愛らしいマスコットが揺れるペン。
(……最高に、似合わない)
いい男に、花梨の持っているキャラクター文具。似合わないことこの上ない。
しかし翡翠は、そのペンに何の抵抗もないのか、特別な反応は見せずに漏れている事項を書き込んでいっている。
手持ち無沙汰になった花梨は、何気なく翡翠の手元を見つめていたが、ふとあることに気付いて首を傾げた。
「……先生、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何かな?」
「先生、お夕飯って言ってませんでした?」
「言ったねぇ……」
「食べるもの、見当たらないんですが?」
花梨が見る限り、翡翠の前にあるテーブルにあるのは、冷酒の瓶が二本と青い切子グラス。しかも冷酒の瓶一本はすでに倒されている。
翡翠が、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「『食べている』とは、一言も言ってないと思うけどね」
「まさか、お酒だけ?」
「米から出来ているから、何の問題もないと思うが?」
「い〜や〜!!信じられないっっ!!」
翡翠の答えを聞いた花梨が、突然両手で頭を抱えて絶叫した。
花梨の大声に思わず、本当に思わず、不覚にも翡翠はほんの少しだけ体を揺らした。
しかし花梨は、何事にも動じない翡翠の珍しい反応に気付かず、ギンッと翡翠を睨みつけた。
「おつまみは?食べるものはどこにあるんですかー!?」
「……カロリーは摂ってるが?」
「カロリーだけの問題じゃないでしょう!?医者の不養生ってことわざ、そのままじゃないないですか!!」
「確かに肝機能の検査結果は、うちに駆け込んでくる患者より悪いけど、たいしたことはないよ?」
「たいしたことあります!!信じられない!もう怒った!」
そう言うが早いか、花梨はテーブルに残っていた冷酒の瓶を取り上げ、翡翠に向ってビシッと指をさした。
「私が戻ってくるまで、お酒を飲んではいけません!いいですね!!」
そしてクルリと踵を返し、花梨は怒りにまかせ部屋を出て行ったのだ。
残されたのは、半ば呆気にとられた翡翠。
一瞬の後。
「くっ、ははは……」
翡翠の唇から、珍しい笑い声がもれた。
前髪をかきあげ、天井を仰ぐようにして翡翠が笑う。
「面白い子だねぇ……、本当に」
元気が良くて、素直で、思っていることが表情に出るから、何もかもが手に取るように分かるあどけない少女。
翡翠に怯む事無く、強い視線でまっすぐに見つめてくる瞳に興を覚えて少女を雇った。
それがこんなにも翡翠の退屈を紛らわせてくれるとは・・・。
「当たり、だったのかな?」
その上花梨には翡翠を楽しませてくれることが、もう一つあるのだった。
きっと花梨は、今それを作っているはず。
翡翠は記入の終わったカルテをテーブルに放り投げ、背もたれに体を預けて目を閉じた。
再び少女が、この部屋に戻ってくるのを待つ為に・・・・。
花梨が出て行ってどのくらいしてからだろう・・・、再び少女の軽やかな足音が近づいてきたのは。
少女の気配と共に、仄かに良い香りが漂ってくる。暖かな、食欲を刺激する香り・・・。
ふっと目蓋を上げて見れば、何もなかったテーブルの上に、ちょっとした酒のつまみ二品が並べられていた。
医院内でスタッフが使っているデザート皿を拝借してきたのか、料理を載せるには少し不似合いな皿達。
それに載っているのは、ささみで大葉と梅肉を巻き輪切りにして焼いたものと、生ハムとパプリカとサニーレタスのサラダ。
花梨は最後に、先ほど翡翠から取り上げた冷酒の瓶をテーブルに戻した。
「簡単なものですけど、食べるものがないよりましでしょ?冷蔵庫にあったみんなのお弁当用調味料しか使わなかったから、味はあまり期待しないで下さいね」
「……よく材料があったね?」
「わ・た・し・の夕食の食材です!」
「おせっかいは嫌いなのだが?」
翡翠の言葉に、花梨は鼻先で哂い、チッチッチッと人差し指を立てて左右に振った。
「残念でした。おせっかいじゃなくて、憐れみです!」
「憐れみ?」
「そう、一人淋しく酒のツマミもなく飲んでる、つぶしの利かない独身男に対する憐れみと同情です」
「なるほど……」
あまりの言われように、翡翠が面白げに笑みを浮かべる。花梨は腰に手を当てて、派手に溜息をついてみせた。
「まったく、誰かに作ってもらえばいいのに……。飲みすぎで体壊すような医者に、診察なんかしてほしくないですよ?」
「……そうは思うのだが、なかなか口に合わなくてねぇ。作らせるのも面倒になったのだよ」
(作らせるって、どうよ!?命じれば従う女には事欠かないってわけ!?)
翡翠の言葉を思いっきり勝手に解釈したあげく、花梨がキレた。
「グルメで結構ですこと!とにかくまずくても、それを食べながら飲んで下さいね!では、失礼します!」
こんな男の相手はしてられないと、唐突に話を切り上げて、花梨はテーブルにあったカルテを取り上げ、クルリと翡翠に背を向けた。
そして二、三歩いったところで、顔だけを振り返らせた。
「材料代は今度きっちり請求しますから!」
花梨は、そう言い放つとパタパタと走って翡翠の視界から消えていったのだった。
再び戻ってきた一人の時間。
翡翠は花梨が置いていった皿を眺め、苦笑を浮かべた。そして行儀悪く、ささみを一つ指先で摘んで、口の中に放り込む。
柔らかなささみと大葉の香りと梅肉の酸味。いつも取り上げる弁当のおかず同様、そんなに手の込んだ料理ではないのに・・・・。どちらかといえば、残り物専門の料理といっていいかもしれないのに・・・。。
「何故、うまいと思えるのだろうね……。不思議だよ」
翡翠はこれまで、女が作る料理を「うまい」と思ったことがなかった。
まずいとも思わないが、とにかくどうでもいいのである。
あれば食べるし、なければそれでいい。
夕食は元々酒が主で、たとえ店に行っても食べるものにはほとんど箸をつけることがない。
だから、別に肴がなくても不都合はなかったのだが・・・・。
翡翠は、花梨の料理を摘みながら、改めて酒をグラスに注ぎ呟いた。
「やはり、当たりかな?」
そう言って、翡翠は滅多にないほど機嫌よくグラスを傾けたのだった。
翡翠のプライベートゾーンから戻ってきた花梨は、翡翠に食って掛かった勢いのまま仕事を済ませて、さっさと帰り支度を始めた。
先ほど使って冷蔵庫に入れてあった食材を取り出しながら、花梨は突然何かに気付いたように「あっ!」と声を上げた。
「しまった〜。特別残業手当、請求するの忘れちゃったよ〜!!……材料代を水増し請求しようかな?」
ニヤリ、と唇を上げて笑う花梨。
後日、翡翠に回ってきた請求金額が、手間賃を含んだものだったかどうかは、請求した花梨のみぞ知る・・・・・・。
ただ、請求書を貰った翡翠が、他のスタッフの目の前で『私の部屋に忘れていたよ』と、花梨の手にマスコット付のペンを落としたのは、ささやか(?)な意趣返しだったのかもしれない。
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いかがだったでしょうか?
翡翠さんの「患者より検査結果が悪い」というのは、私の
知っている先生が実際におっしゃった言葉です。
検診結果で、青くなって駆け込んでくる患者のほとんどは、
自分より悪くないって・・・・。
医者って・・・・(汗)
体に悪いのに、ピースのショートを一日60本吸ってた(現在は
禁煙中)先生とか。
いつもお菓子を持っている歯科医とか(笑)