キーホルダーに付いている小さな鈴がちりちりと鳴る。
 自分の部屋から飛び出した花梨は、階段を駆け上がり一階上、マンションの最上階にある一つの部屋に突進した。
 手に持っていた鍵を鍵穴に差込み、いささか乱暴にドアを引き開ける。
 室内はフットライトのオレンジ色の明かりがほんのりと点いているだけで、しん…と静まり返っていた。






「ふ、ふふふ。人に働かせといて自分はお休みってわけ?上等!!」
 人は寝不足になると、どうやらまともな思考能力がなくなるらしい。
 花梨は不穏な笑みを浮かべ、まっすぐ目的の部屋へと向かった。






 

 花梨が乱暴に開けたドアの向こうは静かな闇につつまれていた。
 その部屋の中を見据えたまま、花梨がドアのそばのスイッチに手を伸ばす。
 次の瞬間、部屋の中を煌々とした明かりが満たした。
 目標確認。ロックオン!





「天誅!!」





 広い広いキングサイズのベッドの上。
 横になった人の形に盛り上がった場所目掛けて、花梨は叫びながら思いっきりダイブしたのである。
 しかし、ターゲットにダイブした花梨にも当然あるべき衝撃はなく、上質のスプリングが効いたマットが花梨の身体を優しく受け止めた。






「逃げるなー!!」
 状況を瞬時に理解した花梨がガバリと身を起こし、人の気配のする方向をにらみつける。
「逃げるなといわれてもねぇ……」
 今まで眠っていたとは思えないほどはっきりとした美声で、口元に拳を当てて笑う男。
 花梨の攻撃からすばやく身をかわし、ベッドの端に片膝を立てて座る男は小さく可愛らしい狼藉者を面白そうに見つめた。






 彼の特徴のひとつである長く流れる髪は、乱れて幾筋か顔にかかってる。
 それをゆっくりと大きな手でかき上げた男は、切れ長の瞳をすっと細めた。
「夜這いなら静かにしないと成功しないよ?」
「誰が夜這いなんかするもんかー!!」
 顔を真っ赤に染めて、腕を振り上げ抗議する花梨に男の笑みが深くなる。
 花梨は、振り上げた腕を男の胸に力一杯落とした。
「とんでもない過密スケジュール組んで、人をこれでもかって働かせておきながら、自分はゆっくり眠ってるなんて何様のつもりよ!翡翠さん!!」
「社長様」
 間髪入れずに返ってきた一言に花梨の怒りが爆発する。
「っざけるな!!」
 再び振り上げられた両腕が翡翠を叩こうとした時、翡翠はすばやく花梨の細い両手首を拘束した。
「落ち着きなさい」
「これが落ち着いていられるもんですか!!」
 両手の自由を奪われながらも、花梨はなんとか翡翠に一矢報いようと、毛を逆立てた子猫のようにばたばたと暴れる。
 翡翠はそれを難なく押さえ込みながら、呆れたように息を吐いた。
「やれやれ、こんなに元気なら徹夜で働かせても平気かな?」
「なんですってぇぇぇぇ!?」
 ますます暴走しようとするアイドルを楽しそうに押さえ込み、翡翠は怒りに燃えた花梨の瞳を覗きこんだ。
「花梨」
「何よっ!っん!?」
 掴まれた手首をぐっと引かれ、その勢いで翡翠の胸にぶつかるように倒れこんだ花梨の頤を、翡翠はすいっと掬い上げその果実のような唇に己のそれを重ねた。
「んー!!」
 唐突に塞がれた唇。
 翡翠は容赦なく花梨を貪るように味わう。
 花梨はその激しさに、喉の奥で呻くような声を上げて眉を寄せた。
「んっ……、う……」
「花、梨……」
 花梨の小さな頭を手のひらで抱え込み、その髪をかき乱しながら優しく愛撫する。
 その激しさとはうらはらに、ゆっくりと角度を変え深さを変えて丁寧に花梨を酔わせていく。
 その手がゆったりと首筋を撫で下ろす頃には、花梨の抵抗も小さなものになっていた。
 翡翠が絡めていた舌を名残惜しげに解き、柔らかい花梨の唇を軽く吸うキスを繰り返す。
「少しは落ち着いたかい?」
 啄ばむようなキスの合間に、翡翠の少しかすれ気味の美声が花梨の耳を擽った。
 その艶を含んだ声に、花梨が漣のように震えた。
「翡翠、さん…」
「可愛い人。疲れて苛立っているのはわかるけれど、少し冷静になりなさい」
 もう花梨に抵抗する気配がないのをみてとると、翡翠は掴んでいた手を離し、花梨の腰に片腕をまわしてその小柄な体を膝の上に乗せ、すっぽりと腕の中に抱きこんだ。
「疲れだけのせいじゃないもん…」
 翡翠の広く厚い胸に凭れながら、花梨は拗ねてキスで赤みを増した唇を尖らせた。







 子供のような花梨の仕草に少し表情を和らげ、翡翠が花梨の顔を覗き込む。
「じゃあ、何?」
「翡翠さん、また私に酷いこと言ったでしょう!?」
「……酷いこと?」
 眉根を寄せて考え込んだ翡翠の肩を、花梨が手のひらで軽く叩く。
「衣装で誤魔化さなきゃいけない貧相な身体で悪かったわね!!」
「…ああ、あれか。写真集」
 翡翠は花梨が何を怒っているか言われてから、やっと思い当たったようだった。
「………言わなきゃ思い出さない程度なのね!」
「思い出さないというか、あれは却下したから用がないだけだよ」
 あっさりと、至極当然のように言う。 
 しかし乗り気だった花梨は納得いかない。
「それよ!どうして却下したの!?すごく有名な先生が撮影してくれるのに!せっかく綺麗に撮ってくれるはずだったのに!!」
「綺麗ね……」
 鼻先で笑われるように呟かれ、花梨の目つきがきつくなる。
「どーせ、私は貧相な身体よ!でもきっと素敵な写真集が出来るはずだわ!今しか撮れない写真が!」
「彼はヌード専門だろう?いくらアーティスティックな写真を撮っていてもね。それなのに一番恥ずかしがる年頃の君が、どうしてそんなに積極的なの?」
「だって……」
「だって?」
「セミヌードなら、水着とあまりかわんないかな〜って。コンセプトもしっかりしていたし。それに折角だもん。残しておきたいよ、16歳の自分の体を」
「……面白い事を考えるね、女の子は」
 意外な花梨の本音に、翡翠が微笑む。
 それがとても優しかったから、花梨はほんの少しだけ期待してしまった。
「分かってくれました?じゃあ…」
「却下」
 花梨の言葉を遮って、翡翠はきっぱりと言い放った。
 一瞬にして砕かれた、小さな期待。
「何で――!?私、ファンの人が離れていくほど貧相なのっ!?」
 翡翠の即答に、花梨は頭を抱えて苦悩をし始めた。
 翡翠は呆れてやれやれと首を振る。
「まだまだお子様かな?」
「どーせ私は貧相なお子様ですよー!!」
 ぷーっと頬を膨らまし、ぷいっとそっぽを向く。
 でもその瞳は薄っすらと涙が浮かんでいる。
 翡翠は花梨の額にかかった前髪を、大きな手で覆うようにかき上げた。
 そして覗いた額に軽くキスを落とす。
「情緒不安定だね。やっぱり疲れているのかな?」
「………それもこれも、ぜーんぶ翡翠さんのせいですから!」
「はいはい。悪かったよ。まったく君には敵わないね」
「翡翠さん?」
 翡翠にまっすぐ感情をぶつけて来る素直な花梨に、翡翠が微苦笑を浮かべた。
「貧相と言ったのも、本音を言うわけにはいかなかったからだよ」
「本音?」
 翡翠の言葉に、花梨がぱちくりと目を瞬かせ小首を傾げた。
「これ以上、花梨を男共に見せる気はさらさらないからね」
「……貧相だから?」
 それに拘りまくっている花梨は、不貞腐れて言う。
 翡翠は、まさかと肩をすくめた。
「花梨の体が、誰よりも魅惑的なのは私が一番良く知ってるよ」
「きゃっ!!何処触ってるんですかっ!!」
 突然、Tシャツの裾から進入してきた不埒な手に声を上げ、花梨はあわてて両手で翡翠の腕を掴んだ。
「白くて滑らかで、柔らかな肌。触れればしっとりとして張りがあり……。官能に打ち震える時には、堪らなく甘い香りを漂わせてくれる類稀なる身体……」
「ひ、翡翠さんっ!!」
 うっとりと囁き、翡翠は鼻先で花梨の髪を掻き分け、そのこめかみにキスを落とす。
 花梨は翡翠の甘い囁きに真っ赤になりながら、ふたたび悪戯を始めた手を押し返した。
「やめて、よ…」
「この素肌を私以外の男の目に晒せって?出来ない相談だろう?」
 翡翠の腕から逃れようとするが、がっちりと片手で腰を抱えられそれが出来ない。
 翡翠の大きな手は、花梨の肌を優しく撫でていく。
「何、言って…」
 花梨は息が上がるのを押さえながら、拘束から逃げようと身体を捩らせる。
「可愛い人…。これ以上、私を嫉妬で苦しませないでおくれ…」
「嫉妬って!嘘ばっかり!!」







 翡翠の指が与えてくれる、くすぐったいような快感を口では拒みながら享受していた花梨が、ピクンと身体を起こして翡翠の手を叩き落した。
 そしてキッときつい眼差しで、翡翠を睨みつける。
「私のスケジュールをこれでもかってほど詰め込んどいて、他の男の眼に晒せないって?言ってる事とやってる事が違うじゃないのー!!」
「スケジュールはスケジュール、写真集は写真集」
「何が違うのよ!!」
「………分からないならいいよ。でも写真集はダメ」
「何で〜!?」
 男の心をいまいち理解出来ない花梨を、翡翠はちらりと冷めた目で流し見た。
「………働き足りないなら、もう少し仕事を入れるかい?」
「うっ!!」
 翡翠の思わぬ攻撃に、花梨が言葉に詰まる。
「さて、明日からもう少し……」
「い〜や〜だ〜!!!ギャラ上げろー!休みくれ〜!せめて睡眠時間を〜」
 段々と勢いと望みが小さくなる花梨。
 最後には、泣き落とせとばかりに、うるうると涙で潤んだつぶらな瞳で翡翠を見上げた。
「写真集がダメなのは分かったから……。せめて一日でいいからオフ下さい〜。飽きるまで眠り倒したい〜」
「ダメ」
「鬼ー!!」
「もう一週間頑張りなさい」
「嫌だー!!寝る、眠り倒すっ!!」
 抱きしめられていた腕からするりと抜け出し、花梨はベッドの上に転がっていた柔らかい枕を両腕に抱え込んで丸くなった。
 全身で『眠るっ!』と訴えてくる、その様に翡翠が思わず失笑してしまった。
「明日はボイコットしてやるんだから!邪魔しないでよ!!所属タレントの不始末は社長の翡翠さんがどうにかしてよね!!」
「花梨……」
「もう嫌っ!思いっきり眠られないのも、友達と遊べないのも、…………翡翠さんと、あんまり逢えないのも……」
 ポツンと零れた、滅多に聞けない翡翠への甘え。
 翡翠は枕に顔を埋めてしまった花梨を愛しそうに見下ろし、その洗い立てのさらさらとした髪を指先で梳いた。
「あと一週間、頑張りなさい」
「嫌っ!明日はここにいるもん!!高倉花梨は急病にて、すべてキャンセル!!」
「仕方ないねぇ……」
 溜息混じりの翡翠の言葉に、花梨は驚きながらもすぐに飛びついた。
「休んでいいの!?」
「いいよ。ただし、折角のオフがダメになってもいいのであれば、だけど?」
「……オフ?」





 それはなんと素晴らしい響きの単語だろう。
 ここしばらく、花梨にはまったく縁のなかった単語だ。
 花梨はちらりと枕の端から翡翠を窺い見る。
 翡翠は花梨に向かって、にっこりと何かを企んでいる笑顔を浮かべた。





「翡翠さん?」
「一週間後に一緒に旅行にでも行こうと思っていたが……。残念だねぇ、スケジュールを組みかえればオフも変わってくるから、旅行は無理に…」
「ちょっと待ったぁぁ!」
 花梨は抱きしめていた枕を放り投げ、翡翠の肩からこぼれる長い髪を掴んだ。
「こら、痛いよ」
「それ本当!?」
「何が?」
 花梨の聞きたいものなど、重々承知の上翡翠がそ知らぬ顔で問い返す。
 翡翠の意地悪な態度に、花梨がじれったそうに彼の髪を引っ張った。
「花梨!」
 頭皮に強い痛みを感じ、翡翠が花梨の腕を掴む。
 花梨はそれにかまわず、翡翠を間近から見上げた。
「オフくれるの?どのくらい?旅行って何!?」
 予想通りの、ものすごい勢いに、翡翠がくすくすと笑いをもらした。
「オフは一週間後。期間は10日間」
「10日間!?」
 想像以上の長い期間に驚き、花梨の目がまん丸に見開かれる。
「そう。折角の夏休みだろう?長い休みを確保してあげたくてね。しかし花梨のスケジュールをそれだけ空けるには、どうしても前後のスケジュール詰めるしかない。
でも学校が始まれば、一日中仕事をさせるわけにはいかないからね。おのずとある程度、自由にスケジュールを組める今にしわ寄せがきているのだよ」
「……旅行は?」
「花梨はアジアが好きだったね?」
「うん」
「だからバリ島にしたよ。日本からあまり時間もかからないし、花梨好みのエステもある」
「一緒って言ったよね?翡翠さんもオフなの?」
「そうだよ。花梨と人目を気にせずに過ごしたくて休みを合わせたが……。花梨が明日、休むというのなら仕方が無い。旅行はキャンセルに……」
「します!!きっちり仕事に行きます!!ぜーんぶのスケジュールをこなします!!」
 さっきまでごねていたのはどこへやら。
 俄然やる気の返事に、翡翠がにやりと笑う。
「本当に?」
 その瞬間、またもや翡翠の思うままになってしまうと分かったが、花梨はこのオフ旅行を逃したくはなかった。






「誓います!長期オフ旅行できるなら、たとえ一日の睡眠時間が3時間でも、根性で一週間やりとげてみせる!」
「そう?では、頑張りなさい」
「は〜い」
 元気ないい子のお返事をした花梨は、ふわりと翡翠の首に腕を回した。
「花梨?」
 翡翠の耳元で、くすくすと笑い声をもらす花梨の背を優しく抱き返す。
「ありがとう、翡翠さん。オフが長いのもうれしいけど、翡翠さんと旅行出来るのはもっとうれしい」





 世間では所属事務所社長とアイドル。
 まだ絶対に知られたくない二人の関係。
 でもたまには、ふつうの恋人同士として過ごしたい。
 しかしそれは花梨から望めない事でもあった。






「国内では、なかなか自由がきかないからね」
「うん……。自分で望んで進んできた道だけど…。翡翠さんと一緒に外を歩けないのは、ちょっと淋しかったから、あっちではいっぱい遊んでね」
 翡翠の恋人という立場より、アイドルである自分を選んだのは花梨自身だから。
 自分は恋人としての我儘を言えない……。
 でも大人な恋人は、花梨のことを花梨自身より分かっていて、いつもこうやって限界が近くなると、花梨に腕を広げてくれるのだ。
 それがうれしくて、申し訳なくて……。
 花梨はぎゅうっと翡翠にしがみついた。
「白菊のお望みのままに…」
「本当にありがとう…」
 花梨はこぼれるような笑みを浮かべ、そっと首を伸ばして翡翠の唇にキスをした。
 触れるだけの柔らかいキス。
 花梨からのキスを受け、翡翠はその華奢な身体を抱きしめるため、ぐっと腕に力を入れようとした。
 しかし花梨はその前に腕を突っ張り、あっさりと身体を離したのだ。






「……花梨」 
 求めた身体にまんまと逃げられ、一瞬にして不機嫌になった翡翠に、花梨は悪戯っぽく笑いかけた。
「明日も仕事頑張るからね!さーて、明日に備えてさっさと寝ろうっと!おやすみなさ〜い」
 一週間後のオフ旅行は、とってもとってもうれしい。
 しかしここ最近のハードスケジュールはちょっと許せないものがある。
 いくら花梨のオフを確保する為とはいえ、もう少し考えてくれてもいいのではないだろうか?
 だから花梨は、ささやかな意趣返しを込めて、少しだけその気になった翡翠からあっさりと身を離したのだった。
 それに、花梨自身もう限界。
「花梨……」
「ん〜?」
 広い翡翠のベッドの上にゴロンと転がり、ごそごそと肌掛けを纏って寝の体勢に入った花梨はすでに眠そうな返事をする。
 今までの甘い雰囲気はどこへやら。花梨の変わり身の早さに、翡翠は苦く笑うしかなかった。
「自分の部屋に帰りなさい。マネージャーにばれるよ」
 やはり疲れていたのだろう。
 横になった花梨は、あっという間に夢路へと足を踏み込もうとしていた。
「……どーでもいー……。眠い……」
 そう言って幾秒も経たないうちに、すやすやと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。
 不法侵入して人を叩き起こし、思う存分暴れた挙句、さっさと眠ってしまった可愛い小悪魔。
 翡翠は苦く笑って花梨の額にかかった髪をさらりとかき上げると、そこに軽い口付けを落とした。
「おやすみ、花梨。今はゆっくりと寝せてあげるよ……。今だけはね…。いい夢を……」
 無防備な寝顔を見せる、今を時めくアイドルの耳元に翡翠が愛しさを込めてそっと囁きかけた。








 翡翠の染み渡るような美声は、眠りに落ちた花梨をふんわりと微笑ませた。






 大好きな人と過ごす為に。
 自分の夢の為に。
 花梨は、誰よりも輝いてまっすぐに走り続ける。
 その背を守ってくれる一番大切な人を感じながら………。












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