……逢いたいと思った瞬間、届かなくなった距離。






 あかねの携帯に残っていた友雅のメッセージは、すぐに日本を発つ旨の連絡だった。
 電話をかけてきたのは空港からだったのだろう。
 友雅の声の後ろで、雑踏のざわめきと英語のアナウンスが流れていた。
 フィッティングとショップ用ディスプレイの撮影らしく、ヨーロッパ各地を転々とするということだった。
 時差もあり、かなりのハードスケジュールだから連絡できないかもしれないと……。
 今までも、海外に出た時は友雅からの連絡は極端に減っていた。
 しかしそれを淋しいと感じても、不安は感じなかった。
 けれど今回は……。






 逢いたくて、ずっと電話に出なかった事を詫びてどうしても逢いたいと我儘を言って、「仕方ないね」と苦笑する友雅の腕に抱きしめてもらいたかったのに。
 しかし友雅は、日本にいない。
 わざと取らなかった電話の事を弁解する暇さえなかった。
 誰よりも忙しい人だと知っていたはずなのに……。
 知っていただけで、本当は分かっていなかった。
 友雅と過ごすほんの少しの時間さえ貴重なものなのだと、あかねは改めて噛み締める。
 友雅はあかねの態度をどう思って旅立ったのだろうか。
 ヨーロッパには友雅の過去の女性が沢山いる。
 そして新たに友雅を狙う女性も……。






 彼のミステリアスなオリエンタルの容姿と洗練された所作、人を酔わせる巧みな話術と艶めいた声。
 それ以上に、友雅の強い瞳に惹かれるの。と、どこかの国のモデルが答えていたのを聞いたことがある。





 『極上の男』
 その言葉がこれほど似合う人はいないだろう。
 




 その友雅に醜い自分を見せたくなくて臆病になり、ずっと殻に閉じこもり続けて結果的に彼を煩わせていた自分。
 




『付き合っている間は、君を裏切るようなことはしないから…』
 では、今は?
 もし彼が長い間友雅を無視し続けたあかねに見切りをつけていたら?
 友雅はいつ帰国するとはメッセージを残していなかった。
 だた行ってくるとだけ。
 行って、そして帰ってきてくれるのだろうか。あかねの元へ……。
 あかねは不安を抱えて、いつ鳴るともしれない携帯を肌身離さずしっかりと持ち歩いていた。
 



 

「あかね?どうしたの?ぼーっとして」
 頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めていたあかねは、かけられた声に振り返った。
「……なんでもない。ちょっと疲れてるのかな?」
 心配そうにあかねを見つめるめぐみを安心させようと、ほんの少し笑み刷いた。
「そう?今日は頼久の舞台初日じゃなかった?行くの?」
 めぐみの問いかけに、あかねは初めて頼久の舞台の事を思い出した。
 舞台に立つと知ってから、あんなに楽しみにしてたのに……。
 色々あってすっかり忘れていた。
 そんな自分の余裕のなさに、あかねは苦笑を浮かべた。
「今日は行かない。初日はチケット取れなかったの。来週行くよ」
「本当?行ったら絶対感想聞かせてね」
「もちろん。頼久さんの話だったら何時間でも話せるから、覚悟しておいてよね」
 あかねはわざとテンションを上げてめぐみを心配させまいとおどけてみせる。
 めぐみも笑顔を返して、近くの椅子に座った。
「楽しみにしてる〜。あかねが頼久の話をしてる時って、すごく幸せそうで好きなんだ〜。いいファンだよ。あかねは」
「そっかな?そうだといいな。憧れの役者さんだもん」
「やっぱ、あかねの理想の彼氏って頼久さんなの?」
「はっ?」
 めぐみの唐突な質問に、あかねは間抜けな反応をしてしまった。
「彼氏にするなら、頼久みたいな人がいいのって聞いたの」
「何かいきなりだよね〜。う〜ん、考えた事ないかも……」
「どうして?あかねって熱烈な頼久ファンだよね。確かにいい男だし、あかねの理想かと思ってた」
「憧れの人だから目の前にしたら、きっと緊張して話せなくなっちゃうと思うけど……。頼久さんは役者として好きよ。格好いいし。でも遠い人だもん、彼氏とかとはちょっと違うかな?」
「確かにね。いくら憧れても頼久は芸能人だもん。やっぱ遠いよね」
「ほんと、遠いね……」
 あかねは笑みを消して、小さく呟いた。
 遠い人。
 本当は友雅もずっと遠い人なのかもしれない。
 世界を相手に活躍する輝かしい人。
 その友雅と知り合えただけでも奇跡に等しい。
 ましてや愛を囁かれるなんて……。
 何の取柄もない平凡な女子高生なのに。
 空港からの電話を最後に、友雅からこの10日間まったく連絡は入らなかった。
 友達から掛かる電話で流されていく友雅の着信履歴。
 友雅と出会う前とそして出会ってからもほとんど変わらなかった平日の生活リズムなのに、何故だか言い知れぬ淋しさがあかねを襲う。
 そして思い知った。
 逢わなくても、声を聞かなくても友雅の存在感は常にあかねの側にあったということを。
 それが感じられない今は、その友雅の存在さえも夢のようで……。 
 ふとした拍子に、友雅とのことは自分に都合のいい甘い夢を見ていたんじゃないかと思ってしまう。
 甘くて幸せな夢を……。
「……あかねさぁ、最近元気ないよね?」
「そっかな?」
「うん、ぼんやり何か考えてる事が多いよ」
「思春期だからかなぁ?」
「何、それ?恋の悩み?」
「う〜ん。どうなんだろう?」
 恋の悩み、というよりは、自分自身の問題な気がする。
「でもさ、私でよければ相談にのるから、あんまり深刻に悩まない方がいいよ」
「ありがとう、めぐみ」
 友人の優しい心遣いに、あかねはふんわりと微笑を浮かべた。






 学校から帰ったあかねは帰宅の時間が判らない慎に言われた通り、先に夕食を終えてパソコンの前に座った。
 メールと頼久のHPのチェック、そしてお気に入りのサイトめぐりをする為だ。
 あかねは慣れた仕草でマウスを動かした。
 そしてふと目にとまったポップアップ広告の端にあったニュース。
 そこに友雅の名を見つけ、あかねは一瞬動きを止めた。
『友雅、噂のモデルとキャンペーン発表!』
「……帰国してるの?」
 あかねの呆然とした呟きに答える者はいなかった。






 パソコンから流れてくる記者会見の映像。
 昨日の午後、大々的に行われた有名エステティックサロンのキャンペーン発表の模様だった。
 マオカラースーツにボトルネックシャツをすっきりと合わせた友雅の横に、赤いドレス姿のナオが寄り添って笑っている。
 記者からの質問に、唇を軽く上げたいつもの笑顔で友雅は戸惑う事無く答えていく。
 ナオも友雅との関係について、当たり障りの無い返事を返していた。
「帰国、してたんだ……。電話、なかったのに…」
 こんな事は初めてだった。
 友雅はいつも帰国をしたら、メールや電話で知らせてくれるのに……。
 あかねは最悪の状況を思い、鋭く刺されるような胸の痛みにギュッと胸元を握り締めた。
 そんなあかねにはお構いなしに、明るく笑う二人がアップで映し出される。
 モデルのナオは、長い手足のスラリとしたスタイルで友雅の横にいても遜色のない女性としてあかねの瞳に映る。
 小柄なあかねが友雅の横に並ぶと、幼さが目立つのに比べてなんて差があるのだろうか…。
 あかねは零れそうになる涙を堪えて、キュッと唇を噛んだ。
 やがて映像は記者会見の模様に続いて、数日後からオンエアされるCMを流し始めた。





 
 黒のスラックスと白いシャツを裸の体に無造作に羽織り、朝日の溢れる部屋を紅茶片手に横切る友雅。
 その先には白いベッド、そしてシーツを申し訳程度に体に被せまどろんでいるナオ。
 友雅はシーツから覗くナオの素肌の肩に指先でそっと触れ、そして項に手を滑らせナオの髪を乱暴とも思える仕草で掻き上げる。
 そのとたん、ナオが笑いながら寝返りを打って友雅に甘えるように腕を伸ばした。
 友雅はナオの手を取り、彼女を見つめながらその掌にそっと口付けた。
『味わいたい素肌…』
 映像にかぶるように流れてきたのは、友雅の囁き。
 まるで耳元で甘く囁かれるような声音に、あかねの体は小さく震えた。
 





 電話回線を通して聞くノイズ交じりの音声とは違う。
 本当に久々に聴くクリアな友雅の声。
 あの囁きを耳にする時は、必ずあかねは友雅の腕の中にいた。
 それなのに今は……。





 
 途絶えた友雅からの連絡。
 友雅に甘えすぎて酷い事をし続けていた自分。
 愛想をつかされて当然だと思った。






 あかねはパソコンの電源を落とし、涙を堪えた厳しい表情で立ち上がった。
 そして手近にあったピーコートとバッグを掴むと玄関へと向かった。
 靴を履いたあかねが玄関ドアを勢いよく押し開ける。
「うわっ!」
「お兄ちゃん!?」
 いきなり開いたドアに直撃されそうになった慎は、かろうじて身をかわしたが弾みで2、3歩よろめいた。
「危ないぞ、あかね!」
「ごめん!お兄ちゃん!」
 あかねが慎の横を謝りながらすり抜けていく。
 不意打ちを食らった慎は、慌てて走っていくあかねの背中に言った。
「そんなに急いでどこに行くんだ?もう夜だぞ?」
「友雅さんの所へ行ってくる!」
 そうあかねが告げた時、すでに少女は門扉をくぐる寸前だった。
「ちょっと待て!!」
「待てない!」
「あかね!待てよ!ちょっと落ちつけ!」
「嫌っ!お兄ちゃんが止めても、私は友雅さんに逢いたいの!!人の恋路を邪魔すると馬に蹴られるんだからね!!」
 いつもおっとりとしたあかねらしくない捨て台詞。
 すでに道路に飛び出して角を曲がった後で、慎の視界にあかねの姿はない。
 ただあかねの足音だけが、遠ざかっていくのが聞こえた。
 慎はいつにない行動的な妹を呆然と見送り、深く深く息を吐いた。
「……待てって言ったのに。あいつ、俺が先輩の部屋の鍵を没収してる事、忘れてるんじゃないだろうな?」
 慎の手のひらで、この家の鍵とあかねから預かった友雅の部屋の鍵が門灯で冷たく輝いていた。












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