どんなに落ち込んでいようと、出口の無い暗い想いに苛まれていようと、時間はいつもと同じように過ぎていく。
 学校で授業を受け、休み時間には何事もないかのごとく友達と笑いあう。
 そうやってあかねは出来るだけ友雅の事を考えないようにしていた。






 リビングのテーブルに転がっている携帯が優しいメロディーを奏で出す。
 ビールを片手にテレビを見ていた慎は、キッチンに顔を向けて口を開いた。
「あかねー!携帯が鳴ってるぞー!」
「え〜?」
 タートルネックのセーターとデニムのパンツにギャルソンエプロン姿のあかねがキッチンから顔を出す。
 そして鳴っているメロディーを認識した瞬間、あかねは視線を落としキュッと唇を噛み締めた。
「出ないのか?」
「……うん、それは出なくていいの……」
 呟くような小さい声で答えると、あかねは再びキッチンへと引っ込んだ。
 携帯は少しの間、慎の前で震えていたが、やがて留守電に切り替わった。
「やれやれ、先輩もご苦労な事で……」
 十日ほど前に会った男の顔を思い出し、慎は妹の携帯を眺めながら苦笑を浮かべた。






 いつものように兄妹二人だけの夕食をすませ、食後のコーヒーを飲んでいる時だった。
 ふと思い出したように慎が口を開いた。
「お前、最近先輩と逢ってるのか?」
 その問いにコーヒーカップを傾けたまま、あかねにしては珍しくあからさまにムッとした表情で慎を睨みつけた。
「逢うなって怒鳴ったのはどこの誰?」
「俺だな」
 あっさり答えて、慎がクスリと笑う。
「それでお前は逢ってないんだな?……いい子だ」
「子供扱いはやめてよ」
 嫌そうに眉を顰めるあかね。
 しかし慎は別に気にすることもなく、今のふたりの状況を知っているのに知らない振りして明るく笑む。
「それで?ちゃんと連絡は取ってるのか?」
「………取ってるよ」
「ふうん?」
 手のひらで包むように持ったコーヒーカップへ視線を落とし、あかねは少し間をおいて答えた。
 普段なら友雅の話を振った瞬間に照れくさそうに、しかし見ているこちらが楽しくなるほど嬉しそうに笑うあかねだったが、さすがに今日は違うらしい。
 遠い眼差しをして、何かを考えている。
「……連絡を取ってたら何か不満?」
 慎の含みのあるような相槌に、あかねは不機嫌そうに唇を尖らせた。嘘をついている後ろめたさもあったのかもしれない。
 慎は軽く肩をすくめた。
「いや?別に……」
「だったら、どうしていきなりそんな事を聞くの?」
 あの日から一言も友雅の名を口にしなかった慎なのに、いきなり色々聞いてくればあかねでなくともおかしく思うだろう。
 しかし慎はあかねの探るような眼差しにも動じなかった。
「先輩の派手なゴシップが久々に飛び交ってるからな……」
「あれは、空港の写真から目を逸らさせる為なの!お兄ちゃんも分かってるでしょ?」
 必死で友雅を弁護するあかねに、慎は指先で机を叩いて軽く肩をすくめた。
「知ってるけど、分からないね。先輩の真意なんて」
「真意?」
 あかねは慎の言葉に訝しげに顔を顰めて首を傾げた。
「話題になればなるほど、マスコミが騒いで先輩は自由がきかなくなる。自分の首を絞めるだけだと思うんだがなぁ……」
「でもそれが一番手っ取り早いって言ってたわ!空港の私の写真を、他の人と思わせる為に」
「まぁ、確かに先輩には一番簡単な方法だろうよ。あの人はとにかく女の心を手玉に取るのがうまいから」
「友雅さんを悪く言わないで!」
「悪くなんて言ってないよ。事実だろ?女癖悪いのは。お前だって承知だろうが」
「それはそうだけど……」
 声がだんだん小さくなり、自信なさげに俯いてしまったあかね。
 慎は意外そうに眉を上げた。
「あれ?反論しないのか?」
「……友雅さんの派手な恋愛スキャンダル、いつも友達と話題にしてたもん。友雅さんの女性遍歴知ってるから……」
「知っててよくお前平気だよな」
「だって、友雅さんはナオとの噂は契約だって、仕事の上だって言ったから……。それを、信じてる」
 信じていると言いながら、その言葉が何故か心を上滑りしているような気がした。
 友雅の何を信じているのだろう……?
 信じている?本当に?
 あかねはこれ以上、友雅の事に触れて欲しくなくて、殊更朗らかに兄に問いかけた。
「お兄ちゃんこそ、彼女とは上手くいってるの?遠距離恋愛だから、気を抜いたら捨てられるんじゃない?」
「おいおい、人の事より自分だろうが。俺達はいいの」
 話を故意に逸らされたのに気付いたが、これ以上二人の事に首を突っ込む気のなかった慎は素直にそれにのった。
「油断してたら痛い目にあうよ?」
「痛い目ならもう何度もあったよ」
 苦笑する慎に、あかねは驚いて声をあげた。
「嘘っ!いっつもラブラブかと思ってた!!」
「そんなわけないだろ。喧嘩はしょっちゅうだよ。でもちゃんと話し合えば分かるし、お互いを信じてるからな。それに、言いたい事が言えるから喧嘩にもなる。
言いたい事も言えず、喧嘩も出来ないような付き合いは長続きしないよ……。お互いのすべてを分かり合えることなんて無いけど、相手を理解する努力と自分を理解してもらう努力をしないと、
遠距離恋愛はやっていけないと思うな」
「………」
 あかねは慎の言葉を聞きながら、押し黙って考え込んでしまった。
 慎はそんなあかねの頭を軽く叩く。
「お前も今は、擬似遠距離恋愛ってところかな?距離じゃなく立場がね」
「お兄ちゃん……」
 おどけたように微笑む慎が、あかねの怯えて小さくなった友雅への恋心を優しく暖かくしてくれる。
 友雅の事を理解しようとしていただろうか?
 自分の事を理解してもらう努力をしているだろうか?
 いつもいつも勘のいい友雅が、あかねの気持ちを察してくれるからそれに甘えていたような気がする。
 もっと、自分の気持ちをぶつけたほうがいいのだろうか……。
 黙っていないで、自分の想いを……。
「先輩との付き合いが辛くなったら言えよ。いつだって別れさせてやるし、もっとあかね好みの先輩以上にいい男を見繕って連れてきてやるからな」
「馬鹿言ってる……」
 兄の優しさにあかねは微かに目を潤ませて、笑った。
 






 出会った時から、友雅はあかねの気持ちに敏かった人。
 甘くて優しくて、ちょっとだけ意地悪で……。
 あかねよりずっと大人なのに、たまに子供っぽくもなる人。





 あかねはベットに寝転がって、出会った日に撮ってもらった写真を見つめていた。
「初めて会ったあの時も、すごく優しかったよね。友雅さん」
 写真嫌いの友雅が、素人のあかねと一緒に写ってくれた写真。
 撮影したのが慎だったからというのもあるだろうが、友雅を知った今では考えられない事だった。
 初めて会った時も、二度目に街中で偶然出会った時も友雅はあかねの我儘をきいてくれた。
 友雅はあかねの色々な誘いを忙しくても笑顔で受けてくれていた。






 その優しさが当たり前になり、知らず知らず甘えきっていなかっただろうか?
 言わなくても分かってくれると、言葉を飲み込んでなかっただろうか?
 友雅はいつもあかねに過ぎるほどの言葉をくれる。
 では自分は?
 友雅にどれほど自分の想いや考えを告げただろう?
 好きでいて欲しくて、それだけを考えて自分を偽っていた部分がなかっただろうか?
 上手な恋なんて分からない。
 だから不安も沢山ある。
 それが当たり前。
 いい子で飾った自分を好きになってもらっても、きっといつか歪がくるに決まっている。
『相手を理解する努力と自分を理解してもらう努力』
 慎が言ったそれのどちらも自分には欠けていると感じた。
「逢いたいよ……、友雅さん」
 今ならきっと、自分に素直になれる気がする。
 不安も戸惑いも我儘も素直に口に出来ると思う。
 あかねは側に転がっていた携帯を手に取った。
 先ほどかかった友雅からの電話。
 いつもと同じようにメッセージが入っている。
 あかねはそれを聞いて自分から友雅にかけなおそうと思った。
 そして今まで電話に出なかった事を謝って、どんなに止められても逢いたいと告げて……
 
 あかねはメッセージを再生して携帯を耳に当てた。
 携帯に残った声も艶やかな友雅のメッセージ。
「えっ?」
 それを聞いていたあかねは、その内容に瞠目し声を上げた。











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