私を愛して……。




 
 私を求めて……。
 私を見つめて……。





 私を忘れないで……。





 
 私を二度と捨てないで……。










「遅いな〜」
 あかねはソファーで膝を抱えて、カーテンの閉まった窓を見つめた。
 外は強い風が吹き荒れ、窓を時折揺らしていく。
 今夜は金曜の深夜。
 正確には日が変わって土曜となっている。
 すでにTVもほとんどの局が放送を終了している時刻だ。
 先週から決まっていた予定通りであれば、寮から兄の友雅のマンションに戻るのは土曜の朝のはずだった。
 だが、約束していた友達に家から連絡が入り、急に帰らなければならなくなったと友達はあかねに謝りながら寮を発ったのだ。
 ぽっかりとあいた金曜の放課後。
 あかねは迷わず、いつものように夕方ここを訪れたのだった。
 友雅に連絡はしなかった。
 あかねのスケジュール帳に書かれた友雅の勤務時間は、昼間の勤務で夜勤ではなかった。
 だからあかねは、友雅と二人分夕食を作ったのだが……。





 しかしいつも友雅が帰ってくる時間になっても、玄関ドアは開かなかった。
 もっとも、医者である友雅が、患者の急変で時間通りに帰れないのは多々あることだった。
 そして予定が変更になってあかねが帰っていることを、友雅は知らない。
 あかねは9時過ぎにメールを出して、やっと部屋に来ている事を友雅に告げたのだが、返事は未だになかった。
 忙しくてメールチェックをする暇もないのだろうか?
 友雅はあかねからのメールに気付けば、どんなに忙しくても一言だけは必ず返事を送ってくれていた。
 それなのに……。





「はぁ……」
 あかねは肩から少し落ちたストールを引き上げて胸元で合わせ、抱え込んだ膝に顔を埋めた。
「早く帰ってきてよ……」





 寒い冬の夜は苦手…。





 淋しくて、切なくて、悲しくて、心が凍えてしまいそう。





 独りになった、あの日を思い出すから…。







 いつの間にか、膝に顔を埋めたまたうとうととしていたあかねは、玄関から聞こえてきた小さな音に、ふっと目を覚ました。
 夜のしじまをはばかるようにドアが閉まる音がする。
 あかねは、ぱっと顔を輝かせてスリッパを引っ掛けるように履き、玄関へと足早に向かった。
「あかね?」
 部屋に満ちた明かりと足音に友雅は少し驚き、その存在を確かめるようにあかねの名を呼んだ。
「おかえりなさい!」
 パタパタと駆けつけてきたのは、愛しい愛しい少女。
 パジャマ代わりの部屋着にストールを羽織ったその姿を目にし、友雅の頬に我知らず微笑が浮かんだ。
「帰っていたの?」
「うん、約束がキャンセルになったから……。飲んでるの?」
 友雅からきつい煙草の臭いと酒の匂いがする事に気付き、あかねは僅かに眉を顰めた。
「ああ、誘われてね。……あかねが帰ってくるとわかっていたら、もっと早く帰ってきたのに」
 そう言って笑う友雅は、普段とあまり変わりがない。
 友雅は自分の酒量を知っているし、元々酒豪なので酒に飲まれる事は滅多になかった。
 あかねは靴を脱いで近づいてくる友雅を、不機嫌そうに睨みつけた。
「……メール、したよ?」
 やはり友雅はあかねのメールに気付いてなかったようだ。
 あかねはそれが面白くなくて、口を尖らせる。
「店が地下だったから入らなかったのかな?すまないね」
 友雅はそう言って笑い、あかねを抱きしめようと腕を広げた。
 あかねはいつものように、その腕に飛び込もうとした。
 





 しかし……。






「あかね?」
 友雅が訝しげにあかねを呼ぶ。
 だが、あかねは友雅の胸に腕を突っ張り、動きを止めたまま…。
「…あかね」
 腕の中に包まれる寸前、突然拒むように友雅の胸についた腕。
 一瞬にして強張った表情。
 友雅はほんの少し戸惑いながらも少女の名を優しく呼び、細く小さなその身体を腕に抱きしめようとした。





 
「いやっ!」
 しかしあかねは友雅の腕が背に触れた瞬間、彼を軽く突き飛ばすようにして後ず去った。
 拒絶の言葉と共に…。






「あかね?」
 突然の拒絶を咎めて、友雅の瞳が鋭くあかねを見つめる。
 あかねは胸元をギュッと握り締め、友雅の視線から目を逸らした。
「あかね…」
 静かな、けれど拒む事を許さない深い声音。
 あかねは微かに震えるように小さく首を振った。
「匂いが…」
「匂い?」
 友雅は上げた腕の袖口に鼻を寄せ、顔を顰めた。
「ああ、本当だ。酷い煙草の臭いだ……。そんなに嫌がることはないだろう?……シャワーを浴びてくるから、もう寝なさい。あかね……」
 友雅は苦笑を浮かべあかねの横を通り抜けつつ、その小さな頭を軽く撫でたのだった。






 パタン……。
 バスルームの扉が閉まる音が聞こえ、やがてシャワーが降り注ぐ水音があかねの耳を打つ。




 しかしあかねはそこに立ち尽くしたまま。
 呆然と見開いた瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。





「匂いがするの……。甘い、香りが……」





 溜息のようなあかねの微かな呟きを、聞くものはいない。
 友雅が去ると同時に消えたはずの香りが、その存在を主張するかのごとく、いつまでもあかねに纏わりついているような気がした。














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