甘い甘い香り。





 それが友雅の周りを彩る女性の香りだと気付いたのはいつだっただろう。
 まだ恋もなにも知らない小さな女の子だった時、抱き上げてくれた友雅の髪から香った花の香りを不思議に思ったことがあった。
 その時幼かったあかねはそれ以上深く考えなかったが、男性に不似合いな甘い香りは記憶の底に今でも残っていた。





 今ならわかる。



 あれはきっと友雅がその腕に抱いた女性の移り香…。






 
 ここで同居を始めた頃も、よく甘い香りに包まれた友雅を感じた。
 その度、決して友雅の腕に抱かれる事がない自分の立場を嘆いた。
 友雅に抱きしめられた、姿の見えない女性に激しい嫉妬を燃やした。



 そして……。



 いつここを追い出されるのか、常に怯えていた……。





 友雅があかねを抱くようになって、その甘い香りがこの部屋に漂うことはなかったのに……。





 
 友雅はいつも沢山の美しい華を愛でてきた。
 来るものは拒まず、去るものは追わず……。
 あかねが偶然目にした女性も何人かいたが、いずれも見目麗しい女性ばかりだった。
 華やかな友雅の隣に立っていても、見劣りしない美しい人達。
 幼すぎる自分を彼女達と比べて、何度歯噛みしただろう……。





 愛していると、私のものだと、いつもあかねに囁く友雅。





 でも……。





 友雅はあかねのものと、誰が言ってくれるのだろう。





 昔からあかねは友雅しか見つめていなかった。
 しかし友雅は違う。





 彼はいつでも自由だった。





 友雅がいままで切り捨ててきた女性達と同じように、いつか自分にも終わりがくるのだろうか。
 両親が亡くなったあの時、友雅を失った瞬間が再び……。






 バスルームから出た友雅は、酒が入って睡眠を求めるけだるい身体を休ませる為、まっすぐに寝室に向かった。
 すでにリビングの明かりは消えている。
 平日は味気ない独り寝のベッドに、週末だけ現れる大切な少女がいる。
 友雅を癒してくれる誰よりも愛しい存在。





 しかし。





 明かりのない暗い部屋。
 そこは静まり返り、人の気配がしなかった。
 いつもは柔らかな曲線を描いて横になっているはずの、少女の姿がない。
 友雅の表情が明らかな苛立ちに変わる。
 友雅は踵を返し、少女がいるはずの場所に向かった。





 明かりのない真っ暗な自室のベッド。
 そこであかねは毛布にもぐりこんで、膝を抱き寄せ丸くなって横たわっていた。
 友雅がバスルームから出てきたのが、ドアの向こうから聞こえる微かな音でわかる。
 その音を聞きながら、あかねはギュッと瞼を閉じた。
 




 やがて…。
 




「あかね…」
 ドアが開き、廊下から差し込んだ光であかねの居場所を確認した友雅が、甘く囁くような声音で少女の名を呼ぶ。
 いつもはその声を聞くだけで鼓動が跳ね上がるのに、今夜は違った。
 その声があかねを胸を締め付ける。
 あかねは苦しさから逃れるように少し身動ぎして、ますます身体を小さくした。





 友雅の腕に抱かれた日から、あかねの寝床は友雅のベッドと決められていた。
 他でもない友雅の命令で。
 それに逆らえば友雅の機嫌が悪くなると分かっている。
 でも、あかねは今夜、友雅の側にいたくなかった。
 甘い移り香のする友雅の腕の中には……。





「あかね…」
 まだあかねが眠っていないのを分かっている友雅の声がほんの少しだけ低くなる。
 友雅の苛立ちを肌で感じながらも、あかねは毛布に包まったまま。
 友雅が近づいてくる気配がする。
 ベッドのスプリングが揺れ、そこに腰掛けた友雅が、あかねを覆う毛布ごとその体を抱きしめた。
「あかね…、なにをそんなに拗ねているの?」
 毛布を通して伝わる腕の強さが、切ないほど哀しい。
 この腕の温もりを知っているのは、他に何人いるのか……。
「顔を見せて?あかね?」
 あかねを子供のように宥める優しい口調が、ますますあかねを頑なにさせる。
 掻き寄せるように握り込んだ毛布。
 友雅はその合わせ目の隙間から、そっと手を差し込む。
 
 友雅を出迎えた時は、いつものように嬉しそうな笑顔を浮かべていたあかね。
 それが抱きしめようとしたとたん、突然友雅を拒絶し背を向けてしまった。
 初めはあかねの言葉どおり、煙草と酒の匂いを嫌がった為と思ったのだが……。





 あかねの様子はそれだけではないようだと感じていた。
 だから友雅は自分を拒んで繭に閉じこもってしまったあかねを、苛立ちを隠してゆっくりと解き解こうとしたのだが……。





 
「あかね!?」
 探るように差し入れた友雅の手。
 その指先に触れた滑らかな頬に、微かな濡れた感触。
 友雅は訝しげな声であかねを呼んだ。
 何故ならそれは紛れもない涙の後だったから。
「泣いているの?どうして……」
「触らないで!あっちに行って!!」
 毛布の中から友雅を拒絶するヒステリックな声が上がり、抱きしめる腕も振り払うように身体が押し返された。
「顔を見せなさい、あかね」
 予想もしなかったあかねの涙。
 友雅は、今までの優しく宥めるような言い方ではなく、少し強めの口調と力であかねの身体を抱き起こした。
「いやっ!」
 あかねは毛布を握り締め抵抗したが、友雅が本気で力を入れればあっさりとその砦が崩されてしまう。
 やっと現れた乱れた髪がかかるあかねの頬に、友雅が自分のそれを摺り寄せた。
 柔らかな頬が濡れている…。
「あかね」
「いやっ!触らないで!!」
 友雅に抱きしめられて頬を寄せられ、彼のまだ僅かに湿り気を帯びた髪が鼻先を霞めたとたん、あかねはますます友雅から逃げようとした。
 すでに洗い流されたはずの香りが、いつまでもあかねには感じられるのだ。
 友雅の側にいた女の幻に、あかねはもがき苦しむ……。










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