誰よりも幸せになるよう願っていた。






 幼くして母を失ったあかねを拾った日から、友雅は惜しみない愛情を注いできた。
 誰からも愛される姫として育ててきた。
 友雅は自分にこんな感情があったとは、あかねと出会うまで知らなかった。
 退屈な日々。いつでもどこにいても頭の隅は冷めていて、何に対しても情熱というものが芽生える事はなかった。
 だが…。
 あかねが向けてくれる無邪気な瞳と親愛の情だけが、友雅の心を優しく溶かしてくれた。
 友雅が大切にしてきた、あかねという一輪の華……。






「白雪……」






 主上の言葉は絶対だ。
 殿上人である友雅は、それを誰よりも分かっていた。
 






 友雅は苦悩に顔を歪め、両手に顔を埋めた。







 
「あ……。風花……」
 姫としてはしたないと思いながら、冬の冷たい風に触れたくて、あかねは端近に寄っていた。
 そのあかねの視界にふわりと白い風花が舞う。
 あかねは微笑みながら、それに手を差し伸べた。
「白雪の君。お風邪を召されますよ」
「大丈夫よ。吉野はまだ寒かったんですもの」
 あかねの側に火桶を寄せた遠乃が、奥へ戻るよう促すがあかねは笑うばかりだ。
 吉野は右近がこの世を去るまで、あかねが育ってきた思い出深い地。
 彼の地はまだ深い雪に覆われているのだろうか……。
 あかねは吉野を思い出して、青く澄んだ空を見上げた。







 懐かしい子供時代。
 あの頃は自由だった。
 野山を走り回って、いつも右近が苦い顔をしていた。
 姫様が姫君らしくなるのは、友雅様がいらした時だけですね、と笑っていたのを思い出す。
 母親代わりの右近を失い、友雅に都へ連れて来られた時、淋しさと戸惑いの中に少しだけうれしさがあった。
 大好きな兄様の側にいられると思うだけで、あかねは無条件に安心できたからだ。
 あかねにとって友雅は唯一無二の存在。
 吉野を発ったあの日。これからずっと一緒にいられると、仲のいい兄妹として暮らしていけると、幼子のように純粋に信じていた。
 






 今はもう、自分だけの幻想だとわかっているけれど……。







 義妹として、友雅を慕っていたあの頃とは違う。
 気付いてしまった、心の底の本当の想いに……。
 友雅へ向かう想いは、もう義妹ではない……。






 でも……。
 友雅にとっては、いつまでもあかねは義妹なのだ。
 一人の女性になる事はありえない……。
 






 吉野から出なければよかった。
 そうすれば、この叶わぬ想いに気付く事もなかったのに……。









 キシリ…、と静かだが女性ではありえない重さの足音に気付き、あかねは物思いを断ち切り青空から視線を戻した。
「兄様……」
「白雪……。どうしたの?こんなところで……。風邪をひいてしまうよ?」
 蝙蝠で口元を隠したまま、友雅があかねを見下ろして目元を僅かに緩めた。
「兄様…」
 ふわりとあかねが浮かべた微笑。
 まるで風花のように儚げで美しく、友雅は思わず視線を奪われてしまう。
 








 いつのまにこんなに大人びた表情を浮かべるようになったのだろうか?








 少女は驚くほど早く美しくなっていく……。









 あかねほど美しく純粋な姫は、宮中にはいまい。
 そしてその清らかさゆえ、あの内裏の女人達の中で生きていくのは簡単ではない……。








 しかし……。










「白雪の君……。話があるのだが…」
「兄様?どうしたの?改まって……」
 いつもと違う友雅に、あかねは戸惑うように笑った。
 友雅の憂いを帯びた表情に、あかねが少しの不安を覚える。
 友雅はひとつ深い息を吐くと、その場に腰を下ろした。
「白雪。落ち着いて聞いて欲しい」
「兄様?」
 いつもと違う、固く押さえた友雅の声音にあかねが笑みを消した。
 何かが違う……。
 あかねの鼓動が、得体の知れない何かを感じて早くなる。
 
 友雅はあかねを前にして、言葉を探していた。
 どんな言葉で飾っても、伝えることは一緒なのに……。





 視線を落とし、考え込んでしまった友雅の様子を見て、込み入った話だと判断した遠乃は、そっと部屋を辞した。





 しばしのち、友雅は自分の中の迷いと戸惑いを打ち消すように、パチリと音を立てて蝙蝠を閉じた。
「あなたにどう伝えるか、ずっと考えていた。今も、その答えは出ない。……けれどあなたは賢い姫だからね。はっきりと伝える事に決めたよ」
「兄様?どうしたの?変よ?」
 無理に微笑もうとして、あかねの声が震えた。
 友雅は、意を決する為に一つ深い息を吐いた。
「先日、主上からお言葉があってね……。白雪、あなたを尚侍として参内させるようにと…」
「え……?」
 友雅が言いよどみながら告げた、青天の霹靂ともいうべき内容にあかねは言葉を失った。
 驚愕と怯えを含んだ大きな瞳がまっすぐ友雅を凝視し、その居心地の悪さに友雅が視線を逸らせた。
「主上が直々に仰られたのだよ」
「兄様……。もちろんお断りくださいましたよね?」
 あかねの声が震えている。
「……白雪」
「尚侍での参内なんて……。兄様!!」
「……主上がお望みなのだよ」
 友雅の答えで、あかねの瞳は零れそうなほどの涙で潤んだ。
「どうして!?ただ参内すればいいだけなの?私はここに帰ってこられるの!?」
「……」
「……兄様は、私に入内しろと仰るの!?主上がお望みだから、私の意志はどうでもいいと!主上の気まぐれに付き合えと」
「白雪!!」
 行き過ぎたあかねの言葉を、友雅が常に無い厳しさで一喝した。
「っ!」
 あかねはびくりと身体を震わせ俯いた。
 友雅がまた溜息をつく。
「主上に対してなんということを……。言葉を慎みなさい」
「……主上がなんだというの?」
「白雪?」
「兄様は主上のことばかり!!私の気持ちを聞かないのなら、命令すればいいじゃない!!『入内しろ』と」
「命令など……。白雪には納得して…」
「何が納得?否やはないのでしょう!?綺麗事を言わないで!!」
 あかねは感情をあらわにして叫んだ。
 淑やかで大人しいあかねが、これほどまで友雅に感情をぶつけるなどこれまでなかった。
 幼い頃はお転婆娘だったが、友雅にはいつも素直だったのだ。
 だが、あかねは今、大きな瞳に零れそうなほど涙を溜めて、友雅を強く睨みつけていた。
 激情に支配されたその姿は、友雅が息を飲むほど美しかった。












「嫌です」
「白雪!」
「これだけは兄様の言葉でも聞けません!私は参内などいたしません!!」
「主上の御意向に逆らうというのか?」
「はい。……もし無理にでも参内しろと言われるのなら、私は俗世を捨てます」
 あかねは強固な意志を秘めた瞳で、しっかりと友雅の瞳を睨み返し自分の覚悟を告げた。
 









 友雅と想いを交わせず、他の男のものになるくらいなら………。









 あかねは初めて友雅に逆らった。
 















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