夏は苦手……。
湿気の多いムッとした息苦しい暑さで、思考が融けてしまうから……。
冷静な感情を暑さが溶かしてしまうから…。
「暑い……」
放課後、下校時刻間近の誰もいない教室で、あかねは窓際の自席に座ったままうんざりと頭を抱えた。
暑さで夜によく眠れず、身体に慢性的なだるさが残っている。
それが、訳の分からない苛立ちを生んで、ますます憂鬱になってしまう。
週末の校内には、もうほとんど生徒は残っていなかった。
残っているのは部活動に励む部員たちくらいだ。
同じ寮生のクラスメイトもすでに寮へ戻り、週末だけ戻れる自宅への帰路についている頃だろう。
あかねは腕時計で時間を確認し、深い溜息を吐いてゆっくりと重い腰を上げたちょうどその時、突然ガラリと教室のドアが開いた。
「お、あかね。まだ残ってたのか?」
ひょいと顔を覗かせたのは、あかねの親友の兄だった。
「天真くん……」
「蘭はもう帰ったみたいだな」
ぐるりと教室内を見回し、あかね以外の姿がないのを確認して、遅かったかと呟いた。
「蘭なら少し前に帰ったよ」
天真はあかねの親友、蘭の一学年上の兄である。
蘭の家によく遊びにいくあかねは、自然と天真とも仲良くなっていたのだ。
「ま、いいか。急ぐもんでもねーし」
「残念だったね。天真くん」
今までの暑さに疲れきった顔を隠して、あかねはあかるく天真に言う。
「まあな。しかしどうしたんだ?家に帰らないのか?」
あかねが寮生だと知っている天真が、いまだに教室に残っていたあかねに問いかける。
あかねはそれに曖昧な笑みを浮かべた。
「暑いから面倒で……。もうすぐ夏休みだし、寮にいようかなと思って」
「ふ〜ん……」
「天真くん?」
鞄を持って、入り口に立つ天真の横をすり抜けようとしたあかねを見つめる物言いたげな視線。
あかねは不思議そうに天真を見上げた。
「……何か嫌な事でもあったか?」
天真の言葉に、ドキリと鼓動が跳ね上がる。
「…どうして?」
そんなに顔に出ていたのだろうか?
人前では上手く隠してたつもりなのに…。
天真はあかねの大きな瞳に見つめられて、居心地悪そうにがしがしと頭を掻いた。
「何となくだよ」
ぶっきらぼうな照れ方をする天真を見て、あかねの表情が自然と和らいだ。
「ちょっとね。色々あって……。でも大丈夫だよ」
「そっか……」
人気のない廊下を、天真と肩を並べて歩く。
あかねの歩幅に合わせて歩く天真は、自分より小さな少女を見下ろした。
明るい髪を肩口で切りそろえた少女。
無邪気な笑顔を浮かべる少女の表情が、ふとした弾みに淋しそうな翳りを見せ始めたのはいつの頃だろうか?
はっとするほど大人っぽい表情を浮かべるようになったのは………。
「あかね…」
「うん?」
「明日、暇か?」
「暇だけど……。どうしたの?」
「お前、いつかバイクに乗りたいって言ってただろ?乗せてやるよ」
「え?ほんとに!?」
意外な申し出に、あかねは瞳を輝かせて天真を見上げた。
「気分転換にはなるだろ。朝、駅前まで来いよ。寮に乗り付けると学校にばれるからな」
「わかった。ありがとう、天真君!」
「寝坊するなよ」
「しないもんっ!!」
憎まれ口を叩く天真に、ムッと頬を膨らませたあかねは、次の瞬間にはうれしそうに満面の笑みを浮かべたのだった。
「暑い……」
クーラーの苦手なあかねは寮の自室に持ち込んだ扇風機の風にあたりながら、うんざりと呟いた。
暑くて宿題も思うようにすすまない。
でもクーラーを入れたまま油断すると、冷房病にかかってしまうため、あかねはなるべくクーラーを使わないようにしていた。
以前冷房病にかかって体調を崩した時は、いっきに5キロも体重が落ちて大変な目にあったのだ。
あかねはひとつ息をつくと、ノートの上に握っていたシャープペンを転がして、だるそうに椅子の背もたれにもたれかかった。
じっとり湿った暑い空気に、わけもなく苛立つ。
イライラして、すべてが嫌になる……。
情緒不安定なのだろうか?
些細な事で感情を抑えられなくなる自分を止められない。
「夏は嫌い……」
小さく呟いた時、机の端に置いていた携帯が優しいラブバラードを奏で始めた。
それはたった一人のためのメール着信音。
だがあかねはそれを耳にした瞬間眉根を寄せ、携帯に手を伸ばしボタン一つで音を消したのだった。
そしてメールを開かぬまま、壁際のベッドに放り投げた。
メールを見なくても内容は分かっていた。
『明日は帰れ』
と、きっと優しい言葉で、でも拒絶を許さぬ強さで書かれているのだ。
先週も用を作って帰らなかったから、きっとあの人も苛ついているのだろう。
苛ついて、私を求めていて欲しい。
私がこんなに求めているのだから……。
帰りたい。……でも帰れない。
暑くて、思考が融けてしまっている……。
自分でも訳のわからない苛立ちを持っている時に帰ったら、きっと感情的になってしまうから。
素直な自分を演じられなくて、醜い感情をさらけ出してしまいそうだから。
こんなにあの人が愛しい。
こんなにあの人が怖い。
だから、帰れない……。
back | next