寮で一度車を降り、いつもの外泊手続きを終わらせたあかねはドアに手をかけ、一度深く溜息を落として乗り込んだ。
 車内の冷やされた空気が、素肌をひやりと撫でていく感覚にあかねは眉をしかめる。
「あかね…」
 シートベルトに手を伸ばす前に差し出された、麻のジャケット。
 友雅が着ていたものだ。
 あかねは冷房、特にその風を直接肌に受けることが、苦手なのを友雅は知っていた。
 それでも真夏の車内はクーラーで冷やさないと、すぐに温度が上がってしまうのだ。
 せめて風が当たらないように差し出されたそれに、あかねは小さく礼を口にし素直に受け取った。






「ご機嫌斜めだね」
 助手席の背もたれに身体をあずけ目を閉じたままのあかねに、友雅が滑らかに車を走らせながら苦笑をにじませて言った。
「……夏は嫌い。クーラーも嫌い」
 先ほどまで天真に見せていた笑顔は、すでに無い。
 かなりだるそうにしゃべるあかねの様子に、友雅が心配そうにちらりと目線をやった。
「もう少し我慢しなさい。さすがに車のクーラーを切るわけにはいかないからね」
「わかってる……」
 あかねはうんざりと答え、友雅の視線から顔を逸らした。





 無性にイライラする……。
 慢性的な睡眠不足と疲労……。
 何を考えていても、常に「暑い」という思考が邪魔をして頭の中がまとまらない苛立たしさ。
  
 それなのに、友雅と過ごすなんて……。
 誰よりも慎重に接していなければならない友雅と……。






 部屋に戻ったあかねは、朝よりも増した疲労感に耐え切れず、リビングのソファに倒れこむように横になった。
「そんなに疲れるほど、一日中遊びまわったのかな?先ほどの彼と…」 
 ソファの側に膝をついた友雅が、嫌味を含んだ声と共に伸ばしてきた腕を、あかねがうっとうしそうに跳ね除ける。
 いつものあかねには考えられない拒絶に、友雅は払われた手を見て顔を顰めた。
「本当に、ご機嫌が悪いようだ……」
「天真くんは、私の気分転換に付き合ってくれただけ。それだけよ……」
「それにしては、ずいぶんと親密なようだったけれど?」
「蘭の…、親友のお兄さんだもん。中学の頃から友達よ。あの学校に入ってからずっと。お兄ちゃんが知らないだけだわ…」
 あかねが友雅と確執があった時期の事を口にするのは稀である。
 友雅の機嫌があからさまに悪くなるのが分かっているからだ。
 しかし、今日は含みを持たせてわざと友雅にそれを投げつける。
 友雅は深く息をついた。
「……男と二人っきりで出かけるなど、いつもなら許さないところだけれど」
「別にやましいことがあるわけじゃないわ。お兄ちゃんの許可なんて必要ない!」
 あかねが苛立たしげに、友雅の言葉を遮る。
 友雅はそれを聞いて唇を少しだけ上げ、冷たく笑った。
「あいにくと、私は心が狭いんだよ。この唇から他の男の名が紡がれるのが許せないくらいにはね」
 友雅の長い指が、あかねの少し乾いた唇をそっとなぞる。
 その感触にあかねの眉宇が訝しげに寄せられた。
「お兄ちゃん?」
「ほら、私はいつまで経っても「お兄ちゃん」から昇格しないのに、彼は「天真」と名を呼ばれる。……許せないね」
「馬鹿馬鹿しい。天真くんは他に呼びようがないでしょう?」
「私は他に呼びようがあるから名前は必要ないとでも?ずいぶん酷い物言いじゃないかな?」
「そんな意味じゃないってわかってるでしょ!」
「わかっているが、僻みたくなるね。あかねが私の名を呼んでくれたら、それもなくなるのだけれど?」
「……」
「相変わらず、だんまりかい?」
「……」
 無表情のまま、目を伏せたあかねに友雅がまた溜息を落とす。
「まあ、いい………。今日のところは大目にみてあげようか」
「…寛大ね」
「いつもなら、許さないがね。でも……」





 再び伸ばされた手を、今度はあかねも拒まなかった。
 友雅の長い指先が、少し汗ばんだあかねの首筋をなぞる。
「やはり熱を出しているね?」
「え……?」
 予想外のことにあかねの瞳が驚きに大きく見開かれる。





「お前はいつも熱を出しはじめると、すぐ不機嫌になって私に逆らったり八つ当たりをするから……。熱に気付かなかった?」
 あかねは友雅に指摘されて初めて、自分の体にこもるいつもより高い熱に気付いた。
「熱……?」
「いつもの夏バテとでも思っていたのかい?」
 友雅の苦笑まじりの問いに、あかねはこっくりと頷いた。
 ずっと体がだるいのは、クーラーと夏バテのせいだと思っていた。
「最近、よく眠れなかったし、身体もだるくて……」
「風邪のひきはじめだったんだろう。迎えに行ってよかったよ」
 慈しみと労わりの込められた優しい指先が、汗で張り付いた前髪をそっと払ってくれた。
「……わかってたの?」
 あかねは友雅の呟きに軽く目を見開く。
 自分でさえ分からなかった体調に、会ってもいない友雅が気付くとは……。
 友雅はあかねの問いに、軽く頷いた。
「ここ2、3日、様子がおかしいとは思っていたよ。電話の声も元気がなかったし、霊園でのあかねの顔色がすぐれないようだったからね」
「…いたの?お兄ちゃんもお墓参り?」
 まさか霊園に友雅がいたとは夢にも思ってなかったあかねが、驚きに声を上げた。
「月命日にはなるべく参るようにしているよ。……色々と親不孝者だからね」
 友雅は口元に苦い笑みを浮かべた。





「お兄ちゃん?」
 その表情に暗い翳を感じ、あかねが不思議そうに首を傾げる。
 しかし友雅はその翳を払拭するように、いつもの心を読ませない優しい笑みを浮かべた。
「日頃は人気のない霊園に、あかねがそれも男と一緒にいたのにはとても驚いたが……」
 霊園で同年代の男と笑っているあかねの顔は、友雅がみたことのないものだった。
 体調の悪さは僅かに顔色に出ていたが、無邪気に何の構えも見せず微笑むその姿。
 友雅の前ではいつもどこかに遠慮をのぞかせているのに……。
「気分転換できると思って……」
 友雅に目撃されていたと知ったあかねは、最初と同じ言葉を、今度はいささか申し訳なさそうに小さくもごもごと口にする。
 友雅はわざと呆れたように大きく溜息を吐いた。
「それで無理して出かけたのかい?悪化するはずだよ」
「風邪なんて知らなかったもん」
 あかねは怒ったように頬を膨らまして、ふいっと顔を逸らした。
 友雅はそんなあかねの頭を一撫ですると立ち上がって、キッチンからタオルに巻いたアイスノンを持ってきた。
 無理して話していたのだろう。
 あかねは目を閉じて、だるそうにぐったりとしている。
 友雅はその傍らに膝を付き、あかねの小さな頭を片手で抱え上げると、手に持ったそれをそっと滑り込ませた。





「…気持ちいい……。お兄ちゃんがこんなに優しいって何だか変な感じ…」
 首の後に感じる冷たさに、うっとりといつもは口にしないような事をあかねが呟く。
 友雅は、微苦笑を浮かべた。
「失礼な子だね。私は病人には優しいのだよ……」
「病人には、ね……。熱出してよかったのかな?」
「まともだったら、今日の事は許さなかったけれどね」
「許してくれるのは、天真くんと出かけたことだけ?」
「ああ。許すのは一つだけ。私に逆らって帰ってこなかったことは詫びてもらうからね。その上、熱まで出して……」
「謝るつもりはないから。私だって帰りたくないときがあるわ」
 あかねは強気に、熱ですこしだけ潤んできた瞳で、友雅を威嚇するように睨みつけた。
 その強い視線を受け、友雅がそっとあかねの髪を撫でつけ、その耳に唇を寄せた。





「……謝るだけが詫びの入れ方じゃないよ。……ねえ?あかね…」
 いつもの通りのよい声と違う、少しだけ掠れた低めの囁きにあかねの体が一瞬小さく震えた。
「お、兄ちゃん……。や…っ」
 首筋に感じる、ざらりとした濡れた感触。
 体に馴染んだ濃密な時間を予感させるそれに、あかねは震えて力の入らない腕で、友雅の胸を押し返した。
 友雅はあかねの腕に逆らわず、くすくすと上機嫌に笑いながら体を離した。
「心配しなくても、病人に無体な真似はしないつもりだよ。今日はゆっくり休みなさい」
「……本当?」
「信用がないね……」
「……」
 黙って目を閉じてしまったあかねのなめらかな頬を、友雅が手の甲でそっと触れる程度に撫で上げた。
「少し眠る?ベッドに行くかい?」
「いい…」
「ここでは落ち着かないだろう?運んであげるから…」
「いい、ここで」
「あかね?」
「お兄ちゃん、ここにいるんでしょ?」
「……淋しい?」
「そうじゃないけど……」
 ほんのりと頬を染めて、拗ねたように口を尖らすあかね。
 ためらいがちに伸ばされたあかねの手が、友雅の服の端を掴んでいた。
 言葉とはうらはらな可愛らしい甘えた態度に、友雅の目が眇められる。
「少し眠りさない。…ここにいるから…」
「………うん」





 友雅が触れてくれる優しい指先が気持ちよくて、あかねは素直に小さく頷いて、眠る為に体の力を抜いていった。
 こんなにあからさまな甘えを見せてしまうなんて自分らしくないと思いながら、あかねは友雅から手を離せなかった。
 本当は淋しくて、不安で仕方が無いから。
 どうしてこんな気持ちになってしまうんだろう……。
 何故か泣き出してしまいそうな感情を、あかねは懸命に堪える。
 早く眠ってしまおう。
 そうしたら、自分の気持ちに振り回されなくていいから……。
 熱の為が少し苦しそうに眠りに落ちていくあかねを見下ろしながら、友雅は服の端を握っていた細い手を取った。
「……いつもこのくらい自分の気持ちに正直ならいいのだけれどねぇ……」
 八つ当たりも甘えも、まっすぐに友雅にぶつけられる感情だから。
 いつもの、どこか遠慮した態度よりもずっといい。
 疲れていたのだろう、あかねの呼吸はすぐにゆっくりと深い寝息に変わっていた。
「本当にお前は夏に弱いね……。早くよくおなり。私の限界がくるまえにね……」
 友雅は自嘲気味に呟くと、そっとあかねの唇にキスを落とした。






 夏は嫌い……。
 暑さが冷静な判断を鈍らせてしまうから。
 いつもは隠している感情が、零れ落ちてしまうから……。

 




 夏は憂鬱……。
 
 











                   back | top