『うらやましいわね、あんなに素敵な男性がお兄さんなんて……』
幼い頃から一体、何度言われた言葉だろう?
素敵な男性……。確かに少女の兄はそう評価されるに相応しい容姿を持っている。
十人中すべての人が頷かざるをえない麗姿。
けれどそんな男性が兄であることのどこが羨ましいのだろうか?
少女には今もってまったく理解できない。
男と少女は親の再婚で絆が出来ただけの義兄妹だった。
まだ十歳にも満たない少女と20歳を過ぎた青年。
兄妹というには離れすぎていた年。
すでに一人暮らしをしていた兄だったけれど、家に帰ってくると幼い妹の相手を嫌な顔ひとつせずしてくれていた。
兄は幼い妹にとても優しく、妹も誰よりも格好いい頼りになる兄が大好きだった。
兄が大好きで大好きで、本気で「お嫁さんになる!」と思っていたあの頃。
子供の戯言に、ほんの少しだけ困ったように笑っていた兄。
あの時が一番幸せだったのかもしれない。
兄の本心を知らなかったあの時が……。
あれは少女が中学生の冬だった。
雪の高速で事故に巻き込まれた両親が、突然この世を去ってしまった。
残されたのは研修医の兄と、中学生の少女。
県外の大学に勤めている兄は、少女に寮制のある私立学校に転校することを勧めた。
一緒に暮らしても、不規則な時間で勤務する兄は、夜に家を不在にすることが多いから不安なのだと言って……。
少女は大好きな兄の言葉に素直に頷いて、小学校からの友達も多くいる通いなれた中学校を離れることを承諾した。
大好きな兄の勧めなら間違いはないと思ったから……。
それは新しい学校に編入する前夜だった。
真夜中、喉が渇いて目を覚ました少女は、そっとベッドから足を下ろし、階下のキッチンへと向かった。
階段の途中で、リビングのドアの隙間から漏れる明かりと小さな話し声に気付いた。
兄がまだ起きているのだろう。そう思って音を立てないように、そっと中を覗き見た。
兄はこちらに背を向けてソファに座り、肩に挟んだ電話の相手に何かを話していた。
少女には解らない専門用語が話の端々に混じっているから、仕事の話なのだろう。少女は邪魔しない為に静かに部屋を離れようとした時、それは聞こえて来た。
「……2、3日中にはそちらへ戻る。申し訳ないがそれまで頼むよ。………あぁ、転校の件は上手くいったよ。元々素直な子だからね」
転校……。
それは確かに少女の事だった。
電話の相手はこちらの事情をよく知っているのだろうか?
少女は兄の話す自分の事に興味を覚え、いけないと思いながらも聞き耳を立てた。
ドアの隙間から兄のしっとりと落ち着いた低音が流れてくる。
「あの子を手元に引き取らなければならないと思った時は、さすがの私も戸惑ったよ。でも君のアドバイス通り、寮のある学校ならお互い煩わしく無くていいだろう。
あの子が素直に私の勧めに従ってくれてよかった。……たまに会うくらいなら今までとそう変わらないからね、気を使うことも無い」
一瞬、少女の息が止まった。
今、兄が発した言葉がグルグルと頭の中を回っている。
『煩わしく無い……』
それはどういうこと?
煩わしいって……?
少女は震える手で口元を覆い、零れそうになる声を懸命に抑えこんだ。
それは、少女が兄と慕う男に捨てられたと認識した瞬間だった。
「あなたを許さない!」
少女の別れの言葉は、慕っていた兄に対する憎しみと切なさを秘めていた。
少女は中学時代に兄の暮らすマンションへ足を踏み入れることは無かった。
無論、高校になっても少女は自分を天涯孤独の身だと考えていた。
自分を煩わしいと思っている兄に何の期待もしていなかった。
学費は親の保険からだから、兄に出してもらっているわけではないと言い聞かせて……。
学校を卒業するまで寮を出るつもりはなかった。
そう、この街に帰ってきた兄に、半ば拉致されるように退寮させられるまでは……。
大好きだった兄。
幼い頃の幼すぎる恋。
どんなに憎いと思っても、自分は邪魔者で捨てられたのだと分かっていても、近くに兄を感じていれば、昔と変わらぬ男の優しさに惹かれていってしまう。
気付けば、視線は兄を追っている。
兄の些細な言葉に喜んだり怒ったり悲しんだり……。
でも兄にとって自分は邪魔者だと、いつも忘れず思っている。
帰宅した兄に纏わり付く甘い香りを感じる度、胸が痛くなって泣きたくなるほど、そう感じる。
少女が兄を見つめるたび、兄は困惑の表情を見せる。
そして優しかった兄が、だんだんと少女に笑いかけなくなっていく。
それに応じて兄の外出が増え、帰宅が遅くなり、顔を合わすことも稀になっていく日々……。
きっと兄は自分に会いたくないのだ。兄にとって自分は邪魔で、煩わしい存在だから……。
少女の瞳に、涙が溢れる。
好きと気付いたのはいつだろう……。
いや、幼いあの日に出会ってから、ずっとずっと好きだった。
兄に嫌われたくなくて、精一杯いい子でいた。
邪魔者だから、自分の存在を兄の前から出来る限り消そうとして、少女は兄と極力顔を合わせないよう気を使った。
退寮させられてからは、憎まれ口を叩きながらも、兄の邪魔にならないよう家事など雑用を出来る限りやってきた。
それなのに……。
自分の存在が兄を煩わすのなら……。
再び自分が兄の前からいなくなればいい。
兄への想いを否定されるくらいなら、自分からこの想いを断ち切った方がいい……。
兄にとって自分はお荷物の義妹以外の何者でもないのだから……。
タクシーから降り、見上げた家の窓に煌々と明かりがついているのを確認すると、男はやるせない溜息を吐いた。
毎晩、夜更けに帰宅するのは、この明かりが消えていて欲しいからに他ならない。
おかげで、最近は飲み歩く回数が格段に増えた。
病院勤務で疲れきっているのに、今夜も家に帰りづらくて行きつけのバーで一人、飲んできたところだ。
自分でも少し酔っているのが分かる。
こんなところを同僚に見られでもしたら、力いっぱい笑われるに決まっていた。
『女に不自由していないくせに、何独りで飲んでいるんだ?』
つい先日もそうからかわれたばかりだった。
確かに声を掛ければ付き合ってくれる女は山といる。
だが、最近は独りで飲みたい気分なのだ。
女と過ごすのが嫌なわけではない。
苛つく気持ちを、女で紛らわすことだってある。
けれど、共に過ごす女に彼女の姿を重ねてしまう自分に耐えられなかった。
その彼女はあの明かりの中にいる。
彼の汚れた想いなど知らず、昔と変わらぬ清らかな姿で……。
初めて少女と会ったのは、もう何年も前のことだ。
少女はまだ小学生で、標準より少し小さな彼女は大きな瞳をキラキラと輝かせて、戸籍上の兄になる男を見上げた。
笑顔の可愛い、可憐な少女だった。
兄となった男へまっすぐに向けられる幼すぎる恋情。
男への憧れを含んだ素直なそれを、どこかくすぐったく思いながら受け止めていた。
少女の桜色の唇から、事あるごとに紡がれる「お嫁さんになる!」という言葉をうれしく感じながらも、どう反応していいか分からなくてただ笑うだけだったあの頃。
幼い少女を親のような気持ちで見守ってきたはずなのに、いったいいつから自分の感情を持て余すようになったのか。
両親を亡くした冬のあの時。
友人と話す気軽さから出た不用意な言葉を額面どおり受け取り、兄である自分に初めての憎しみを向けた少女。
その瞬間、これまで見たことも無いほど鮮やかな輝きを発した少女に不覚にも目を奪われた。
それ以降、少女は男の前に姿を見せることはなかった。
勤務する病院を変わりやっと男の暮らしが落ち着いて、少女を手元に置いて暮らせるようになった時も、少女は男の話を一切聞かずに電話を叩き切った。
少女の誤解を招いたあの言葉を弁解する隙もなかった。
電話では埒が明かないと男が寮に申し込んだ面会も、少女は徹底的に逃げ回っていた。
思春期を迎えた少女が戸籍上の兄と暮らすのが嫌だというのなら仕方ない。
だが拗れてしまった糸だけは何としても解きたいと思っていた矢先、男が勤めている病院に患者として受診した少女。
このチャンスを逃せないと思った。
腕の中に舞い込んできた小鳥を、みすみす逃がすなど出来ない。
再び、あの幼い日に向けてくれていた笑顔を取り戻す為に……。
自分の不注意から少女につけてしまった深い傷を癒したいと思った。
欲しいのは、素直な明るい屈託のない眩しい笑顔。
再びそれを手に入れたかった。
ただそれだけだった……。
しかし一緒に暮らしても、病院勤務の男は不規則な生活で少女となかなか顔を合わせる機会がない。
少女も男を徹底的に避けていた。
でも少女の瞳は男を追う。
気付いたのは偶然だった。
ソファーで転寝をしてた男が強い視線に気付き目を覚ました時、そっと辺りを窺うと丁度学校から帰宅した少女が男を静かに見つめていた。
それは幼い頃と同じ、まっすぐな視線……。
その時に、昔のままの可愛い妹を取り戻せると確信した。
取り戻してみせると……
けれどそれの想いが狂ってしまったのは何時だったか……。
彼女の笑顔だけでは、足りない。
少女のすべてが欲しい………。
持て余す熱情。
兄として純真な彼女に対して抱くには、愚か過ぎるこの想い。
この想いは決して悟られてはならない。
少女にとって、自分は男である前に兄なのだから………。
少女に自分の想いを悟られない為、暴走しそうな感情を抑える為、男は少女と顔を合わせる事を避け始めた。
抱いてはならない恋だから……
許されざるこの想いを殺してしまおう……
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