報われない恋を、誰か葬らせて下さい。
幼い頃のまま、純粋な憧れだけを抱き続けられればよかった。
絶対に叶うことのない恋。
あの人の姿を見る度、切なさと恋しさに胸が痛くなる。
当たって砕けられるものならば、粉々に砕け散りたい。
けれど、この恋はそれさえも許されない恋。
苦しいほど焦がれても、告げることさえ出来ないこの想い。
塞き止められた溢れんばかりの想いの代わりに、苦しい涙が零れ落ちる……。
いっその事、忘れてしまいたい。
誰かこの恋を忘れさせて……。
自分では諦めることも、捨てることも、断ち切ることも出来ないくらい深すぎる、たった一人の義兄への想いを……。
「えっ?もうその話知ってるの?何で〜?」
友雅が玄関のドアを開くと、少女の高く澄んだ朗らかな声が廊下の奥から聞こえて来た。
友達と電話で話しているのだろう。いつも夕食が済めば、早々に自室へ籠ってしまう彼女にしては珍しいことだ。
友雅は少女の話を邪魔しないよう、静かに玄関ドアを閉めた。
廊下に弾むような笑い声が響く。
友雅の前では決して笑顔を見せない少女が、屈託なく笑っている。
その声を聞きながら、友雅はやるせない息を吐き、室内へ足を向けた。
「もう、おしゃべりなんだから……、うん、本当だよ。先週の終わりに申し込まれたの、付き合ってくれって」
期せずして耳に入ってきた少女の言葉に、友雅の足がピタリと止まる。
………今、彼女は何と言った?
「う〜ん、今回はねぇ、付き合ってみようかなって思ってる。明日、返事する約束なの。………知ってるよ、彼の噂くらい。すごく有名じゃない?『30分でベッドの上』だよね」
リビングの優しい間接照明の明かりの中、少女はソファーの上でクッションを抱きかかえ、微苦笑を浮かべ話していた。
肩口で切りそろえた明るい色の髪が、少女が動くたびサラサラと揺れる。
「心配性ね、でも大丈夫。だってわかってるもん、彼が今まで付き合ってきた女とはちょっと毛色の違う私に興味があるだけだってことぐらい……。それにお互いさまだよ、私だって30分でベッドに行く気にさせる彼のテクニックに興味あるだけだし……」
電話の相手が少女の言葉に怒っているのが、微かに漏れ聴こえる声のイントネーションで分かる。
それを聞きながら少女は苦く笑い、引き寄せた膝を抱え込んで丸くなった。
「おちついてよ、そんなに怒ることないじゃない。………やけになんかなってないよ。ただね、忘れたいだけなの。……嘘でもいいから誰かに好きって言って欲しい。優しく抱きしめてもらいたい。惚れさせて欲しいのよ。……私が本当に好きな人は、一生振り向いてくれないから……」
ポツリと落ちた、小さな小さな呟き。
伏せ目がちに薄っすら切なく微笑む少女の横顔の美しさに、友雅は不覚にも目を奪われてしまう。
それはまるで一夜だけ花開く、白く儚い華のよう……。
「もう、諦めたの………。ううん、そうね、蘭の言うとおり、簡単に諦めきれるものじゃないから……。だから優しくして欲しいの。甘い言葉で酔わせて欲しい。苦しいほど想っても届かない想いを、もう忘れてしまいたい。あの人を忘れたいから彼の告白を受けるし、……忘れる為に、求められたら応えようと思う…」
「あかね!!」
瞬間、友雅は怒鳴ってドアを叩きつけるように開いた。
突然の侵入者にあかねが驚愕し振り返る。
友雅の姿を認めたとたん、険しく寄せられる眉宇。
そんな少女の表情さえも、友雅の中で荒れ狂うドロドロとした得体の知れない激しい感情を波立たせた。
けれどそんな友雅の胸の内に気付かぬあかねは、すぐに驚きの表情を綺麗に消して友雅から視線を逸らし電話を置いた。
「……盗み聞きなんて酷い事をするのね」
「聞こえるような声で話していたのはあかねだろう?聞かれて悪い話なら部屋へ行きなさい」
友雅の声が冷たくあかねに突き刺さる。
「そうするわ」
あかねはスッと立ち上がり、友雅の横を通り過ぎようとした。
一切友雅を見ようとしないあかねに言い知れない苛立ちが沸き起こる。
「痛っ!ちょっと、何するの!?放して!」
いきなり掴まれた二の腕。柔らかい皮膚に、友雅の指が喰い込む。
あかねは痛みに顔を顰めながら、友雅を睨みつけた。
友雅は冷ややかにあかねを見つめる。その感情を消した恐ろしいほど美しい義兄の表情を直視出来ず、あかねは視線を反らして、殊更きつい口調で言った。
「用が無いなら放して」
身を捩って、友雅の手を振り解こうとするが、男の力が緩むことはない。
友雅は頭一つ分低いあかねを、腕一本でそばに引き寄せた。
「……男と付き合うつもりかい?」
「何か悪い?」
すでに友雅に話を聞かれていると分かっているから、あかねにそれを隠すつもりはまったくないらしい。
ただ必要以上に喧嘩腰の口調だ。
「あかねの体目当てのような話だったが?」
「だから何か悪いの?」
「保護者として認められないよ」
「はっ?保護者?笑わせないでよ!!」
あかねが乱暴に力いっぱい友雅の腕を振り払う。そしてその柳眉を寄せて、友雅をきつくきつくねめつけた。
「毎晩飲み歩いて毎回違う女の香りさせて。まともに家に戻らない人のどこが保護者?今だってお酒の臭いさせて。ただの自分勝手な男じゃない!」
「あかね…」
「親が死んで私が邪魔になった時、もっともらしい理由をつけて寮に入れて私から逃げたくせに、偉そうな事言わないで!どうせ私は母の残したお荷物よ!母が死んで、紙切れ一つで増えた厄介者だわ!優しい振りして体よく私を学校に捨てたくせに!今更保護者面しないで!!私に口出ししないで!私の事は一切あなたに関係ないわ!」
「……」
叩きつけられた言葉に、友雅は声を失った。
あかねが抱えていた苦しみと悲しみが、一気に噴出す。
ただ立ち尽くす友雅を斜に睨みながら、興奮した自分を落ち着かせる為、あかねはひとつ息を吐いた。
そしてきっぱりと、こう言い放ったのだ。
「明日、ここを出てまた寮へ戻ります。もう手続きは済ませました。あなたも私がいない方が清々するでしょう?私にかまわずどうぞご勝手に……。そしてあなたも私にかまわないで。母が居ない今、あなたと私は何の関係もないんだから」
あかねの絶縁宣言に、友雅の顔が傷ついたように苦しげに歪む。
だが、昂った自分の感情を抑え、冷静さを取り戻そうとしていたあかねは、友雅のその一瞬の表情を見逃した。
あかねは用は済んだとばかりに、乱れた髪を片手で掻き上げ、部屋を出ようと再び歩を踏み出した。
「きゃっ!?」
友雅の横を通り過ぎようとしたとたん、あかねの体が強く後に引っ張られた。
突然の衝撃に、あかねの口から戸惑いの悲鳴が上がった。
引きずられる力に抗おうと伸ばした手が、その辺の物を床に薙ぎ落とす。
しかし縋るものが無く勢いに負けたあかねは、足を捌けず後ろ向きにバランスを崩した。
倒れる勢いで、そのまま打ち付けてしまうと思った頭がグイッと力強く引き寄せられた。
フローリングの上へ倒れた体全体に覆いかぶさる重み。
あかねが目を開くと、友雅の肩の向こうに白い天井が映った。
「な、何なの?」
突然の暴挙にも気丈に振舞おうとして、あかねは友雅を睨んでその肩を押し返した。
しかし友雅は動かない。
ただじっと、あかねを押さえつけて上から見下ろしている。
あかねを見つめるその翠がかった瞳の光が強すぎて、少女は小さく息を呑んだ。
「……関係無いなど、二度と言わせない」
聞いた事の無い低い低い声。
感情を抑え込んだ声に、今にも爆発しそうな危険を感じるのは本能だろうか。
身を起こし、あかねを見つめる暗い瞳に戦慄が走る。
「ちょっ…と、ふざけないで……。放して!」
声が震える。
こんな義兄は見た事が無い。
微かに眇められた眼差し。これは兄の眼じゃない。男の眼だ。
「関係がないというのなら、関係を作るまでだ」
「いやーっ!!」
夜のしじまに、少女の悲鳴と引きちぎられたボタンが床に散らばる小さな音が響いた。
back | top | next