鬼の脅威が去って早一年。
八葉として無事勤めを果たした者達に帝は褒美を与えた。
唐渡りの高価な薬や稀代の名工が鍛えた剣など、それぞれに見合った物だっ
た。
八葉となる前から帝の懐刀と称されてた橘友雅には中将への昇進と、宮中に
並ぶもの無しと謳われる麗しき姫宮の降嫁が内々に伝えられていた。
「あら、もうお帰りでしたの?二条あたりにいらっしゃると思ったのに」
分かっているくせに、そんな憎まれ口をきく女房に、友雅は珍しく苦笑をもらし
た。
「きついね、遠乃」
遠乃と呼ばれた女房は、くすくすと笑いながら端近でくつろぐ友雅の横へ当た
り前のように腰を下ろした。
「一人で酒肴を楽しむなんて、今業平の殿には似合わないですわよ」
そう言って遠乃は友雅が手にしている杯に酒を満たした。
友雅は一気にそれをあおる。
「・・・たまには一人で月見酒も風流だろう?」
「ええ、そんなしけた面じゃなきゃ、とても風流ですわよ。・・・殿はいつもそう。望
月を見上げては溜息ばかり・・・」
友雅の乳母子である遠乃は言葉に遠慮というものが無い。
だからこそ、ずばりと確信をついてくるのだ。
「溜息をついた覚えはないが・・・」
「長い付き合いですから、心で溜息をついていることくらいわかりますよ」
遠乃はふと声を潜めた。
「女二の宮様の事が気がかりですか?」
友雅の苦笑が深くなる。
いつも飄々とし本音を出さない男だが、生まれた時から共にいる乳母子の遠乃
には取り繕う必要もない。
だから、友雅らしくなく溜息とともに、空になった杯をカランと放り出した。
「・・・・・帝直々にお許し下さった事だからね。よほどの事がないとお断りはできない
よ」
「お断りするつもりだったのですか!?」
何でもない事のように言う友雅に驚いた遠乃。
帝のお言葉に逆らうなんて!
思わず声を上げてしまった。
だが友雅は軽く肩をすくめ、平然としたものだ。
「きっかけがきっかけだからねぇ・・・」
「きっかけ・・・ですか?」
不思議そうに遠乃は首をかしげた。
女二の宮降嫁は八葉としての働きに対してのものではなかっただろうか?
遠乃の視線の先で、友雅は月を見上げ懐かしそうに目を眇めた。
「永泉様が帝にお話しされたのだ、私と月の姫とのことを・・・。それを聞いた帝は私
の事を大層心配なされてね、神子殿に劣らない女人をと、掌中の玉である女二の
宮様を私にお許し下さったのだよ」
「神子様のかわり・・・ですか?」
「言葉が過ぎるよ、遠乃。・・・・否定はしないけれどね。血筋からいけば比べるべく
もなく高貴な方だ。女二の宮様をお断りするには神子殿を娶るしかない。・・・無理
な話だが・・・・」
そしてまた杯を手に取り、酒を干す。
遠乃は静かに降り注ぐ月光に照らされた友雅を切なげに見つめた。
「殿の心をそこまで奪われた神子様に私もお会いしたかったですわ」
「きっと遠乃の想像とはまったく違うと思うよ?」
「・・・どのようなお方だったか聞いてもよろしいかしら?」
「そうだね・・・・」
友雅は脇息にもたれ掛かり懐かしむように目を閉じた。
「遠乃から見ればまだ女童のようだろう・・・。幼くて、心を許した者にはどこまでも
優しく慈悲深い、けれど頑固なところもあってね、不思議な姫だったよ。私の事を
『友雅さん』と少し恥ずかしげに呼ぶ姿が、とてもかわいらしかったよ」
「まあ・・・。殿にそこまで言わせるなんて、世の女人とはまったく違うお方なのか
しら?」
「・・・ああ、京のどこにもいない、命の煌きが溢れていた姫だ。」
「分からないわ。何故殿は神子様をお止めにならなかったの?後悔することは分
かっていたでしょうに・・・」
遠乃の知っている友雅は、どんな事にも後悔や未練を残すことはなかった。
誰もが羨む華やかな人生を歩んでいながら、友雅自身は冷め切っていたのだか
ら。
それなのに、たった一人の少女については遠乃に弱味をみせるほど想いを残し
ている。
すべてを納得して、選んだ道なのではなかったのか。
友雅はけだるげに顔を上げ、中空に輝く月を見つめた。
「・・・私が後悔するより、神子殿が苦しむ方が耐えられないと思ったからだよ。神子
殿の残してくれた想いで生きていけると思った・・・だが・・」
友雅はふっと自嘲するような笑みを浮かべ呟いた。
「薄情な姫は、一度たりと夢路にさえ通って来てはくれない・・・。果たして彼女にと
って私はどんな存在だったのだろうね・・・」
遠乃さえ聞いたことの無い切ない溜息。
その問いに答えるものは誰もいなかった。
<続>
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