(桜だ・・・・・)
喫茶店の窓から見える一本の桜の木に、あかねは目を奪われた。
あれからいったい何年経っただろう。
あの日高校生だったあかねももう21才。
高卒で就職し今や立派な社会人だ。
戻ってきたあの日から、早く大人になりたくてまっすぐ前だけを見つめて歩いてきた。
夢のようだった三ヶ月。
いつまでも忘れられない、忘れることの出来ない夢・・・・・・
「ごめん!あかねちゃん。待った?」
ドアベルを派手に鳴らし入ってきた蘭は、両手を合わせ悪戯っぽくウインクした。
あかねがくすくすと笑い首を振って前の席をすすめる。
「大丈夫だよ。走ってこなくてもよかったのに」
「ゼミが長引いちゃって・・・、それにまたこれから行かなくちゃいけない所があるの。あ、コーヒーお願いします」
メニューを持ってきた店員にオーダーしながら、蘭は腰をおろした。
「あいかわらず忙しいね」
あかねの言葉に、蘭はひょいっと肩をすくめる。
「今はね。また今度ゆっくりごはん食べようね」
「うん。おいしいお店また見つけておくよ」
「楽しみにしてる〜。で、どうしたの?急に会いたいって」
置かれたコーヒーを一口飲み、蘭が首を傾げた。
ちょっとでいいから話がしたい、とあかねが強固に言い張ったので蘭は時間を作ったのだ。
あかねがわがままを言うのはとても珍しい。
蘭の問いにあかねは悪戯めいた笑みを浮かべ、顔の前で左手をひらひらと振った。
「うふふ・・・」
「えっ?あれ?」
爪先が綺麗に整えられた左手。
その指、正確には薬指に輝くもの。
「あかねちゃん、婚約したのー!?」
驚きに蘭が声を上げる。
あかねの指を飾るのはキラキラと透明な炎を秘めた宝石。
エンゲージリングの王道、ダイヤモンドだった。
蘭はあかねの手を引き寄せ、まじまじとそのリングを見つめた。
「いつかは・・・、って思ってたけど、こんなに早くって聞いてないよ!」
「言ってないもん」
つれない一言に蘭はあかねの手を叩いた。
「あかねちゃん!」
「痛いよ!もう」
お互い怒ったように相手を睨んだが、同時にふきだしてクスクスと笑いだした。
「実をいうとね、あの人の海外赴任が内定したのよ」
「・・・・・・さっすがエリートサラリーマン」
あかねの彼氏を思い出して、蘭が納得とうなずく。
一流大学を出て、英会話は万能、頭の切れる人だから出世街道一直線だと、学生の蘭でさえ思ったくらいの男なのだ。
しかもルックスも申し分なし。
「いい機会だし、仕事やめてついて行こうかなと思って」
そう言いながら見せる笑顔に、ほんの少し切なさが感じられるのは気のせいだろうか?
あかねのどこか冷めたような笑顔。
京と呼ばれる異世界から4人で戻ってきて5年。
あかねの諦めを含んだ微笑を一体何度見てきただろう。
あの日から、あかねは決して口にしない「言葉」がある。
そして蘭も口に出来ない「言葉」があった。
ほんの少しの間、唇を引き締めて考えていた蘭がひとつ息を吸い、5年間禁句となっていた『名』を口にした。
「友雅さんのことは、もういいのね?」
瞬間、あかねの笑顔が凍りつく。
だが、蘭はかまわず続けて言った。
「どんな人と付き合っていても、あかねちゃんはどこかで友雅さんの面影を追っていたよね?違うなんて言わせないよ?」
うつむくあかねの肩から、サラサラと長く伸びた髪がこぼれ落ちる。
京から帰ったあの日より、ずっと伸ばしてきた髪。
友雅の触れた髪を切ることなんて出来なくて・・・・・。
腰を越すその髪の長さが友雅への想いを如実に語っていた。
二人の間に沈黙が流れる。
やがてあかねはひとつ溜息をついて顔を上げた。
「そう・・・だね。どんな人と付き合っていてもあの人を忘れる事は出来ないと思うよ。だからこそ、結婚するの」
「あかねちゃん・・・・」
「あの人と別れる事を選んだのは私。後悔することも分かっていた。でももう過去の事なの。辛くて切なくて哀しいけど、私は私の選んだ人生を歩いていくわ。・・・。じゃないと、私はあの日から成長できない・・・・。結婚するのは、彼となら一緒に生きていけると思ったから。だからついて行く」
蘭を見つめる瞳は、諦めと強い決意を秘めていた。
確かに、もう二度と京へ行くことはないだろう。
そして友雅と再会することも・・・・・
この世界に戻ったあかねの決意が正しいことは分かっている。
でも、蘭は心のどこかで何かが違うと感じるのだ。
漠然と割り切れないものもある。何かは分からない・・・。でもこのまま何も知らずに、あかねの新しい人生を手放しで祝福できないと思った。
(だってね、あかねちゃん。友雅さんの事を『あの人』って言って、名前を呼べないんだよ?それに気が付いているの?・・・・・はっきり想いに決着つけた方がいいんじゃない?今のままだったら、ずっと苦しいだけだよ・・・・)
だから黙っていようと、兄と詩紋とで決めた事をあかねに告げることにした。
「もう、友雅さんのことはいいのね?」
再度、確認するような蘭の強い視線に、あかねは戸惑いながらもこっくりと頷いた。
蘭はすでに冷え切ったコーヒーを一口飲み、ずっと黙っていたそれを口にした。
「これは言わないでおこうと思ってたけど、あかねちゃんがそこまで決心してるなら教えてあげるね」
蘭の真剣な眼差しに、あかねが訝しげに首を傾げた。
そして蘭の告げた一言は、あかねに強い衝撃を与えたのだった。
「あの井戸・・・、住宅開発でもうすぐ埋め立てられるよ」
(あの井戸がなくなる・・・・・?)
<続>
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