「・・・もう来ることはないと思ってたんだけどな・・・・」
青く芽吹いた草を踏みしめる音がする。
遠いあの日も同じようにここを歩いた。
心は違ったけれど・・・。
井戸は変わらずそこにある。
あかねは井戸にあまり近づかずに、ぐるりと辺りを見回した。
満開の桜が舞い散り、まるであの日のようだ。
違うのは、たった一人でここにいること。
取り壊されると聞いて、何故かここに来てしまった。
京とこの世界を繋ぐ、唯一の場所。
過去を振り返らない為に、もう井戸には近づかないと決めていたにも関わらず・・・。
「もう5年か・・・・。八葉の皆はどうしてるのかな?」
あかねは指を折りながら、その姿を心に思い描きつつゆっくりとその名を呼んだ。
「頼久さん、泰明さん、鷹通さん、永泉さん、イノリ君・・・・・・そして・・・」
5人で握ってしまった指。
最後にゆっくり伸ばした小指にその『名』が紡がれることはなかった。
伸ばした小指の隣に光る約束の指輪。
あかねはその左手を右手で握り締め、静かに瞳を閉じ深く深く息をついた。
「私、もうすぐ結婚します。・・・・・・・祝ってくれますか?」
答える者のいない問い。
きっと一生忘れることのない人。忘れられない恋。
別れを選んだのは、自分に自信がなかったからだった。
あの人は誰よりも優れた華やかな人だったから。
軽い言葉に隠された深い思いやりと大人の余裕。
どんなに背伸びをしても追いつけなかった自分。
龍神の神子でなくなった、ただの小娘に過ぎない自分を見せるのが怖くて怖くて・・・・・逃げてしまった。
あれから5年。
「少しはいい女になったのかなぁ・・・・・」
いつもいつも想っていた。
だから少しでもあの人に近づきたくて、『いい女』になりたかった。
『彼』が認める『いい女』になれるよう、きっとこれからも想いを抱いて生きていくのだろう。
もうすぐ新しい生活が始まる、けれど変わらない『彼』への想い。
「あなたが幸せであるように・・・・祈っています」
(・・・・・〜ン・・・)
「えっ・・・?」
微かな音にふわりと顔を上げる。
風が・・・・・吹いた。
「藤姫様?」
見ていた絵物語からいきなり顔をあげた幼い姫に、女房は訝しげに声を掛ける。
だが藤姫は厳しい眼差しで御簾の向こうの空を見ていた。
「頼久、源頼久を呼んで下さい!」
「おい!泰明、どこへ行く!!」
「お前には関係ない」
兄弟子の制止も聞かず、泰明は陰陽寮を出て行った。
「泰明殿」
「頼久・・・・・藤姫か・・・・」
ある場所で出会った2人。
彼らはそれ以上何も言わず目指す場所へ足早に向かった。
1年前、すべてが始まった場所。
二人の目に映ったのは、不思議な服を着た女性だった。
腰を越す明るい髪。細い足。
「・・・・・・神子」
泰明の声に振り返ったのは、記憶よりも美しく成長した女性だった。
ゆっくりと閉じた瞳から、なめらかな頬にひとすじの涙が零れ落ちる。
「何故、私はここにいるの・・・・・?」
一陣の風があかねの髪をなぶりあげた。
<続>
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