いつものように、地下へと下りてゆく。明かりが少なくなり、どんどんと暗くなっていく。
もうすぐ開店時間の夜7時。今週二度目の来店。
特別待遇がなければ、こんなところに通うなんて出来ないし、特別なことがなければ…こんなところにやってくる理由もない。
「今日はいるのかなぁ………」
チャコールブラウンのシックなドアを、軋み音と共に手前に引く。



「いらっしゃいませ」



ドアを開けたとたん、いつも聞き慣れている声とは違う男の声があかねを迎え入れた。
「そんなところに立っていないで、どうぞこちらへお入り下さい」
声の主が近づいてきて、あかねをエスコートするように手をさしのべた。




緩やかに束ねた豊かな髪。180を超えるスラリとした長身。がっしりと広い肩幅。そして、身体の奥に響くような甘い声と……艶やかな視線を生み出す瞳。
目の前にやってくると、それだけでドキドキしてくるほどの………肖像。
「天真のお客様だよね?残念ながら今日は天真はお休みなのだよ。」
「えっ………そ、そうなんですかっ!?」
予想外だ。そんなこと聞いていなかった。
彼がいなくては………この店で一時を過ごすなんてとても出来ないというのに。





「天真以外のご指名はダメなのかな?」
困ったようにおろおろとしているあかねに、彼が問いかけてきた。ほんのりと甘いワインのような香りが漂う。
「ちょっと…色々とあって……」
言えるわけがない。
今までは大学の同級生である彼のコネで、破格の割安でこの店に来ることを許されていたのに、彼がいなくては通常料金を支払わなくてはならない。そんな代金を一般の女子大生であるあかねが支払うことなど無理だ。





残念だが、諦めるしかないだろう。今日は出直してくるしか……ないか。目の前に彼の姿があるというのに、店を後にするのは少し後ろ髪が引かれるのだけれど仕方がない。
そう決意したあかねに、突然彼がとんでもないことを言い出してきた。
「ね、今日は私が君のお相手をするというのはダメかい?」



-------彼が?自分の相手をしてくれる………?クラブでもトップクラスの人気を誇る彼が、私の相手をかってでてくれる……って?



それはあまりにも甘美すぎる誘惑。彼が私と共に、時間を過ごしてくれる。
………どうする?断る……なんて出来ない。だけど…………………。



「お金のことは心配いらないよ。天真とは話をつけてあるから気にすることはない。」
「…………!」



彼の微笑みに酔いしれるスキもなく、あかねの背中には驚きの冷や汗が流れた。




■■■




いつものカンパリ。赤い液体がグラスの中で気泡と交わり、薄暗いライトに照らされると水族館の水槽のように幻想的だ。
しかしそんなことよりも隣にいる彼の姿こそが……あかねには夢のようだ。
「すいません……天真くんのこと、怒らないでください…。私が無理矢理頼んだからで、私が全部いけないんです……」
小さくなって頭を下げたあかねの姿は、まさに普通の少女という感じだった。素顔に近いナチュラルメイクのピンク色した唇が、逆に新鮮で愛らしく見える。
「そこまで私は中身の狭い人間じゃないよ。知り合いを招くことから新しいお客につながることもあるしね。気にしないで君も楽しめばいい。」
友雅は足を組んで、身体を後ろにのんびりと反らした。そして流すような視線で、隣にいるあかねの姿をとらえる。




「名前はなんて言うの?」
「……あかね…元宮あかねです…」
「そう。天真と同い年というと、二十歳かな?もっと若く見えるね」
「…………」
複雑な心境だ。二十歳に見えない、というと…子供っぽいと遠回しに言われているのだろうか。
そう思うとすんなり喜ぶ気になれない。
と、そんなあかねの心境を見抜いたのか、友雅は笑いながらあかねとの距離を狭めた。
「可愛いってことだよ。女性はいくつになっても、可愛らしいのが男としては魅力的に映るものだからね」
彼の指先が、軽くあかねの頬を突いた。




この店に通うようになってしばらく経つが、彼をこんな間近で見たことはない。
肩を抱くには丁度良い距離。自分の姿が映る瞳……こんなにも心を乱す色を兼ね備えた瞳を、未だかつて見たことなどない。




「天真とは、本当に恋人とかの関係じゃないの?」
友雅の瞳に見とれていたあかねは、彼の言葉にはっと我に返った。
「ち、違います!全然!そんなんじゃないです!」
あかねはグラスを手にとって、カンパリを少し口に含んだ。苦みが広がって、少し舌がしびれる。本当はあまり美味しいとは思わないけれど、天真が『この程度なら』と最初に選んでくれたものをずっとオーダーし続けている。
「彼氏と一緒にいたいから着いてきたとか、彼氏が他のお客さんに熱を上げたら嫌だから、とか…そういう理由でこの店に来たんじゃないのかい?」
「ぜ、絶対にそんなんじゃないですっ!だって私には……っ!」
半分身を乗り出したせいで、さっきよりも更に友雅との距離が近くなる。吐息さえも感じるほどの距離だ……。
「…恋人が他にいるの?」




そんな人はいない。だけど、好きな人は………いる。




「そうか。それは残念だね。あまりに可愛いから気になっていたんだけれど、他に矛先が向いているなら、私にはどうしようもないか」
身体中が脈打つ。からかうつもりの言葉かも知れないけれど、今のあかねにとっては充分な毒素を持つ台詞だ。
ほどけかかった髪を揺すると、ふわりと自然なウェーブの掛かった髪が背中に向けて流れ落ちる。目に少しかかる前髪をかきあげる仕草に、更にあかねの鼓動が早くなる。
「まあ、君みたいに若い子には、こんなおじさんは不釣り合いだしね。恋愛対象にはなるはずがないね」





--------「そんなことないですっ!!!!」





しん、と静まりかえった店内に、あかねの大きな声が響き渡った。広い地下のフロアのせいで、反響は思った以上に大きい。
そしてはっと自分に気付く。
今……友雅が目の前にいるというのに、とんでもないことを叫んでしまったのではないか?





十以上も離れた年齢差。普通だったら……お互いに恋愛対象の範囲ではないだろう。
だけど、それでも………好きになってしまったらどうしようもない。




「じゃあ私も少しは期待しても平気ってことかな」
あかねは静かに、こくりとうなづいた。
「ああ、でも…君には好きな人がいたんだよね。それなら期待しても仕方がないか」
「そ、それはっ………!」
顔を上げた瞬間、これまでで一番の至近距離に友雅の顔があった。
一歩揺らいだら…唇が触れてしまいそうなほどの距離で。



「教えて。君が好きな人の名前。」



しびれるほどの甘い囁き。神経がゾクゾクと逆立てられそうな声で、そんな問いかけを耳元で囁かれて……倒れてしまいそうだ。





好きな人の名前は………私の好きな人は………………。





-----あなたに逢いたいから、こうして何度も通い続けているの。-------なんて、とても声には出せない。









back | next