「むぎっ!」
逃がせない。
腕の中から逃げ出した小さな体を、俺は必死に追いかけた。
今、彼女を逃したら、もう二度とこの手にすることは出来ない。
俺はその最悪の予感に苛まれながら、彼女に向かって腕を伸ばした。
もう離せない。
君が見せてくれた心を、もう二度と放さない。
今度こそ、俺は自分の気持ちを見誤ったりしない。
彼女を、絶対に抱きしめる。
+++
酔っている上に、高めのヒールを履いていたあたしは、すぐに追いついた依織くんに腕を掴まれた。
引っ張られた勢いのまま、あたしは依織くんの広い胸に頬をぶつけてしまう。
依織くんは逃げようとするあたしを、力任せにその腕の中に抱きしめた。
依織くんの力は強い。
依織くんが本気になれば、あたしがどんなに暴れたって全然敵わない。
依織くんのコロンの香りが、あたしを包み込む………。
「放してっ!」
「駄目だよ…。もう、放せない」
依織くんはそう言うと、あたしの頬に手を添えて、そっと親指で目尻のあたりを撫でた。
「泣かせて、ごめん…」
言われて初めて、あたしは涙が零れていることに気付いた。
「放してよ…」
あたしは震える手で、依織くんの胸を押し返した。
でも……。
「絶対に放さない」
依織くんは、あたしの抵抗を簡単に力で封じ込んでしまう。
「依織くん!」
睨み付けるように見上げたあたしに、依織くんは真摯な眼差しを向けた。
「君を傷つけた俺を信じてほしいなんて、勝手なことを言っていると分かっている。それでもむぎ、俺は君を愛してる…」
依織くんの涼やかな切れ長の瞳が、あたしだけを見つめる。
一言一言を、噛み締めるようにゆっくりと告げた依織くん。
彼の強い視線に耐えられなくて、あたしはそれを避けるように目を閉じた。
はらりと涙が、頬に零れ落ちる。
「あたしは……」
後から後から、涙が流れる。
「むぎ、どうしたら俺を信じてくれるの?君を哀しませ続けた俺は、どう償ったら許してもらえる?」
依織くんの言葉なんて耳に入ってこない。
あたしはただ、自分の意思とは関係なくとめどなく零れる涙が嫌だった。
「あたしっ……。依織くんとさよならした時だって泣かなかったのに!」
どうして、どうして、こんなに涙が零れるの。
依織くんに別れを告げられた時でさえ、あたしは泣かなかったのに。
「むぎ……」
「どんなに辛くても切なくても、泣いたりなんてしなかった!それなのにどうして!!」
「むぎ」
依織くんは、たまらないとばかりにあたしを深くその胸に抱きこんだ。
髪に絡みつく依織くんの手が、しっかりとあたしの頭を包み込む。
「気がすむまで泣いていいから。泣いて、涙を流して、その涙と一緒に辛い想いを洗い流してくれないか?」
「………」
「そして涙が止まったら、笑ってほしい。叶うことなら、もう一度、俺を愛してると言って……」
「依織くん……」
あたしを抱きしめる依織くんの腕が、微かに震えてる。
依織くんの、早い鼓動を布越しに感じる。
あたしを抱きしめてくれる依織くんの指先は、少しだけ冷たかった。
涙を流して泣いているのはあたしなのに、何故かあたしは依織くんも泣いているような気がした。
依織くんは後悔しているって言っていた。
だったら、依織くんもあたしと同じように辛い思いを抱えていたんだろうか?
ずっとずっと、あの日を思い出して悔やんでいたんだろうか?
あたしは、恐る恐る躊躇いながら、そっと依織くんの背中に腕を回した。
あたしの手が依織くんの背に触れた瞬間、依織くんの体が僅かに震え、あたしを抱きしめる腕の力が増した。
依織くんが深く息を吐く。
ねえ?信じていいの?
これは夢じゃないって、信じていいの?
抱きしめてくれる依織くんの腕の強さを、あたしは信じていいの?
「好きなの…。あたしは依織くんが好き」
あたしは、震える声で、でも一生懸命想いを込めて呟いた。
ずっとずっと言えなかった言葉。
彷徨い続けていた、あたしの深い想い。
「むぎ…」
「好きよ、依織くん…」
あの時、依織くんの心の奥まで届かなかった想い。
それをあたしは今、もう一度口にする。
依織くんはただ黙って、あたしの頬に恐る恐る手を添えて顔を上げさせた。
その手が、やっぱり微かに震えてる。
依織くんも、怖いの?
あたしと同じように、怖いって思ってるの?
涙でくしゃくしゃなはずのあたしの顔を、依織くんは指先でそっとなぞって、愛しそうに目を細めて見つめてくれた。
「ごめん。…君を信じられなくて。君の『変わらない気持ち』を……」
依織くんの言葉に、あたしの心がふんわりと温かくなる。
覚えていてくれたんだね。
あたしが必死に依織くんに訴えたことを。
でも………。
今は違うんだよ。
「……『変わらない気持ち』じゃないよ」
「え?」
「あたしの気持ちは、あの日から変わってる。もっと、ずっと深く依織くんを好きになってる」
あたしは涙を零しながら笑おうとした。
依織くんが笑ってほしいと言ったから。
「っ、むぎ!」
依織くんは、堪らないとばかりにあたしをもう一度しっかり抱きしめた。
「愛してる、むぎ、君だけを…」
昂る感情を押さえつけた、まるで吐息のような囁き声だったけれど、依織くんの言葉はあたしの心に深く沁み込んでいった。
「依織くん……」
「これまで、君を傷つけてばかりだった俺だけれど、これからはそれ以上に君を守るから…」
「うん…」
「愛してる…」
あたしの頬に、また涙が零れ落ちる。
でもそれは、さっきまでとは違う涙だった。
「うん…。あたしも依織くんが好き…。だからね、あたしも依織くんを守ってあげる…。二人で幸せになろう?」
あたしの言葉に、依織くんは一瞬意外そうに息を呑んでから、くすくすと喉の奥で笑った。
「まったく君は……。本当に、俺は君に敵わないな」
端正な顔に柔らかな微笑を浮かべた依織くんが、鼻先が触れそうなくらいの至近距離であたしを見つめる。
依織くんの熱く甘い視線にドキドキして耐えられなくなって、あたしは僅かに視線を逸らしてしまった。
その瞬間、唇に触れた、優しい温もりをあたしは絶対に忘れない。
「むぎ……」
あたしの名を呼ぶ声に込められた依織くんの想いが、優しくあたしの心を包み込む。
あの日から、行き場を無くしていたあたしの恋は、この夜、やっと落ち着ける場所を見つけた。
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