「あ、お帰りなさい、瀬伊くん」
キッチンで夕食の準備をしていたむぎは、にこにこと楽しそうな笑みを浮かべて入ってきた瀬伊に気付き、濡れた手を拭きながら近づいた。
「何か軽く食べる?」
健康な男子高校生であるラ・プリンスは、よく夕食までの間に軽く食べることがある。
制服のまま顔を出した瀬伊に、いつものように声をかけると、瀬伊は「魅惑の微笑み」と女子の間で評判の笑顔を浮かべ首を横に振った。
「違うよ。これを渡そうと思ったんだ」
「あ…。あたしの荷物…」
差し出されたのは、依織に無理矢理連れ帰られたむぎが、学園に置いてきたバッグだった。
教科書や参考書は必要なもの以外、学園のロッカーに入れたままだから重くはないのだが……。
「ごめんね、瀬伊くん。ありがとう」
受け取りながらむぎは申し訳なさそうに頭を下げる。
元々自分の荷物さえ最小限にする瀬伊が、幾ら頼まれたからといえ、これを持って帰ってくれることはとても珍しい。
しかしそれ以上に……。
「ねえ、瀬伊くん。どうしてバッグのことわかったの?」
瀬伊とは学年が違うし、たとえ夏実が気をきかせたとしても、彼女自身が直接持って来て瀬伊に頼んだりしないはず…。
むぎは不思議そうに首を傾げた。
そんなむぎに、瀬伊はにっこりと微笑みをむけた。
「松川さんから連絡があって、頼まれたから」
「え?依織くんから?」
「そうだよ。……派手にやったみたいだね、松川さん」
くすくす、面白そうに笑う瀬伊に、むぎは恐る恐る訊ねた。
「……噂になってる?」
「うん。盛大に」
いや、そんなに嬉しそうに言わないで欲しい…。
むぎはくらりとして、こめかみを押さえた。
「……どんな噂か聞いていい?」
「どっちが好み?」
「はぁ?二つあるの!?」
「うん、女子バージョンと男子バージョン」
バージョンって何?何なの!?
「……女子バージョンでお願いします」
どちらがより気になるかといえば、やはり同性の噂である。
むぎは悪い予感に苛まれながら、女子バージョンを選んだ。
「端的に言えば、むぎちゃんが屋上で……」
瀬伊は優しげな笑みを崩さず、楽しそうに話し出した。
「あたしが屋上で?」
「困惑する松川さんを…」
「……依織くんを?」
「無理矢理押し倒していた」
「………祥慶女子…」
瀬伊の短い要点をついた説明に、深い脱力感を覚えたむぎは、テーブルに手を付いて崩れそうになる身体を支えた。
「で、本当に押し倒してたの?」
「そんなわけないでしょーーーー!!!」
とぼけた質問をする瀬伊に向かい、祥慶女子に対する怒りも含めて、むぎは絶叫した。
「荒れてるなぁ。むぎ」
びっくりまなこで顔を出したのは、肩に乗せた手にヘルメットを引っ掛けた麻生。
その表情が、すぐに同情を含んだ苦笑に変わって、彼もまた噂を耳にしているのだと分かった。
「お帰りなさい……、麻生くん」
はぁぁ、と深い溜息。
「おう。…一宮から聞いたのか?」
主語がなくても分かる。
むぎは疲れきって、がっくりと頭を落とした。
「聞いた。女子バージョン」
「何だ?それは。女子バージョン?」
「噂に二種類あるんだってさ。祥慶女子めっ!」
「俺が聞いたのはひとつだぜ?」
「羽倉は男子の噂だろ?女子から聞けるとは思わないからね〜」
「うっせーぞ!一宮!!」
「あーもう、どっちでもいいよ!で、麻生くんの聞いた噂はどんなの?」
「俺は、屋上で松川さんがむぎを押し倒してたってやつ聞いたぜ。つーか、なんてことしやがるんだよ、松川さん」
「ありがとう!麻生くんっ!あたしの気持ちを分かってくれるのは、麻生くんだけだよっ!」
大きな目をうるうると潤ませ、むぎはガシッと麻生の手を取った。
「むぎちゃん、僕は〜?」
甘えた声で自分を指差す瀬伊には、キッと鋭い眼差しを向けた。
「瀬伊くんは、面白がってるだけじゃない!!噂聞いてよけいなこと言わなかったでしょうね!?」
「余計なことなんて言ってないよ。むぎちゃんのクラスの女子に聞かれたことを答えただけ」
「……すごく嫌な予感がするんですけど!何て聞かれて何て答えたの?」
「え〜?鈴原さんどうしたんですか?って聞かれたから、さあ?知らないって。ただ松川さんにバッグを届けてくれって頼まれただけだって」
「余計なこと言うなーーーーーー!!!」
「一宮、お前……」
「余計なことじゃないよ、本当のことだもん」
にっこり、小悪魔の微笑がむぎを襲う。
「それとも、みんなに知られてはイケナイことでもしてたのかな?」
「瀬伊くん!」
「一宮!!」
「うわ〜、むぎちゃんだけじゃなく、羽倉まで赤くなってる。おっかしいの〜」
「てめー!一宮!!」
「首筋のキスマーク、隠したほうがいいよ。制服の襟は高いから平気だろうけど」
「ええ!!」
瀬伊の指摘に、むぎは目を見開いて慌てて両手で首を隠した。
むぎの顔は、耳の先まで真っ赤である。
「い〜ち〜み〜や〜」
「僕を怒るのはお門違いだよ、羽倉。怒る相手はむぎちゃんとの噂を作った松川さんだろ?」
「お前がむぎにとどめさしてどうするよ!」
「どうせ、明日には学園中の注目の的だよ。覚悟決めてたほうがいいからさ」
「それでもものの言いようがあるだろうが!」
「うわ〜、羽倉ってば、やっさし〜」
「てめー!」
「暴力はんた〜い」
ふざけ倒す瀬伊に、すぐに熱くなる麻生が突っかかっていく。
そんな二人を見ながら、むぎは学園の噂を思い、深く息を吐いたのだった。
「だいたいあたしがどうやって依織くんを押し倒せるっていうのよ!力で負けるに決まってるよ!!」
廊下の窓を力いっぱい拭きながら、むぎは祥慶女子の噂に対して文句を並べていた。
あの状況で、いったいどこをどうやったらむぎが依織を押し倒しているように見えるのか……。
きっと伝言ゲームのように、どこかで依織とむぎの名前が入れ替わったに違いない。
それでもちょっと考えれば、むぎが依織を押し倒す不自然さに気付くはずなのに、依織はラ・プリンス。
祥慶女子の標準装備、ラ・プリンスに対しての乙女フィルターはその程度の事では、びくともしないらしい。
恐るべし、祥慶女子。
「松川さんなら喜んで押し倒されると思うが?」
いきなり声を掛けられ、慌てて振り向いた先には、入り口に軽く肩を持たれかけさせた一哉が呆れたようにむぎを見ていた。
「一哉くんっ!立ち聞きしてたの!?」
ひどい!と拳を振り上げたむぎの額を、一哉は軽く指先で弾いた。
「馬鹿か?お前は。それだけ大きな独り言なら聞こえるぜ。ところで、また馬鹿なことやったらしいな」
「そのセリフ、そっくりまるごと依織くんに言ってやって」
「バーカ。お前、松川さんを怒らせただろうが」
「怒らせた?う〜ん……、怒ってたのかな?」
腕を組んで考えるが、依織が怒っていた素振りは見せなかった。
本当に一哉が言うように怒っていたのだろうか?
「あの人が考えなくこんなことをやるはずがないだろ。お前が馬鹿なことしでかしたに決まってる」
「決まってるってねぇ……」
「気をつけろよ。あの人はああみえて、かなり怖いぜ」
「……一哉くんに言われると、すっごく不安になるんだけど」
「そうか?それはよかったな。その不安を抱えて、明日学園に行け。それ以上のことがあるぞ、きっとな」
一哉の不吉な予言に、むぎは嫌そうに顔を顰めた。
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