「松川さまっ!?」
 数人の女の子の悲鳴が、むぎの耳を打った。
 ラ・プリンスの中で最もフェミニストと言われる依織が、女の子を無理矢理押し倒している。
 信じられない衝撃のシーンに遭遇した少女達が驚愕する。





 女生徒たちは息を飲んで立ち竦み、動けなくなった。





「依織くん!やだっ!離してっ!皆見てるっ!」
 依織の暴挙と人に見られた焦りで、切羽詰ったむぎの拒絶の声が寒空に響く。
 だが………。
「見せつけてやればいいさ…」
 トーンを落としたハスキーヴォイスが依織の本気を感じさせ、むぎは驚きに目を見開く。
「!?」
「そうしたらむぎが誰のものか、はっきりするだろう?」
 ふっと目を細め笑ったその顔は、いつも二人で過ごす夜に見せる男の顔で……。
「やっ!」
 むぎは依織に底知れぬ怖ろしさを感じ、顔を背けようとした。
 しかし依織の力に敵うはずがない。
 大きな手が、むぎの後頭部を髪を乱すようにして荒々しく掴む。
「っん…!」
 無理に合わされた唇。
 再び上がる、女生徒の悲鳴。
 ドンッと依織の肩を叩いても、彼の力が緩むことはなかった。





「ま、松川さま…」
 信じられない光景に出くわし、呆然としていた少女達。
 しかし依織に抵抗するむぎの、喉の奥から搾り出すような悲鳴に我を取り戻した勇気ある一人が、小さく怯えながらもどこか非難を含んで依織を呼んだ。
 それに依織が顔を上げる。
「依織く…っ」」
 唇が自由になったとたん、依織を詰ろうとしたむぎの口を、彼はその大きな手で覆い力で彼女の言葉を奪った。
「んんっ!」
「いつまで見ているつもりだい?」
 絶対零度のするどい依織の視線が、女生徒達を射竦める。
「あ…」
「邪魔をしないでくれるかな?」
 女生徒に向けた笑顔。
 それは壮絶に美しく、拒否を許さない酷薄さがあった。
 女生徒たちは、初めてみる依織の威圧感に小さく怯え、微かな悲鳴と共にバタバタと階段を駆け降りていった。






「ふふ…、これで午後からはこの噂で持ちきりだね…」
 女生徒が立ち去るのを見送った依織が、面白そうに笑いながらむぎの口を塞いでいた手を放した。
「依織くん!?もしかしてわざと!!」
 一瞬で見事に雰囲気を和らげた依織を感じ、むぎが顔を顰めて声を上げた。
「当たり前だろう?そうでなければ、こんな可愛いむぎの姿を見せるわけない」
 薄っすら浮かんだ依織の美貌の笑みは、女生徒に向けたものと違うとはいえ、どこか冷たさを孕んでいた。
「……どうして?」
「『どうして?』面白い事を聞くね?むぎ。君が誰のものか、教えてあげただけだよ」
「依織くん……」
 依織は呆然とするむぎと視線を合わせたまま、言葉を紡ぐと唇が微かに触れる距離でしっとりと笑んだ。
「ねえ、むぎ?君は何度告白された?」
「あ、……されてないよ…」
「ふふ…。嘘はいけないな。俺が知らないとでも思ってるのかい?」
 むぎの耳を擽る吐息にまぎれた、ぐっと押さえた低い囁き。
 素肌を撫で上げるような甘いベルベットヴォイスに、むぎの身体が小さく震えた。
「依織く…」
 言い訳もなにもかもが、依織の唇に奪われる。
 深く、優しく、激しく、強く……。
 依織が思うままにむぎを翻弄する。
「ふ……、は…ん…」
 依織に熱を煽られて、風の冷たさも遠くで鳴る午後の授業のチャイムも、どこか別世界のようだった。





 でも……。





 依織に酔わされ朦朧とする意識の中で、欠片のような理性を掴んだむぎが、震える手で依織の肩を押すと、依織は意外にもあっさりと深い口付けから解放してくれた。
「…っ…、授業…」
 キスで息が乱れて、それだけ言うのが精一杯だった。
 まだまだ馴れない可愛らしいむぎの頬を依織が大切に包み込む。
「相変わらずまじめだね、鈴原先生?」
「依織くんっ…」
 からかうように笑いながら、依織が仕上げとばかりに小さな音を立てて、キスで赤く染まったむぎの下唇を軽く吸った。
「でもこのまま遅れて授業に出る気かい?」
「え?」
「目尻をほんのり染めて、瞳を潤ませた今の顔で?……噂に拍車をかけるだけだと思うけどね」
「誰のせいよっ!」
 眉間に皺を寄せ、むぎは依織を怒鳴りつけた。
 依織が笑いつつ身体を起こし、むぎを抱き起こす。
「僕のせいかな?」
「当たり前でしょう!!」
「違うね。元はと言えば、むぎのせい」
「私!?」
 心外だとばかりに、むぎが依織を睨みつける。
 しかし依織は当然と頷いた。
「むぎが嘘をつかなければ、僕はこんなことをしなかったと思うけど?」
「だから、それは!」
「隠してもいいと言ったけど、嘘を吐いていいなんて言ってないよ、むぎ?」
「……」
「君が多くの告白を受けているのも知っている……。もう我慢の限界だ…」
 依織の顔から、いつもの笑みが消える。
 むぎは依織の本気を感じ取って、何も言えなくなった。
「…依織くん」
「明日の噂が楽しみだね……。これでむぎが誰のものか、はっきりしただろう」
「私は依織くんのものって?」
「そういうことになるかな?」
「じゃあ、依織くんも私のものだよね?」
「当然」
 嫣然と微笑む依織はとても綺麗で……。
 依織の表情を見慣れているはずのむぎでも、やっぱり視線を奪われる。





「むぎ?」
「は、はい?」
 ぼーっと依織に見惚れていたむぎは、依織に名を呼ばれて反射的に慌ててしまう。
 そんなむぎを依織が柔らかな瞳で見つめ返した。
「貴重品は持ってる?」
「え?お財布と携帯くらいなら、今持ってるけど」
 依織の脈絡の無い質問に、首をかしげながらもむぎはポケットを叩いた。
「そう。じゃあ行こうか」
「え?どこに?」
「家に帰るよ」
「はぁ!?」
 立ち上がった依織に手を引っ張られ、むぎは素っ頓狂な声を出してしまった。
「な、なんで?授業は!?」
「午後は自主休講」
「そんな勝手な!」
 むぎの抗議も空しく、依織の力強い手がずるずるとむぎの身体を引っ張っていく。
「嘘を吐いた詫びを入れてもらわないとね」
「詫びって……」
 依織の勝手な言い分に絶句するむぎ。
 彼はその長い指先でそっとむぎの唇を撫でると、艶やかに笑んでみせた。
「それと……、嘘を吐いた悪い子にはお仕置きを、ね?」
「っ!」
 綺麗な優しい笑顔であっさりと告げられた理不尽な内容に、むぎはぱくぱくと唇を震わせるだけだった。










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