「むぎちゃん?」






 朝、御堂家の門をこっそりそそくさとくぐろうとしたむぎの背中に、ビロードのようなやわらかい声がかかった。
 制服を着たむぎの背がびくっと揺れる。
「あ〜、依織くん……」
 引き攣った笑顔でむぎが恐る恐る振り返れば、見事な愛想笑いで依織がそこに立っていた。
「一緒に行こうといったはずだけれど?」
「あ……、あははは、そ、そうだったかな〜?うっかりいつもの通りに出ちゃった」
 まるで蛇に睨まれた蛙のように、逃げることができない。
 せいぜい見え透いた言い訳を、背中に変な汗を流しながら口にするくらいだ。
 依織はそれはそれは綺麗な表面だけの笑顔で近づいてくると、びくびくと怯えるむぎの肩に手を回した。
 そしてその整った指先で軽くむぎの首筋を撫で上げた。
「僕の言った事を忘れたのかい?酷いね。……これからは、忘れないように何か考えないといけないのかな?」
「……考えなくていいです」
 むぎの小さな抵抗は、依織に黙殺された。







 痛い……。
 体全体にブスブスと強い視線が突き刺さってくる。
 きっとこれが実体化するならば、針どころか槍くらい大きいだろう。
 それも女子の方が威力があるに決まってる。
 痛い、痛い。
 ラ・プリンスの依織は視線の雨のなか、平然と歩いているけれど、依織に向けられているものとむぎに刺さっているものでは質が違う。
 それでもむぎは顔を伏せることなく、まっすぐに前を見て歩いていく。
 その唇が不機嫌もあらわに真一文字に結ばれているのが、いつものむぎとは違ったが。






 依織は自分の傍らで、体を固くしながら急いで歩くむぎを楽しそうに見下ろした。
 いつもの笑顔も可愛いけれど、こんなむぎも悪くない。
 そんな事を思いながら……

 噂が学園中を駆け回った次の日。
 むぎは、噂の相手である依織に肩を抱かれて、派手に登校させられたのだった。







「むぎ……。どうしたの?」
 4時限目終了のチャイムが鳴るや否や、今朝の騒ぎの噂を聞きつけた夏実が机にうつぶせたむぎの頭を叩いた。
 朝からこれまで、むぎは自分に突き刺さる冷たい嫉妬交じりの視線に耐え切れず、休み時間には教室から逃亡していたのだ。
 しかしもうそれも疲れてしまった。
 第一、何処へ行こうと噂を知らない生徒はいないのだから……。
 心配そうな夏実の声に、むぎは面倒くさそうに顔を上げる。
「夏実〜〜」
「何よ。その情けない顔は。昨日から派手にやってるわね」
「派手なのは依織くんだよ〜。私は地味でいいのに」
「……そうだね。松川さんらしくなっていうか。むぎ、何かしたの?」
「…どうして皆あたしのせいって言うのよ?」
 ラ・プリンスの三人も、夏実も口を揃えてむぎが原因だと決め付けている。
 それが納得できなくて、むぎはむっと口を尖らせた。
「当たり前じゃない。理由なく松川さんが、むぎと付き合ってるってオープンにするとは思えないから。むぎ、隠しててってお願いしてたんでしょ?」
「してたよ。でも、もう意味ないみたいだけどさ」
 昨日の噂と、今朝二人で登校したことで、ふたりに何も無いとは誰も信じないだろう。
 もっとも、面白おかしく脚色された噂が飛び交っていて、正確なものは何一つないのだが。
「原因に心当たりないの?」
「あるよ…。実は昨日…」
 夏実に昨日の屋上の出来事を話し始めた時、クラスメイトの黄色い悲鳴が上がった。
 何事!?と視線を出入り口に向ければ……。
「依織くん!」
「松川さん!?」
 口元にいつもの優しげな笑みを浮かべた依織が、まっすぐにむぎを見つめていた。






 ガタンッ!
 むぎは思わず大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
 焦りを浮かべるむぎに依織は微笑みかけて手を伸ばした。
「ランチのお誘いにきたよ、お姫様」
「依織くん…」
「おいで、むぎ」
 本当に優しげな笑顔なのに、どうして目は笑っていないのだろう?
 申し出を断ることなど許さない眼差し。
 クラスメイトは突然現れた学園の憧れラ・プリンスの松川依織を、遠巻きに熱い眼差しで見つめている。
 そして女子にいたっては、そのプリンスの視線の先にいるむぎにあからさまな嫉妬を向けるのだ。
 むぎは周りからの強い羨望と嫉妬の視線に、素直に依織の側に行く事を躊躇ってしまった。
「むぎ?」
 すっと、依織の目が眇められる。
 その瞬間、依織の視線の温度が下がった気がした。







「松川先輩!」
 むぎだけを見つめていた依織に、突然横から声をかけた男子生徒。
 ザワリと教室の空気が揺れる。
 依織はゆっくりと声を掛けられた方向に顔を向けた。
「なんだい?」
「…昨日からの噂といい、松川先輩は何を考えてるんですか?」
 聞き覚えのある声。
 これは昨日、屋上で聞いた男子生徒の声だった。
 依織の笑みが冷たくなる。
「何の事かな?」
「とぼけないでください。鈴原を噂に巻き込んで、いったいどういうつもりですか?」
 最上級生のラ・プリンスに意見する彼を見て、クラスメイト達は戸惑いにざわめく。
 彼の友人は慌ててそれを止めようとしたが、彼は依織を睨んで一歩踏み出した。
 しかし依織は顔色一つ変えはしない。
「巻き込む?面白い事をいうね。噂をしているのは君たちだろう?僕もむぎも噂を撒くつもりはないよ?」
「詭弁ですね。ラ・プリンスのあなたは、生徒の注目をあびている。それは十分ご承知でしょうに。それに鈴原を巻き込んで何のメリットがあるというんです?
火のないところに煙は立たないといいます。昨日の噂、まったくのデマではないはず」
「う、上野君!もういいから」
 依織にはっきりと物を言うクラスメイトをむぎは焦って制止し、依織に駆け寄った。 
 上野という男子生徒が、昨日の屋上の相手だと気付かれたのは、依織の微かな表情の変化で分かった。
「依織くん、行こう」
「鈴原!」
 ぐいっと依織の手を引っ張って教室を出ようとしたむぎ。
 だが、依織の体は動かなかった。
「確かにデマではないね…。何種類かあるようだけれど?」
 ……何種類?
 いつの間に増えたのだろうか?
 むぎは依織を教室外に出そうとしながら、祥慶女子め!と怒りで握り拳を作ってしまう。
「……いくつかありますが、真実に近いのは一つでしょう。どうして鈴原なんですか?」
 感情を抑えた少年の問いに、依織はふっと顔を伏せて笑い、自分の腕をぐいぐい引っ張るむぎを片手で抱き寄せた。






「い、依織くんっ!」
 依織が何を考えこんな事をするのかわからずパニックになっているむぎは、先ほどからいつものように依織を呼んでいるのに気付かない。
 頭からすっかり学校用の呼び名が飛んでしまったらしい。
 人前で背中から抱きしめられた恥ずかしさに、腕の中で暴れるむぎを軽く縛め、依織はさらりとむぎの滑らかな頬を撫でた。
「少しおいたが過ぎた恋人にお仕置きをね。…これまで甘い顔をし過ぎていたようだから、ちょっと思い知らせてあげただけだよ」
 クスクスと笑いながらも、目は男子生徒を見据えている。
 依織はまるで見せ付けるように、むぎの髪に唇を寄せた。
 とたんに上がる女の子達の嬌声。
「依織くんっ!!!」
「それに最近むぎは人気があるようだからね。……彼女に告白するなら、僕から奪う自信がある者だけにしてくれるかな?
……もちろん、渡す気は毛頭ないのだけれど」
 今まで依織にくって掛かっていた上野が、依織の視線に気圧されてぐっと言葉を呑んだ。
 誰の目にも勝負は明らかだ。
 むぎの目の端には、額を押さえて深く溜息をつく夏実の姿が映った。







「怒っているのかい?」
 ずかずかと早足で廊下を歩いていくむぎの後ろを、優雅な足取りでついていく依織がクスリと笑った。
「……怒ってないよ」
「そう?」
「怒ってない!」
 怒鳴るように言っても、説得力がない。
 依織は楽しそうに笑う。
「じゃあ、どうしてそんなにふくれているの?」
「恥ずかしかったからじゃないっ!!」
 ぐるっと振り返って依織の前で仁王立ちになったむぎは耳の先まで、確かに紅く染まっていた。
 人のいない屋上に来て、むぎはやっと思う存分依織に文句をぶつけた。
「どーしてあんなに派手にするかな!?」
「誤解を招く隙がなくていいと思ったのだけれど」
「誤解?」
 むぎが訝しげに顔を顰めた。
 むぎに問い返され、依織は目を伏せ、吐息だけで苦く笑う。
「そう。噂はすぐに歪められてしまうからね……」
「だからって……」
「ねえ、むぎ?」
「ん?」
「もうすぐ春だね……」
「?そうだよ?」
 唐突な話題の転換が分からず、むぎは首をかしげた。
「春になったら、僕はここを去る」
「あ……」
 むぎは微かに瞠目して依織を見つめた。
 依織はどこまでも優しい笑みで、むぎを見ている。
 最高学年の依織が、次の春で卒業してしまうのは当たり前なのに、むぎは言われて初めてそれを意識した。
 ずっと続くと思っていた穏やかで、たまに刺激的な時間が終りに向かっている。
 あの事件をきっかけにして共に過ごしてきた、依織も一哉ももうすぐ卒業してしまう。
 その事実にむぎは一瞬言葉を失ってしまった。
「だからね、その前にむぎが誰のものか、きちんと知らしめたいとは思っていたんだよ」
「……だから?」
「そう。だからだよ。僕がどれほど君を想っているか、君に手を出すことがどういうことか、これでわかっただろう…」
 君に気がある男達に…。
 言葉にされなかった依織の想いに、むぎが少しだけ困ったような苦笑を浮かべた。
「心配のしすぎ。依織くん」
「そうかな?」
「そうだよ。第一、あたしから依織くんに告白したんだよ?いくら告白されたからって、心が動くわけないよ」
「……わからないよ。人の心は分からない…」
 ふたりの間に落ちた依織の呟きは静か過ぎて……。
 むぎは少しだけ言葉に詰まってしまった。
 深い依織の心の傷は、ふとした拍子に姿を表す。
 その瞬間の依織の表情は、胸が痛くなるほど透き通った笑顔を浮かべる。
 まるで他のものは目に入っていないかのように…。
 むぎはたまらなくなって、手を伸ばし依織の袖の端をそっと掴んだ。
「じゃあ、あたしはどうしたらいいんだろう?」
「むぎ?」
「依織くんの不安は、あたしの不安だよ?あたしが心配だって言うけど、あたしだって依織くんが心配。だって、依織くんってすごくもてるんだもん」
「むぎ…」
「あたしのまったく知らない大学生活を送る依織くんは、やっぱり女の人にもてるんだろうなって思って不安。依織くんを信じてないわけじゃないけど、やっぱりね…。
依織くんもそんな気持ちなんでしょ?」
「そうだね…」
「だからお互いさまなんだよ、依織くん」
「むぎ…」







 
 むぎは依織の腰にふわりと手を回し柔らかく抱きしめながら、彼を見上げて明るく笑った。
「大好き、依織くん。依織くんが不安になったら、何回だって言ってあげる。だから依織くんも、あたしが不安になったら、いっぱい好きって言って」
「むぎ…」
「大好きだよ、依織くん……。でも、もうこんな大騒ぎは勘弁ね?」
「……むぎ」
 依織だけにまっすぐ向けられる屈託のない笑顔が、依織の心の翳を照らしてくれる。
 依織は小さく笑いながら、むぎの頭を胸に抱き寄せた。
「愛してるよ…、むぎ…」






 誰よりも愛しい少女。
 依織を不安にし、そして癒してくれる唯一無二の存在。







「君には勝てないね……」
「依織くん?」
 不思議そうに顔を上げたむぎに微笑みかけ、依織はそっと果実のような唇を塞いだ。


















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