文机からエッセイ
【奥信濃飯山の真宗寺を訪れて】
 ※本文は2008年10月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。

 飯山は小さな町だが、寺だけは20以上もある。そして、そのなかの一つに真宗寺がある。ここは、明治時代に西本願寺の新門(次代宗主)・大谷光瑞が行った第一次大谷探検隊の隊員であった井上弘円と藤井宣正に所縁の寺である。真宗寺はまた、島崎藤村の小説『破戒』のモデルとなった寺としても知られている。但し、小説では真宗寺は蓮華寺の名で登場している。また、当時の真宗寺の家系を見てみると、藤井宣正は真宗寺の住職井上寂英の長女瑞江(たまえ)の聟であり、瑞江の弟は先述の大谷探検隊の隊員であった井上弘円、そして、妹のつるえの主人は文部省唱歌「ふるさと」や「朧月夜」の作詞で有名な高野辰之であった。このように人間関係が実に面白い。

飯山付近の菜の花畑

千曲川沿いの飯山の町

 真宗寺は飯山駅から東北に約500メートル行ったところにある。正式には安養山笠原院真宗寺といい、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院である。寺伝によれば創建は鎌倉時代に遡るが、その後寺の名称や宗派、場所が転々とし、現在地に定着したのは江戸幕府が開かれた翌年の1604年のこととある。                           .
 2008年初秋、千曲川に沿って走る飯山線のディーゼルカーの車窓からの眺めはのどかなものだった。飯山が近づくにつれ、高野辰之が作詞した『ふるさと』に言う「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川…」の世界はこれだったのか。また、黄金色の稲穂の続く風景は、『朧月夜』のなかの「田中の小道を辿る」世界のこの黄昏の光景をうたったものなのかと、一つひとつ納得しているうちに、列車は飯山駅に到着した。                   .


小説『破戒』のモデルとなった真宗寺の本堂


真宗寺の経堂(六角堂)

  「苔蒸した石の階段を上ると、咲残る秋草の径(みち)の突当ったところに本堂、左は鐘楼、右が庫裏であった。六角形に出来た経堂の建築物(たてもの)もあって、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽とを語るように見える。」                       .
かつては本堂をはじめ、山門や鐘楼などりっぱなものがあったようだが、昭和27年5月18日のいわゆる飯山大火により、建物のほとんどが焼失し、わずかに六角形の転法輪と呼ばれる経堂(六角堂)だけが往時の面影を偲ばせている。しかし、現在は参道の位置がかわり、本堂と庫裏も近年建て替えられ、さらに、境内の東側は幼稚園となっている。通りに面した入口の横に看板があって、島崎藤村の『破戒』に描かれた当時の伽藍配置が示されているが、それを見てもさっぱりイメージがわかない。だが、小説によれば次のようなものだったようだ。 .


小説『破戒』に出てくる蓮華寺の石碑

島崎藤村著『破戒』
 寺の境内は静まりかえっていた。本堂の横には小説『破戒』文学碑と、その小説に登場する「蓮華寺跡」の石碑がひっそりと建っていた。そうした佇まいのなか、世話役らしき年輩の女性が本堂の玄関先を掃いておられた。これはチャンスとばかり近づき、私は、遠路広島からこの寺を訪れた目的を告げた。すると、その女性は、「それはよくいらっしゃいました。このお寺の坊守さん(奥様)も広島の出身ですよ。お呼びしてまいりましょう。」と言って、奥に入っていかれた。
 坊守さんはすぐに出てこられ、「ようこそお越しくださいました。ちょうど住職もおりますので、どうぞお上がりください。」と言われるので、ことの展開に多少戸惑いつつ、せっかくだからと上がらせてもらうことにした。
 ご住職は井上孝雄(こうゆう)さんといわれ、声に張りのある恰幅のよい方であった。そして、ご住職夫妻から、いろいろと話をうかがった。


 (私)「この寺は明治時代の大谷探検隊の井上弘円や藤井宣正に所縁の寺であり、以前から一度伺いたいと思っていました。」  
 (住職)「そうですか、弘円は私の曾祖父です。その義理の兄が藤井宣正です。」  
 (私)「私は弘円の事績もさることながら、藤井宣正の生きざまに惹かれます。」  
 (住職)「はい、藤井宣正については、祖父などからいろいろ聞いております。私もすごい人物だったと思います。」  
 (私)「奥様は広島のご出身だと伺いましたが…。」  
 (坊守)「安芸津です。実家もお寺で、そこから嫁いで30年以上になります。」  
 (住職)「私の叔母は、反対にここから倉橋の寺の方に嫁いでいます。ですから、私どもも広島とは縁が深いのです。」
 ざっと、こんなやりとりであったが、坊守さんが広島県の出身とは、まったくの驚きであった。

 話のなかで島崎藤村とのことについてうかがうと、住職は、「飯山の人は藤村については驚くほど無関心で、愛着を感じている人はほとんどいないようです。同じ長野県でも小諸や馬籠では人気が高いのに不思議なくらいです。」と言われた。それには、小説『破戒』が大きく起因しているそうである。一つは、小説のモチーフである差別問題に飯山が舞台となっていて、さも住民すべてが悪者になって飯山の印象を極めて悪いものにしていること、もう一つは、藤村がフィクションとはいえ、地元では徳が高く慕われている真宗寺の住職を、蓮華寺の住職の養女(実際には実在しない人物)に手を出した色狂いの悪徳坊主として描いたためであると語ってくれた。では、その実像はどうか。
 藤村は当時飯山の真宗寺を訪れたとき、そこの住職であった井上寂英の印象を、『千曲川のスケッチ』その十所収の「山に住む人々の(一)」のなかで、次のように語っている。
 「飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢って見た。連添う老婦人もなかなかエラ者だ。斯の人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れないで居るという風だ」
 ところが、小説『破戒』では、蓮華寺に養女として入ったお志保の実父と主人公瀬川丑松との会話のなかで、次のように言っている
 「こうです。まあ、聞いてくれ給え。よく世間には立派な人物だと言われていながら、唯女性(おんな)というものにかけて、非常に弱い性質(たち)の男があるものだね。蓮華寺の住職も矢張それだろうと思うよ。あれ程学問もあり、弁才もあり、何一つ備わらないところの無い好い人で、殊に宗教(おしえ)の方の修行もしていながら、それでまだ迷(まよい)が出るというのは、君、どういう訳だろう。」
 これには、当時、真宗寺の娘聟であった高野辰之も文芸誌『趣味』に抗議文を発表しており、そのため、島崎藤村はこの『破戒』を発表して以来、死ぬまで飯山に足を踏み入れることはなかったという。
 しかし、このままではいけない、藤村と小説『破戒』と真宗寺の関係を見直そうと、真宗寺の門徒の一人である地元の篤志家が、昭和30年の初め頃、藤村の長男島崎楠雄氏に揮毫を依頼し、「小説破戒蓮華寺の跡」の石碑を建立した。その後、藤村を慕って飯山を訪れる人が多いことから、『破戒』を通じて飯山を売り出そうと、飯山市などが中心となって昭和40年9月11日に小説『破戒』の文学碑が建立された。このときには先代の住職であった井上弘雄氏夫妻らが馬籠に島崎楠雄氏を訪ね、直接揮毫を依頼したので、石碑の除幕式には、その答礼として島崎楠雄氏も遠路臨席し、碑を前に井上弘雄氏と島崎楠雄氏とが手を取り合って喜んだそうだ。
 このことについては、若かった頃の井上孝雄住職もよく覚えているという。しかし、その後も、やはり飯山での藤村への盛り上がりはまったくないと言って苦笑されていた。

藤井宣正(後列左)、井上弘円(前列左)、
大谷光瑞(前列右)インド出発前のイギリスにて
(白須淨眞著『忘れられた明治の探険家渡辺哲信』中央公論社より)
 寺ところで、藤村は、当時真宗寺を訪れた際、藤井宣正が義父の井上寂英に宛てたインドからの絵葉書などに目をとめた。そのあたりの経緯について藤村は、先述の『千曲川のスケッチ』その十所収の「山に住む人々の(一)」のなかで次のように記している。
 「君は印度に於ける仏蹟探検の事実を聞いたことがあるか。その運動に参加した僧侶の一人は、この老僧の子息で、女聟にあたる学士も加わった人だ。学士は英国留学中であったが、病弱な体軀を提げて一行に加わり、印度内地及び錫蘭(セイロン)における阿育王の遺跡なぞを探り、更に英国の方へ引返して行く途中で客死した。この学士の記念の絵葉書が、沢山飯山の寺に遺っていたが、熱帯地帯の方の旅の苦しみを書きつけてあったのなぞは、殊に、私の心を引いた。」

 藤井宣正は、日本からイギリスへ留学のとき、医者から余命3年と告げられていたにもかかわらず、大谷探検隊の隊員として、イギリスからインドとセイロン(現在のスリランカ)に赴いて仏跡調査を行ったが、彼はその記録を『印度霊穴探見日記』(『宣正日記』)に記している。日記は明治35年10月30日に始まり、翌年5月5日で終わっている。ちなみに、宣正は、6月6日、イギリスへの帰途,フランスのマルセイユで客死したのだが、この日記のなかの終わりの方では、望郷への思いを次のように記している。


唱歌『朧月夜』を作詞した高野辰之
(『太陽』360 平凡社より)

藤井宣正(白須淨眞著『忘れられた明治の探険家渡辺哲信』中央公論社より)

 「(四月)八日〜十三日迄静養。間嶋氏ノ家ニ在リ。然レトモ快意ナシ。心密カニ謂ラク本山ニ乞フテ直ニ帰朝センカ。身ノ健康ニ可ナラン。然レトモ帰ヲ命セラレサルニ帰ラン心ニ受クル苦痛ハ生涯治セサルヘク。又英ニ帰ルニアラサレハ、…伊、仏巡覧ノ機ヲ失ハン。是マタ苦痛ノ大ナルモノト決志。」
 これをもとに、島崎藤村が『破戒』のための習作として出版したのが『椰子の葉蔭』(『緑葉集』所収)であった。その4月14日の日記として、「身は長き旅行のために疲労して、一昨日やうやく当地まで辿り着き候。…着きて見ればわれを待つ一通、果して猊下よりの御命令---父上よ、ふたたび英吉利へ向けて渡航いたすべく候。」そして、5月12日の最後を、「噫、今は思ひのこすことなし。男子と生れて、偉(おほい)なる所願のために倒るゝは、無益の業(わざ)にもあるまじく候。父上よ、さらば。印度洋の激浪怒濤、片時も休息せざるの音を聞きつゝ、孤燈のもとにこのたよりを認む。」と、藤村の創作により、読者の心をゆさぶるべく、悲運の藤井宣正の最後を綴っている。

 このように、短い時間ではあったが、島崎藤村、藤井宣正、高野辰之の所縁の地を訪れ、それについて住職ご夫妻と語りあうことができ、とても有意義な奥信濃飯山の旅であった。


藤井宣正が実家に宛てたインドからの絵葉書
(『太陽』360平凡社より)
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