文机からエッセイ
【チベットへ行きたい】
中国の西南部に位置するいわゆるチベットとは、地理的には南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、西はパミール高原、東は雲南高原に囲まれたチベット高原を中心とした地域をいう。また、政治境界線としては北は中国の新彊ウイグル自治区と青海省、東は四川省と雲南省に接し、西及び南にかけてはインド、ネパール、ブータン、ミャンマーなどと国境を接している。


チベット高原
チベットは本来東西二五◯◯キロ、南北一五◯◯キロ、面積は約二三◯万平方キロと、日本の約六倍の規模を有するとてつもなく広い地域をいうが、現在のチベットというと面積約一二三平方キロの中国チベット自治区を一般的には指している。チベット高原は俗に「世界の屋根」ともいわれており、平均高度は東部で三◯◯◯メートル、西部で四五◯◯メートルもあり、それだけに生活環境も厳しいところとして知られている。地質学的にみると、数百万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかって押し上げてできた、かつての太古の海だったところといわれている。
 チベットと言って思い浮かぶのは、一九五九年のダライ・ラマ十四世のインド亡命以降の中国政府との政治的紛争であり、それは今日にいたってもなお解決の目処はたっていない。それはともかく、チベットの歴史は古く、伝説的には紀元前一二七年にニャティ・ツェンポが最初のチベット王として即位したのを始まりとし、チベット暦もこの年をチベット元年としているが、歴史的にはっきりしてくるのは六二◯年代初めにソンツェン・ガンポが建国したチベット統一王朝いわゆる吐蕃国であった。また、最近ではハインリッヒ・ハラーの自伝書の映画化で、ブラッド・ピットが主演した「セブンイヤーズ イン チベット」がある。ダライ・ラマ十四世の家庭教師となり、彼がインドへ亡命するまでの七年間の記録を綴ったもので、当時の時代背景を知るうえでも大変興味深いものであった。

積石塚(ツェタン)
 そのほかチベットへの関心をあげると、チベット仏教とそれ以前のシャーマニズムに基づいたボン教といわれる古代宗教、医学、音楽、演劇、暦、風俗習慣など枚挙にいとまがない。それらをざっと紹介すると、先ずチベット仏教。これは俗に「ラマ教」と呼ばれているが、チベット仏教を信仰する人々にとってこの呼称は不適切な表現なものとされている。というのはチベット語でラマとは「尊師」「上人」といった意味があり、ともすれば修行者が尊師に師事し仏教の教えである本義を受けている実態が、尊師自身を信仰の対象としているかのように誤解されがちだからである。チベット仏教で神秘的なものは密教であろう。これはタントラ教とも呼ばれる大乗仏教中の秘密の教えである。チベット仏教の僧侶は顕教と呼ばれる言葉や学習による一般的な教えを約二十年かけて習得する。だからほとんどは途中で脱落して一般僧として実務担当に従事することとなる。だがこの顕教を習得した僧は、このあと十年以上をかけて密教を学ぶことになる。密教は性的比喩なども有する深淵なものであり、極く一部のものしか教えを受けることができないとされている。この顕教密教両方の教えを修得したものが博士(ゲシュ)と呼ばれ、高僧となり、さらに徳の高い人は活仏とされるのである。私たちはチベット仏教といえば、小豆色の僧服に聖山カイラスへの五体投地を思い浮かべるが、ことほどさように奥の深いものなのである。この密教は空海らによって日本にも伝えられ、天台宗や真言宗の寺院では今なお信仰されている。また、いわゆる日本に伝えられた仏教は、八世紀以前の中国や朝鮮経由により、そこで変容しつつ伝えられたインド仏教である。それに対し、チベットに伝わった仏教は八世紀後半以後十三世紀初頭にかけてのインド仏教である。この十三世紀における消滅寸前の本国インドにおける仏教を吸収し受け継いだものがチベット仏教とされている。サンスクリット語による原典が散逸してしまったなか、チベット語によって翻訳された経典であるチベット大蔵経は、インド仏教を伝えるものとして貴重なものとなっている。なお、その大蔵経を鎖国中のチベットに一九◯◯年、単身チベット仏教僧として潜入し、日本に持ち帰ったのが河口慧海であった。彼の旅行記録は『チベット旅行記』として有名である。

 ボン教は、自然や祖先の霊を崇拝する原始宗教であり、チベットでは仏教が入る前に広く浸透していた宗教である。開祖はシェンラプミボで、聖山カイラスへ降臨したと伝えられる。古代ヤルルン王朝の庇護を受けた宗教でもある。こうしてみると日本の古代神道によく似たものがあり、これまた興味深いものがある。ボン教は今でこそ仏教に吸収されたものとなっているが、仏教が浸透し始めたころは教義体系もなかったので、その危機意識から教義を作ることとなったが、それはことごとく反仏教的なものとなった。例えば右繞を左繞としたり、卍を逆卍にしたりと涙ぐましい抵抗を試みたものであったが、究極的には仏教教義とそっくりのものができ上がったという笑えぬ逸話もある。なお、仏教化したボン教は「白ボン教」呼ばれ、古い原型をもつ正統派のものを「黒ボン教」と称し、現在もなお数はわずかだが存続しているという。
 チベット医学は、最近NHKのテレビ番組でも取り上げられ、話題が高くなっているが、あらましはこうだ。それは西洋医学とも中国医学とも異なる独特の医学である。患者の脈拍を診て症状を診断するのを主とするが、ほかに顔色や皮膚などもみて治療方法を見出すもので、それらによって薬を処方する民間療法の一種である。薬材には植物の花や根や茎、動物の内臓や骨、また鉱物なども利用される。私がかつてパキスタンで手に入れたガーネットやラピス・ラズリの原石なども薬種になると知り、嬉しくもあり可笑しくもあった。これらを調合し、それを服用しながら自然治癒力を促進させ、体の内部から直していこうとするものである。チベット医学の奥義では、人間の身体は宇宙の一部であると同時に、人間の身体のなかにも宇宙は存在していると説いている。それは密教のタントラにも通ずるものである。なお、このチベット医学は、天文学にも占いにも通じているそうで、チベット暦のカレンダーはチベット医院で売っている。これはチベット医院が天文観測をして作っているからだそうである。
蔵医院の薬局(ラサ)

民族舞踊
 音楽は、笛や太鼓など僧侶や巡礼者が演奏する楽器にももちろん興味があるが、庶民が歌う民謡も味わい深いものがある。チベットの民謡は農作業をしたり放牧をしたりしながら歌われる生活に密着した労働歌が多い。それは日本の山岳地方で歌われる民謡にも通ずる、岩手民謡「南部牛追い唄」のようなゆったりとした節まわしのものがイメージされるものである。また、チベットの演劇として代表的なものは、「チャム」と呼ばれる仏教の仮面劇である。僧侶たちが独特の仮面と衣装を身につけて、笛や鐘などの楽器の演奏とともに舞うものである。内容は仏法を守る神と悪者との闘いをストーリーとしたもので、最後に必ず仏法が勝つといったものである。恐ろしい形相の面をかぶった悪者がユーモラスな立ち回りで観客を笑わせたり怖がらせたりしながら踊り、最後に悪者が退治されると拍手と歓声が沸き起こるといった勧善懲悪を主題としている。これは日本の舞楽や神楽にも合い通じるものがあり、非常に興味深いものである。
 チベット暦は医学のところでもちょっと触れたが、これまたチベット独自の複雑な暦であり、太陰暦と太陽暦を調整して作られたもので、十二世紀ころチベットに伝わった「時輪タントラ」を基にしているという。これも日本の神道と暦法との関わりを考えるうえでも貴重なものといえるであろう。

 風俗習慣で一つだけあげるとするなら、それは鳥葬であろう。チベットの人々は、死んだあとの肉体をほかの生き物に与えることは、この世での最後の施しと考えている。善行を積むことを徳とするチベット民族の信条である。鳥葬は郊外の山上で行われる。専門の仕事師が刃物で遺体を処理し、骨まで砕いて団子状にし、ハゲワシなどの鳥に供するものである。この鳥葬は、かつてイランを中心に広く信仰されたゾロアスター教の葬法にもみられるもので、比較文化のうえでも大変興味深いものである。

鳥葬場
 このようにチベットには多くの歴史や文化があって、今にでも飛んで行きたいところであるが、これを実現させるとなるとなかなか難しい。一つは入境方法である。.これには大きく三つの方法がある。一つは飛行機を使って入るもので、これは一番簡単な方法といえるであろう。現在外国人には、中国の成都、重慶、西寧、西安、北京、それとネパールのカトマンドゥからの便が許可されている。あとの二つは陸路で、その一つは青海省のゴルムドを経由して青海省とチベット(西蔵)の首都ラサを結ぶ青蔵公路を通って入る方法、もう一つはネパール側から中尼公路を使って入る方法である。このほかにも雲南デチェンルート、四川ダルツェンルート、四川カンゼルート、新彊アリルートの四つがあるが、これは個人旅行者には政情不安のため開放されていない。

 ということで空路または陸路では二ルートにより入ることになるわけであるが、ここでは二つの陸路による方法をみてみたい。その一つは青蔵公路による方法である。これで行くとゴルムドからチベットの首都ラサまでは約一二六◯キロの行程である。しかしゴルムドへは敦煌または青海省の省都西寧から行くことになるので、敦煌・ゴルムド間の約五二◯キロ、あるいは西寧・ゴルムド間の約六八◯キロを加算すると、敦煌からラサまでは全長約一七八◯キロ、西寧からだと約一九四◯キロということになる。そうすると敦煌からゴルムドまでで一日、ゴルムド・ラサ間で最低二泊の三泊が必要となる。また、ゴルムドまでには四二◯◯メートルのタンチン峠があり、さらにゴルムドからは四六七六メートルの崑崙峠と五二三一メートルのタング峠を越えなければならない。悪路はさほど問題ではないが、この峠越えがネックとなるところである。もう一つの中尼公路ルートはカトマンドゥ・ラサ間が全長一◯◯四キロである。これだとネパール側の国境の街コダリからチベット側の国境の街ダムに入って、ティンリー、シガツェを通ってラサに入ることになる。これも最低三泊は必要で、四◯◯◯メートル前後の高度の峠を二箇所越えなければならない。いずれにしても容易なことではなく、高山病にも気をつけなければならない。しかし、二◯◯一年は、是非このチベット行きを実現させたいと思っている。
 (二◯◯◯・一二・二四記)
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