文机からエッセイ
【バーミヤン石仏の破壊に思う】
 ※本文は2001年4月に認めたものであることを予めお断りしておきます。
 アフガニスタンのイスラム原理主義勢力「タリバン」によるバーミヤン石仏の破壊が世界中にニュースとして伝えられたのは2001年3月19日の朝だったように思う。偶像崇拝を否定するタリバン勢力による破壊の懸念は以前からあったが、それが現実のものとなってしまった。


バーミヤン周辺の地図
(出典:新詳世界史図説・浜島書店より)
 バーミヤンはアフガニスタンの首都カブールの北西、ヒンドゥークシュ山脈の西端近くにある。ヒンドゥークシュ山脈は北の中央アジアに向かうアム・ダリアと南のインドに向かうインダス河の分水嶺でもあり、ここをインド古道と呼ばれた文化・交易の路が通じていた。仏教も当然この道を通って東漸した。7世紀の唐代、中国の玄奘三蔵はここを訪れたあとインドに向かった。当時のこの地方について、玄奘は『大唐西域記』(水谷真成訳・平凡社刊)に、「バーミヤーン国は東西二千余里、南北三百余里で、雪山の中にある。人は山や谷を利用し、その地勢のままに住居している。国の大都城は崖に拠り谷に跨がって…北は高い岩山を背にしている。…信仰に諄(あつ)い心はことに隣国より甚だしい。…伽藍は数十カ所、僧徒は数千人…」と記している。
 
バーミヤン石窟(西地区)
そして、さらに引き続き石仏について、「王城の東北の山の阿(くま)に立仏の石像の高さ百四、五十尺のものがある。金色にかがやき、宝飾がきらきらしている。東に伽藍がある。この国の先の王が建てたものである。伽藍の東に鍮石(とうせき=真鍮の一種)の釈迦仏の立像の高さ百尺余のものがある。身を部分に分けて別に鋳造し、合わせてできあがっている。」とある。
 かつてこの地には仏教が栄え、輝く大石仏を中心に町は賑わっていた。その大仏はバーミアン渓谷の断崖に南面して立っていた。左側が西の大仏で高さが55メートル、右側が東の大仏で高さが38メートルで、二つの大仏には約800メートルの距離があるという。その間にはおびただしい数の仏堂や修禅窟が掘られていることから仏教が盛んだったことがわかる。しかし、その繁栄もイスラム教徒の侵入とともに衰退していった。イスラム教はアラーの神のみを信奉し、偶像崇拝を禁じた一神教である。そのため仏像はことごとく破壊の対象とされた。その間には地震などの自然現象による崩壊はあったにせよ、その後のイスラム教徒による行為が大きな要因であることは間違いない。だが、玄奘が訪れたときの西の大仏は「金色にかがやき、宝飾がきらきらしている」と記されているほど壮麗な装飾であった。また、東の大仏は「鍮石の釈迦仏の立像」とあるように、真鍮のようなものが全身に貼られてピカピカ輝いていたことであろう。
 こうした華麗な姿はたとえ私たちが今アフガニスタンに入国できたとしても、もちろん見ることができたわけではない。顔面などはすでに破壊されてしまっているからである。しかし、このたびのタリバン勢力による完全破壊により、そのよすがさえも偲ぶことができなくなってしまった。
 バーミヤンの大石仏の創建時期は定かではない。しかし、この地域もガンダーラ仏教美術の影響を強く受けたところであることは間違いない。とりわけ紀元140年頃仏教に対し保護政策をとったクシャン朝のカニシカ王の威容を感じさせる貴重なものであった。その姿はもはや写真集や平山郁夫画伯の絵画などで偲ぶしかない。
 形あるものがやがて無に帰すのは世の必定である。タリバン勢力による大仏破壊のニュースを聞いても不思議と心から怒りが込み上げてこない、むしろ人間同士の愚行による悲しみだけがつのる。この諦念はなんなのだろう。19世紀以降、列国の権益に巻き込まれたアフガニスタンは戦争に続く戦争の明け暮れであった。そして、1979年から10年にわたる旧ソ連の侵攻、その後の旧ソ連撤退後のゲリラ組織内部による抗争と、混迷を続けるまま現在に至っている。その間の国連制裁による締め付けと近年来の慢性的旱魃が追い討ちをかけた最中での今回の出来事だった。こうした抗争の歴史と飢餓のなかでこの国の人々は生き抜いている。タリバンの行為を批判することは容易い。しかし、それ以上に複雑な問題が錯綜しているように思う。

バーミヤン石窟・西の大仏

バーミヤン石窟・東の大仏
文明とは? 文化財とは? そうしたことを改めて問いかけられたようである。2年前、パキスタンを訪れ、アフガニスタンの国境に近いガンダーラの都ペシャワールの近くで見た難民キャンプの光景は今も忘れられない。タリバン勢力はパシュトゥン人であり、このパシュトゥン民族はアフガニスタンとパキスタンの国境を挟んで生きている。国境はパシュトゥン民族が引いたものでもなんでもない。だからパシュトゥン民族は実際には国境の意識もなく自由に往来している。そして、抗争により被災した難民が続々とパキスタン側に逃れ暮らしている。その数は300万人とも言われている。ある新聞の投書欄でアフガニスタンのタジク族の人が、「日本はパキスタンに資金援助をしないでほしい。それが結果的にパキスタンが支援するタリバン勢力を助けることになるのだから」と訴えていた。それも一理である。しかし、パシュトゥン民族の半分をかかえるパキスタンにとって、それを支持せざるを得ない理由がある。多民族国家ゆえの悩み多き問題である。
そうしたなかでアメリカやロシア、中国などの権益が絡んで、解決の糸口すらも見当たらない。こうした情況化で生きる子どもたちの純真な瞳が、やがて大人になり、殺戮を繰り返す鋭い目になるのが悲しい。この繰り返しである。2年前、国境のカイバル峠からアフガニスタンを見やった。一木一草生えていない黒っぽいモノトーンの大地には、およそ文化とはほど遠いものを感じた。やるせなかった。平和国日本からの一旅行者に過ぎないことを痛感した。

 バーミヤン石仏の破壊が行われていたとき、ちょうど現地に入っていたペシャワール・カブール等で医療活動を続けている医師中村哲氏が、朝日新聞に次のような記事を載せている。「我々は非難の合唱に加わらない。餓死者百万人という中で、今議論をする暇はない。平和が日本の国是である。我々はその精神を守り、支援を続ける。そして、長い間には日本国民の誤解も解けるであろう。人類の文化、文明とは何か。考える機会を与えてくれた神に感謝する。真の『人類共通の文化遺産』とは、平和・相互扶助の精神である。それは我々の心の中に築かれるべきものだ」と。現地で難民の医療支援活動に身を捧げている人ゆえの説得力ある言葉である。さらに、中村氏は続ける。「その数日後、バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、ひとつの啓示を与えるようであった。『本当は誰が私を壊すのか』。その巌の沈黙は、よし無数の岩石塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って逝こうとする意志である。それが神々しく、騒々しい人の世に超然と、確かな何ものかを指し示しているようでもあった。」と結んでいる。
平山郁夫画伯作の「バーミヤン大石仏」

カイバル峠からアフガニスタンを望む
 いつかアフガニスタンに和平の日が訪れても、バーミヤンの石仏への安易な復元修理などは行わないことである。広島の「原爆ドーム」が歴史の証として存在しているように、あるがままの姿であった方がいい。破壊されたことを嘆くよりも、その光景こそが歴史のリアリティを呼び起こすモニュメントになると思うからである。日頃、文化財に携わる者にとって、このたびの出来事は多くのことを考えさせられるきっかけとなった。
 最後になったが、この4月4日に東大名誉教授で、農村社会学と比較文化論を専門とされている大野盛雄先生が亡くなった。先生の著書に『アフガニスタンの農村からー比較文化の視点と方法ー』(岩波新書)がある。アフガニスタンでは束の間の穏やかな時期だった1970年に現地の農村調査の記録を綴ったものであるが、その内容には殺戮や抗争の片鱗もみられず、農民との心暖まる交友の様子が描かれている。私は先生に2年前、ある学会の懇親会で初めてお目にかかり、しばらくイランやアフガニスタンのことを伺った。穏和なお顔と優しい口調で、「もう一度アフガニスタンを訪れたい」と話されていた。その先生が、タリバン勢力による石仏破壊からわずか半月後、享年76才で天国へ旅立たれた。それは今回の出来事にいたたまれず、神に直訴するため和平交渉の使者としてあの世に赴かれたとしか、私にはどうしても思えてならない。
(2001・4・15記)
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