文机からエッセイ
【アンダーソン考古学の足跡を求めて】
  ※本文は1996年に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 中国に近代考古学が芽生えたのは1914年のことである。それは前々年に清朝が倒れ、袁世凱の率いる北京政府が樹立された年でもあった。スウェーデンから地質調査の鉱政顧問として中国へ招聘されたJ・G・アンダーソンが、その礎を築いたのである。


       当時の仰韶村


      当時の仰韶遺跡南端部

J.G.アンダーソン博士
 彼が中国国内で果たした業績には、北京近郊の周口店で北京原人の発見を導き出したこと、河南省澠池(めんち)県仰韶(ぎょうしょう・ヤンシャオ)村の調査で中国新石器時代文化の標識遺跡となった仰韶遺跡を発見したこと、彩文土器(中国では彩陶と称する)の西方との関連を探るため甘粛省・青海省で発掘調査を行ったことなど数多くの金字塔と言えるべきものがある。      
      
近年の仰韶遺跡
(「古代中国の遺跡」・講談社より)
 彼を甘粛省・青海省への探検に駆り立たせたのは、1921年の河南省仰韶村における仰韶遺跡の調査であった。彼がそこで行った調査の目的は、動物化石を求める地質学者としての関心からであった。しかし、そこで手にした美しい文様のある土器即ち彩文土器を発見してから、彼はその魅惑にとりつかれてしまった。その美しい文様の謎を残したまま、彼は北京に帰ってきた。そして、たまたま北京の図書館で手に取ったアメリカのパンペリー探検隊が1904年に行った報告書を見て驚いた。そこにはイランやウクライナなど西アジアで発見された彩文土器の写真が掲載されていたからである。それは彼自身が仰韶村の遺跡で手にしたものとそっくりであった。
 これがきっかけとなって、彼は地質学者から考古学者に研究対象を転向してしまった。そこで、彼は考えた。「この美しい土器は、シルクロードの道を通って東方へ伝播した東西交流の遺産にちがいない。もしそうであるならば、オリエント文化の波が黄河を渡った地点は中国甘粛省の省都である蘭州あたりではなかったか」と。
   
     甘粛省・青海省の地図
   (「世界地図帳」・昭文社より)

仰韶遺跡(左)とアナウ(右)出土の彩文土器片
(「黄河・シルクロードの考古学」・雄山閣より)
 1923年春、彼は甘粛省・青海省への探検旅行に出発した。北京から鉄道で当時の隴海線の終点である河南省の観音堂まで行き、そこで荷馬車に乗り換え、陜西省の省都西安から平涼を経て蘭州へと旅をした。この陜西省・甘粛省はまさに大黄土地帯である。


       甘粛省の黄土高原

アンダーソンの旅行地図
(「黄河・シルクロードの考古学」・雄山閣より)

 黄土はきめの細かい砂塵で、春になって凍てついた大地がゆるむと、「黄塵万丈、天日ために暗し」と喩えられるように、日本では黄砂現象として知られる光景が繰り広げられる。黄土地帯は、この砂塵が数十万年もの長い歳月の間に累々と堆積したものである。彼はここを荷馬車に揺られ、あるときはドロドロのぬかるみにはまりながら、蘭州まで悪路を進んで行った。        
 蘭州は、黄河の上流に位置する古くから東西交流の要衝である。今でこそ工業都市であるが、もとはキャラバン交易の中継地として発達した商業の町であった。今、蘭州の甘粛省博物館には彩文土器の大壺や甕が、ほかを圧倒せんばかりに展示されていて、それは圧巻である。


       甘粛省博物館


       甘粛省の彩文土器

蘭州市内を流れる黄河

      
甘粛省の彩文土器
 その夏、彼は蘭州からさらに黄河を遡り、途中「虎崖(タイガークリフ)」と呼ばれる危険な場所を越え、青海省の省都西寧から黄河の支流である湟水(西寧河)に沿って、北チベットの青海湖(ククノール)まで出掛けた。

西寧市郊外を流れる湟水

青海湖
 現在、この青海湖は自然と野鳥の宝庫として観光地になっている。そして、彼は青海省貴徳県にあるアメリカのグランドキャニオンをはるかに上まわる規模の黄河渓谷の情景にも目を奪われた。青海省では地元の老人に教えてもらった羅漢堂(らかんどう)遺跡を調査した。


    現在は住居となった卡窰遺跡


野鳥の宝庫・青海湖の鳥島

 また、西寧に引き返し、盗賊と命がけの拳銃戦を行いながら朱家寨(しゅかさい)遺跡や卡窰(かよう)遺跡を調査したあと、蘭州に戻って来た。しかし、彼はこの青海省での調査は思うような成果が得られず、概して失敗だったと失望したようである。                

卡窰遺跡調査中にアンダーソンが滞在した住居

「祖父がアンダーソンの発掘作業員として
働いていた」と語る地元民(中央)
 そうしたなか、彼は蘭州でイギリス人宣教師から彩文土器に関する思いもかけない情報を得た。その結果、西アジアや東地中海地域で発見されるものと比べて全くヒケをとることのない素晴らしい彩文土器と出合うことができた。彼は地元の農民からそれをむさぼるように買い求めた。するとそれを見透かすように、農民たちはすぐに値をつり上げ始めてきた。そこで彼は助手を使って、その彩文土器の出処を突き止めることとした。その成果が黄河の支流である洮河流域の遺跡発見につながるのである。彼の甘粛省での調査は、中国考古学の輝かしい幕開けとなった。洮河流域で発掘された辛店、斉家坪、半山、馬家窯、寺窪山等々の遺跡は、そこから発見された彩文土器の形式や文様などから、甘粛彩陶文化編年の構築へと展開していった。アンダーソンの中国における考古学の業績には甘粛彩陶文化の編年や彩文土器の西方からの伝播説などにおいて、現在までに修正を余儀なくされたものが多々ある。しかし、それによって中国考古学の先駆者としての功績がいささかも失われるものでないことは言うまでもない。そのアンダーソン考古学の足跡を求めて、私は6月に陜西省から甘粛省・青海省へ向けて出発する。
   

アンダーソンの甘粛彩陶文化編年
<エッセイバックナンバー・トップへ
シルクロード写真館 シルクロード紀行 シルクロードの謎 TOPへ戻る≫
ALL Rights reserved,Copyright(C) 2001,S.Matsuzaki  ご意見・ご感想はこちらまで