文机からエッセイ
【シルクロードのサンゴ】
 ※本文は2002年に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 チベットの物産の1つにサンゴがある。(現地の人は「ヤマサンゴ」と言っている。)首都ラサの繁華街バルコル(八角街)では土産物屋の店内でも通りの露店でも、赤色のサンゴの腕輪や首飾りがたくさん売られている。そして、現地の女性の多くは身体のどこかにサンゴの装飾品を身に付けている。また、チベット仏教の仏具の装飾にも使われている。


   サンゴの装飾のある仏具のマニ車
      (チベット・ラサ)

   サンゴの腕輪(チベット・ラサ)
 ヒマラヤ山脈の北の高原に暮らすチベットの人々が昔からサンゴを愛用していたことは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(愛宕松男訳 平凡社刊)にも次のように記されている。「チベットは…珊瑚もこの地の市場で見受けるが、これは住民が喜びの印として偶像や女たちの首にかけるために、非常な高値をよんでいる。」 このことから、チベットが海から遠く離れ、また富士山ほどの標高のある秘境の地にもかかわらず、チベットを目指して、インドの商人がサンゴを運び、盛んに交易を行っていた様子が窺われる。
 私たちがサンゴという言葉を耳にしたとき、先ずイメージするのは、太平洋の島々に広がる珊瑚礁かもしれない。しかし、珊瑚礁のサンゴは装飾品となるサンゴとは全くの別物である。そもそもサンゴと称するものは、大きく宝石サンゴ、岩石サンゴ、化石サンゴの3種類に分類される。サンゴは生物学的にはれっきとした腔腸動物である。(ちなみに18世紀半ばまでは植物だと考えられていた。)そのサンゴに宝石とか、岩石とか名付けるのも妙な話しであるが、装飾品として用いられるのは、まさにこの宝石サンゴと呼ばれる種類のものである。
 では、この宝石サンゴ(以下、「サンゴ」という。)はどこで産出されるのであろうか。原始時代から19世紀に至るまでは、唯一地中海でしか採取できなかったと言われている。なぜならサンゴは深海に棲息するもので、人が容易に採取できるシロモノではないからである。江戸時代幕末期以降、日本近海を中心とした太平洋で採取されるようになったサンゴは、水深100〜200mに棲息しているものである。

 ところが地中海産のサンゴは水深30m前後に棲息する、人間の潜水能力の範囲内で採取できる唯一のものであり、しかも、サンゴのなかでは極上品に属するベニサンゴと呼ばれるものであった。ベニサンゴの採取と加工でとりわけ有名なのは、南イタリアのナポリ湾の町トレ・デル・グレコである。

    地中海(イタリア・ナポリ湾)

        ベニサンゴ
 (「宝石の写真図鑑」日本ヴォーグ社より)

 ナポリの郊外にはベスビオス火山の大噴火で滅んだポンペイの町がある。西暦79年8月24日、古代ローマ海軍の軍人であり博物学者であったプリニウスは、この火山大噴火による災害救助に赴き、二次災害に巻き込まれて命を失った。
 そのプリニウスが『プリニウスの博物誌』(中野定雄他訳 雄山閣刊)で、「インドの預言者や卜者は、……サンゴを美しいものとして、また宗教的な力のあるものとしてよろこぶ。……今日ではその値がたいへん高く、希少になった……」と記している。ということは、西暦1世紀には遠く東方の神秘の国インドでサンゴが貴ばれる一方、本場である原産地の方ではサンゴはもはや希少価値となっていたようである。さらに、博物学者である彼は、「深い緑の水の底にサンゴ礁が木のように生え、このサンゴの『葉』の枝はしばしば船の舵によって折れる。」と記していることから、軍人として乗船していた軍艦がしばしばサンゴを舵に引っ掛けていたことや、彼もやはりサンゴが植物であると考えていたことなどが理解できよう。    
ポンペイ近海採集のサンゴ
(「世界遺産ポンペイ展」朝日新聞社より)

アラビア海のダウ船(木造帆船)
(「総合世界史図表」第一学習社より)
 ところで、プリニウスが活躍していた頃より30年から40年早く成立したとされる『エリュトゥラー海案内記』という記録がある。著者は不明だが、これを読むとサンゴがアラビア海を越えてインドの港に運ばれていたことがわかる。エリュトゥラーとは「紅」を意味することから、エリュトゥラー海をそのまま解すれば「紅海」ということになるが、当時は紅海だけでなく、ペルシア湾、アラビア海、インド洋までをも含む広い海域を差していたようである。地中海地域やアフリカ、アラビアなどの物産がインド方面に、また、反対に中国やインドからの商品が西方へと運ばれていたことが克明に記されている。日本でいえば、中世の記録に『兵庫北関入船納帳』というものがあり、それはまさに現在の神戸港でかつて取り引きされていた交易品の記録簿であるが、それと同じようなものと考えればよいかもしれない。『エリュトゥラー海案内記』は66節から成るが、そのうちの4節のなかに商品としてのサンゴが記されている。
 西暦1世紀といえば、中国では漢の時代である。班固が著わした『漢書』西域伝(小竹武夫訳 筑摩書房刊)には、「罽賓(けいひん)は……珊瑚……を産出する。」と記されている。罽賓はかつてのガンダーラ地域を差すもので、当時、中国ではパミール高原の南の山中でサンゴは採れるものと思われていたようである。「ヤマサンゴ」の語源はここから来ているのであろう。
 そこで、今まで述べてきた文献の内容をつないでみると、先ず地中海で採取されたベニサンゴは、エジプト、アラビアから船でもってインドに陸揚げされ、そこから陸路でガンダーラに運ばれ、さらにパミール高原を越えて、中国の方へもたらされた「サンゴの道」(コーラル・ロード)が漠然と見えてくるようである。そして、それを裏付けるかのように、中国西域のニヤ(尼雅)遺跡から、近年サンゴが発見されたのである。

 
中国西域の地図(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)
 ニヤ遺跡は前漢時代の精絶国の跡であり、その後、三国時代にクロライナいわゆる桜蘭国の属国となった。遺跡からサンゴが初めて発見されたのは1959年のことであるが、その後35年経った1994年、日中共同尼雅遺跡学術調査隊の手によってサンゴの加工品が発見され、1997年までの4年間で合計62点のサンゴ資料が確認された。
『日中共同尼雅遺跡学術調査隊報告書』第2巻掲載の呉勇氏の論文によると、そのうちの3点は3基の墓地の発掘調査によって発見された一級資料である。1点は男性の左耳についていた紅色の耳飾り、もう1点は女性の絹帽子の鳳頭飾りにつけられた薄紅色のもの、さらにもう1点は棺の底から発見された紅色のものだという。また、南方工房址と称する遺構からは26点のサンゴがガラスや真珠などとともに採集された。呉有氏は、「新疆地区を古代東西間の陸上交通と文化交流のなかにおいて考察するならば、これらの珊瑚は西洋の地中海から来た可能性が高い」という見解を示している。当時の人間の潜水能力からいって、サンゴが水深30m前後に棲息する地中海海域のベニサンゴしか採取する術がなかったことを考えれば、かなり説得力のある見解と思われる。    
ニヤ遺跡出土のサンゴ
(「ニヤ遺跡の謎」東方出版より)

正倉院・サンゴのビーズ
(「正倉院紀要」より)
 ところで、日本ではサンゴは発見されないのであろうか。残念ながら今のところ古墳時代以前の遺跡からは見つかっていない。日本で最古のサンゴは、正倉院にある奈良時代のものである。752年の聖武天皇による東大寺大仏開眼会での礼冠垂飾に用いられたとされる残欠のサンゴ玉14点がそれである。それと、正倉院にはさらに由来不明とされる「サンゴの原木」なるものもある。これらの資料について東海大学教授の鈴木克美氏が、「正倉院の珊瑚について」という論文(『正倉院紀要』第24号所収)のなかで、観察調査の結果を次のように報告されている。「目視所見による範囲では、これらの管玉が石材や獣骨材ではなく、珊瑚のビーズと判定される。資料に共通の色むらのない橙赤色の色調は、地中海およびその周辺近海に産するベニサンゴ(地中海サンゴ)に最も類似する」と。
 また、「サンゴの原木」については、「生物学的にはサンゴ科と同じ八放サンゴ亜綱ヤギ目の動物であるが、宝石サンゴは石軸亜目サンゴ科、こちらは骨軸亜目ホソヤギ科と、群体の姿も材質もかなり相違する。生物学的にはサンゴ類には相違ないが、宝石サンゴを連想させる『珊瑚の原木』と呼ぶのには、かなり抵抗感を感じる」と述べておられる。なお、サンゴ玉については、「1点を除き、瑠璃玉や真珠などとともに糸で連結されていた」という観察報告が注目される。
 これらのことから考えてみると、正倉院所蔵のサンゴ玉は、地中海産のベニサンゴの原木がエリュトゥラー海を越え、ラクダの背に揺られてニヤ遺跡即ちかつての精絶国に運ばれ、そこの工房でサンゴ職人の手によって加工されたものが、いつの時代か中国の唐の都長安にもたらされ、それがやがて遣唐使によって日本に持ち込まれたものと考えられる。一方、「サンゴの原木」の方は、日本近海で育ったものがいつか落木(おちき)となって、日本のどこかの浜辺に打ち上げられ、誰かに拾われたか漁師の網に引っかかったのを、あまりの珍奇さに噂を聞いた地方領主がそれを召し上げ、朝廷に献上したものかもしれない。それにしても気になるのはサンゴ玉の方である。ニヤ遺跡で発見された女性の絹帽子の鳳頭飾りに着けられたものと東大寺大仏開眼会での礼冠垂飾のものとが、ともにガラス玉や真珠玉とで繋がっていたという共通点である。シルクロード文化の観点から遺物だけでなく、こうした装飾スタイルなどと考え合わせていくと、興味はどこまでも尽きることがない。


   【参考資料】礼冠垂飾(玉冠)
(「琉球王朝の美」彦根市教育委員会より)

正倉院・サンゴの原木
(「正倉院紀要」より)
 日本では正倉院における初見以後、近世に至るまでサンゴ到来の形跡がまったく見られない。江戸時代になってやっと将来されるが、それは「古(こ)渡り珊瑚」と呼ばれるもので、意味は「胡(えびす)渡り珊瑚」であり、南蛮渡来の豪奢品である。日本でサンゴが産業として芽生えるのは、江戸時代幕末期の土佐におけるサンゴ漁からで、それを明治時代になって長崎県五島列島の漁民が発展させていく。            
 このことについては新田次郎が小説『珊瑚』のなかで史実とエピソードなどを織り込みながら教示している。ちなみに、土佐や五島の漁民が採取したのは深海100〜120mのアカサンゴ・モモイロサンゴ・シロサンゴである。極上品のベニサンゴは浅海30mの地中海でしか採取できない。色彩・グレード的にベニサンゴに準ずるのはアカサンゴだそうである。しかし、ベニサンゴの本場ではかつてプリニウスが嘆いたようにすでにほとんどが採り尽くされた。地中海におけるサンゴ漁およびサンゴ加工産業は、近代以後日本に取って代わられたそうである。となると、イタリアを旅行する際、土産物としてサンゴのアクセサリーを買い求めることがあるとしたらよくよく注意しなければならないかもしれない。ひょっとして、「メイド・イン・ジャパン」をつかまされるかもしれないからだ。かくいう私もチベットで買ってきたサンゴがあった。もしかして、「メイド・イン・ジャパン」なのでは?

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