文机からエッセイ
【「月姫」への募る思い】
 ※本文は2003年7月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 年に一度、織姫星と牽牛星が逢瀬を楽しむ七夕の夜は生憎の雨模様の空であった。おかげで、天の川はおろか、お月様さえも仰ぎ見ることができなかった。
 昨今の海外からの気になるニュースといえば、イラクの戦災復興と文化財の破壊・略奪の問題であるが、それは少し前まではアフガニスタンのことであった。時勢が目まぐるしく変化しているのか、アメリカがひっきりなしにアジア各地で戦禍の種を播いているからなのか、いずれにしても最早穏やかな日々は遠く過ぎ去ったように思われる。そして、さらに追い討ちをかけるように中国国内を中心としたSARSと称する新型肺炎感染のニュースが伝えられ、私たちが普通に考える想像の域をはるかに超えた深刻な事態に至るまでになった。そんなこんなで、今年の中国西域南道の旅は延期となり、ここしばらく私にとってシルクロードが遠い存在となってしまった。

 
アイ・ハヌム周辺図(青丸がアイ・ハヌム)(「地歴高等地図」帝国書院より)
 すると、かえってシルクロードへの思いが日ごとに募ってくる。とりわけ数年前に旅した北パキスタンのヒンドゥークシュ山脈の情景が思い起こされ、そして、まだ見ぬ「月姫」の存在が幻想となって現われてくるようになった。

 ヒンドゥークシュはパキスタンとアフガニスタン両国の北部を東西に走る山脈である。その名が「インド人殺し」を意味するように、高く険しい山並みが続く。そのヒンドゥークシュ山脈の北麓、アフガニスタンの領土がタジキスタンとの国境線にまさに接しようとするところ、そこが「月姫」の住むところである。
   

ヒンドゥークシュ山脈
 「月姫」といっても実在の女性ではない。アイ・ハヌムという古代遺跡に付けられた名前である。トルコ系遊牧民族・ウズベク族の言葉で「アイ」は「月」を意味し、「ハヌム」は女性への敬称である。そこで、ここでは敢えてロマンチックに「月姫」と呼ぶことにする。

バクトリア王国の領域
(「文明の道A」NHK出版より)
 アイ・ハヌム遺跡のあるアム・ダリア(ヒンドゥークシュ山中に源を発し中央アジアのアラル海に注ぐ大河)流域には、かつてバクトリア王国が存在していた。この国は紀元前4世紀後半のアレキサンダー大王の東方遠征に伴ってつくられたギリシア人の植民国家であった。アレキサンダーの死後はセレウコス朝(シリア)、マウリア朝(インド)、アルサケス朝パルティア(イラン)などの手に委ねられたが、最後は紀元前145年頃、北方から侵入してきた遊牧騎馬民族のスキタイ(サカ)によって滅ぼされた。ちなみに、このスキタイ(サカ)は、かつて中国西北部の河西回廊から敦煌にかけて勇躍していた月氏(大月氏)のことであるが、のちにガンダーラからインドへと進出したクシャン族であったとも言われている。そのクシャン族は近年タリバンによって破壊されたバーミアンの大石仏を造営したことで有名である。
 1920年代から向こう30年間、アフガニスタンでの発掘調査権を独占したフランスの考古学調査隊は、このギリシア系王朝であるバクトリア国の跡を探すのに躍起となった。しかし、バクトリア国が発行したコインなどは見つかるが、ギリシア風建築の遺構を発見することはできなかった。
 それから数十年が経過した1961年、当時アフガニスタン国王だったザヒル・シャーが現在のタジキスタン国境近くで狩猟を楽しんでいたとき、偶然にもギリシア建築に見られるアカンサスの葉で飾られたコリント式柱頭と円形の基壇を見つけた。それがきっかけとなってアイ・ハヌム遺跡は発見されることとなった。

        アイ・ハヌム位置図
    (「世界の大遺跡F」講談社より)

        アイ・ハヌム遺跡
    (「世界の大遺跡F」講談社より)

遺跡はタジキスタン(旧ソ連)との国境上にあり、外国人の立入り禁止区域であったため、長年発見されなかったのである。発掘調査の許可はやはりフランスが獲得し、1965年からフランスの考古学調査隊によって調査が開始された。
 遺跡は、アフガニスタン北部の町クンドゥズから東北に約55km行ったアイ・ハヌム村にあり、アム・ダリアの本流へ支流のコクチャ川が流れ込むその合流地点の三角形の台地上に位置していた。それは切り立った山を背に二辺が川に面し、東北方に平野が広がる天然の要塞といえるところであった。高さは約15m、まるで航空母艦の上にいるようなものであろう。

        アイ・ハヌム平面図
    (「世界の大遺跡F」講談社より)

        アイ・ハヌム神殿址
    (「遥かなる文明の旅A」学研より)
 アイ・ハヌム遺跡の調査は1965年から1978年まで行われ、その結果、遺跡の大要が明らかになった。そして、遺跡はやはりバクトリア王国の都城であることが判明した。

アイ・ハヌム神殿址列柱跡
(「遥かなる文明の旅A」学研より)


アイ・ハヌム出土ギリシア風若者像
(「遥かなる文明の旅A」学研より)
   
 その調査成果のなかでとりわけ私の注意をひいたのは、神殿の倉庫からトルコ石、瑪瑙、水晶などとともに、ラピス・ラズリの原石が籠に入った状態で75kgも発見されたことである。ラピス・ラズリはアイ・ハヌム遺跡の下を流れるコクチャ川を遡ったバダフシャン地方で産出されるものである。


 アイ・ハヌム出土太陽神キュペーレの円盤
    (「遥かなる文明の旅A」学研より)

それは古代エジプトやメソポタミアの王たちの身を飾る宝石として愛され、のちには中国の敦煌莫高窟の壁画を青く彩るための顔料としても利用された価値あるものであった。アイ・ハヌムはラピス・ラズリの鉱山から近く、また、オリエントと東アジアの両地方への交易流通の基地として極めて良い位置にあった。したがって、バクトリア王国はラピス・ラズリの採掘や交易を独占して莫大な利益をあげていたと思われる。

 ところで、バクトリア王国の王女も群青色のラピス・ラズリで身を飾り、それは石のなかに含まれる黄鉄鉱が星のように輝いていたと想像される。そのラピス・ラズリで着飾った王女の姿は、星とともに煌めく「月姫」だったにちがいない。

 バクトリア王国の都城アイ・ハヌム(月姫)は月氏によって滅ぼされたあと、それから2000年以上もの長い間、土中で静かな眠りについていた。ところが、1965年に目を覚まさせられて以来、1979年からの旧ソ連軍によるアフガニスタン侵攻、その後のタリバンによる内乱状態を経て、昨今のアメリカの軍事介入へと続き、アイ・ハヌム遺跡は、バーミアン石仏のように壊滅的な状態になっているものと思われる。そして、これらの現代の戦さの跡も、またやがて後世の考古学調査の対象になっていくのであろう。そうした虚しさを感じながらも、しかし、「月姫」への思いは日々募るばかりで、いつの日か当地を訪れてみたいと思うのである。

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