文机からエッセイ
【西域南道への夢】
 ※本文は2002年10月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 
西域南道の地図(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)
 西域へのキャラバンは敦煌で旅支度を整え、ロプ沙漠のオアシスである鄯善(楼蘭)に向かった。敦煌郊外にある最後の関所・玉門関を出ると距離にして約600キロ、約2週間を要する行程は過酷きわまりないものだったに違いない。


         玉門関

        敦煌莫高窟遠景

 この地域は古来沙河と呼ばれ、ラクダの足も埋るほど砂の深いところである。紀元400年、インドに向かった求法僧の法顕は、『法顕伝』のなかで、「沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遇えばみな死んで、一人も無事な者はない。
空に飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎり〔の広大な砂漠で〕行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするだけである。行くこと十七日、距離にしておよそ千五百里で鄯善国に着くことができた。」(『法顕伝・宋雲行紀』 長沢和俊訳注 平凡社)と記している。この難所を乗り越え、無事鄯善(楼蘭)のオアシスに到着したときのキャラバン隊の人々の安堵の笑顔が容易に想像される。
 鄯善(楼蘭)から道は二本に分かれる。北西に道をとると天山山脈の南麓を行く天山南路となる。また、西南に道をとると崑崙山脈の北麓に沿った西域南道に進み、そのオアシスには、『漢書』西域伝に記された且末(しょまつ)、小宛(しょうえん)、精絶(せいぜつ)、戎廬(じゅうろ)、扞彌(うび)、渠勒(きょろく)、于闐(うてん)の国々が存在していた。(このほかにも国名が列記されているが、ここでは于闐までとしておく。)このうち西域南道のメインルート上の国は且末、精絶、扞彌、于闐であるが、于闐以外はタクラマカン沙漠の砂のなかに埋もれてしまっている。精絶はニヤ(尼雅)遺跡とされ、現在のニヤ(民豊)の町から北に120キロ入ったところにある。このことから、かつての西域南道は遥か昔に沙漠に埋まってしまい、当時、メインルートからはずれていた小宛、戎廬が、むしろ現在の西域南道沿いに位置しているものと思われる。

 ところで、かくのごとく東西交易の幹線として繁栄をきわめた西域南道であったが、紀元1世紀、後漢の時代になると、西域政策に熱心だった明帝は、その頃再び勢力をぶり返していた匈奴を打ち破ってハミ(哈密)の町を支配下に治めた。ハミは鄯善(楼蘭)から北東750キロにあるトルファン盆地東端のオアシスの町である。ここを制圧したことにより、敦煌からハミ、トルファンを経て北道へ出る道が拓かれることとなった。このため、今まで苦難をきわめた鄯善(楼蘭)経由の道は敬遠され、多くのキャラバンはこの新しい道を好んで使うようになった。その結果、あれほどの賑わいをみせた楼蘭の都は、やがて砂に埋もれてしまうこととなってしまうのである。しかし、それはもう少しのちのこととして、その後の後漢王朝は、概して西域経営に積極的ではなかった。そのため西域のオアシス諸国では、そのなかで力の強い国が勢力を広げていくこととなった。西域南道では鄯善国と于闐国が二大強国となり、鄯善国は精絶国までを、于闐国は戎廬国までを属国とすることになった。そして鄯善国の人々は、かつて自分たちがそう呼んでいた楼蘭という名を再び使うようになった。
 しかしながら、敦煌ーハミートルファン経由の道がシルクロードの主要幹線ルートとしてとって代わることによって、西域南道もそれに沿ったオアシス国家も、やがて人知れず砂のなかに埋もれてしまった。そして、東西交易の要衝としてあれほど繁栄を極めた楼蘭王国も、20世紀初めの西欧諸国の探検家によって発見されるまで、長い眠りにつくこととなったのである。

 私たちは、これまで西域南道にあった楼蘭やミーラン(米蘭)、ニヤ(尼雅)などの遺跡が砂のなかから発見されるたびに、その原因を過酷な自然条件に求めがちであった。川の水が干上がったり、流路が変わったから人々は集落を放棄せざるを得なかったというのが大きな理由とされてきた。しかし、それはどうも少し違うようである。人は常に自然を克服するだけの知恵を持ち合わせていた。灌漑技術がまさにそれである。やはり、理由は人がそこに住みつく必然性がなくなったから放棄されたと考えた方がよい。その最大の要因は、西域南道が果たした役目の終焉にあったようである。このことは、私たちの身近なところでニュースとなる鉄道やバス路線の廃止と同じことである。


      アルティン山脈の道


     チャリクリクの西瓜売り

    陽関から遥かゴビ沙漠を望む

 このように、かつての西域南道は砂に埋もれてしまった。では、現在の西域南道はどうであるのかを見てみよう。
 昔、唐の詩人・王維が、「…西のかた陽関を出づれば故人なからん」と謳った敦煌郊外の陽関から道を西南にとり、崑崙山脈の支脈であるアルティン(阿彌金)山脈の山道を約450キロ走ったところから進路を西北に変え、約500キロ進むとタクラマカン沙漠南縁のオアシスの町チャルクリク(若羌)に出る。ここで一度かつての西域南道に出会う。ちなみに楼蘭はここから約400キロ北東に位置していた。現在、楼蘭へ入るのは不可能ではないが、金と時間を相当要することとなる。

 しかし、楼蘭は無理としても、チャルクリクの近くには有名なミーラン遺跡がある。この遺跡はイギリスの探検家スタインによって発見された故城跡で、一説には先ほどの『漢書』西域伝に出てきた伊循城ではないかといわれているところである。

オーレル・スタイン

       ミーラン遺跡

 チャルクリクから崑崙山脈の北麓沿いを西に約400キロ進むとチャルチャン(且末)に達する。町の西南郊外に且末故城があるが、往時の且末はもっと北に位置していたから、この城は且末よりも、むしろ当時幹線ルートからはずれていた小宛国に関係するものかもしれない。しかし、今のところ推測の域を出ていない謎の故城といえる。


      タクラマカン沙漠

      洪水による道路崩壊

 チャルチャンから約300キロ行くとニヤ(民豊)である。かつてのニヤすなわち精絶国は、現在の町の120キロ北の沙漠のなかに眠っている。いや、眠っていたという方が正確かもしれない。近年、日中共同の発掘調査が行われ、多くの遺構の検出と遺物が発見されたからである。ニヤ遺跡には、車で90キロ行ったあと、残りの30キロはラクダか沙漠車を利用しないと行き着けない。短期間の旅行では難しいところである。

シルクロードのポプラ並木

ホータン市内を流れる白玉河
 そして、ニヤから約300キロで、古来玉の産地として有名なホータン(和田)に到着となる。白玉河と墨玉河に挟まれたオアシスで、西域南道最大の都市である。かつての西域南道ともここで合流する。往時の于闐国の都城とされるヨートカン(約特干)遺跡は、市の西南11キロの畑のなかにある。

スタインによるホータンの調査

ヨートカン遺跡
 また、市の南25キロにあるマリクワト(瑪利克瓦特)古城は、于闐国の辺境防御のための要塞跡だとされている。すぐそばには地元で玉龍咯什河と呼ばれている白玉河が流れ、遠くに崑崙山脈が望まれる。西域南道は、これから多少位置のズレはあるものの、ほぼ現在の道に沿って皮山、莎車(ヤルカンド)を経て、疏勒(カシュガル)へ達している。


ホータン市内

マリクワト故城

 私は、かつて1991年にホータンを訪れ、そこからカシュガルに向かって西域南道を車で走った。ホータンを訪れた当時は、まだホータンから東の西域南道沿いのオアシス都市は未開放であった。それが1994年3月に開放され、自由に旅行ができるようになった。来年は敦煌からホータンまでの西域南道の東半分を走破し、長年見続けていた西域南道完走の夢をぜひ実現させたいと願っている。

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