文机からエッセイ
【スタインとニヤ遺跡】
 ※本文は2002年4月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。

 20世紀の初め、ヨーロッパやロシアの探検家たちが中央アジアの沙漠の地をめざして出かけて行った。その双璧をなすのがヘディンとスタインであろう。ヘディンは1865年生まれのスウェーデンの探検家。ドイツのベルリン大学で「シルクロード」の命名者リヒトホーフェンから地理学を学び、のちに、桜蘭国やさまよえる湖「ロプ・ノール」の発見など多くの貴重な探検の成果をあげた。一方、スタインは1862年ハンガリー生まれのイギリス人。オーストリアのウィーン大学でミュラーから古典言語学を学んだ。しかし、スタインにはヘディンのような華やかさと著名さがない。ヘディンほどのパフォーマンスが見られなかったことが理由にあげられよう。
 スタインが中央アジアを夢みるようになったのは、彼が11才のときであった。ドイツのドレスデンに留学したとき、その学校で教わったハウスマンという先生は、アレクサンダー大王の大の心酔者だった。先生がアレクサンダーの中央アジアでの活躍を、あたかも見てきたかのようにいつも授業で熱っぽく語るのを聞いているうち、スタインは完全にその虜になってしまった。そして、いつの日かアレクサンダーの歩んだ道を、自分も辿ってみたいと思うようになっていた。のちに、インド(現在はパキスタン)のラホール大学に職を得て、その夢を実現すべく任地に赴いたのは1887(明治20)年のことであった。そして、一生をそこに捧げることとなった。ここで暮らす間に、アレクサンダーへの憧れもさることながら、彼には中国唐代の求法僧である玄奘三蔵への思いも募っていったようである。

オーレル・スタイン

ニヤ遺跡位置図
(「流砂の道」日本放送出版協会より)
 スタインが、崑崙山脈の北に位置する中国西域のオアシスの町ホータン(和田)に行きたいという思いに駆られたのは、10年後の1897年、彼が35才のときであった。イギリス本国から遠く離れ、故郷ハンガリーの親も亡くなって、寂しさと侘しさが相募っていたまさにそのとき、ヘディンが桜蘭国の住居址を発見したというニュースが飛び込んできた。「これはすぐにヨーロッパの探検家たちが、そこへ押し寄せてくるだろう。その前にどうしても出かけたい。幸い自分はヨーロッパの地にいる者たちよりも、ずっと近いインドにいる。この時期を逸すれば、いつ自分にチャンスが巡ってくるかわからない。」スタインはそう思ったのである。
 チャンスは自らの手で掴めというが、運気はスタインに味方した。その頃インド総督にカーゾンというやり手の人物が新しく赴任してきた。ちょうどロシアの南下政策が展開されていた折りであり、スタインが申し出た多額の経費を要する探検事業に、カーゾンは快く理解を示してくれたのである。本国から遠く離れた一介の大学職員であり、ましてやハンガリー出身の帰化イギリス人といった極めて不利な立場のなかでカーゾンと巡り会ったのは、スタインにとって本当にラッキーなことであった。
 スタインが念願の旅行許可証を得て、ラホールからホータンに向けて出発したのは、1900年4月のことであった。彼の手には玄奘三蔵の『大唐西域記』がガイドブックとして、いや、それ以上のバイブル的存在としてしっかりと握られていた。彼がホータンの町に着いたのは半年後の10月中旬であった。そして、12月7日、スタイン一行はホータンからさらに東に向け、古代シルクロードの西域南道沿いに点在する廃墟跡の考古学調査に出発した。途中ダンダン・ウイリク遺跡などを調査しながら、ケリヤという小さなオアシスの町に到着したとき、ここからさらに東にあるニヤ(尼雅)の町の北方の沙漠のなかに古代の住居跡があるとの情報を得た。そこで馬の背に揺られて、さらに4日をかけてニヤの町に向かうこととなった。


スタインの行程図
(コータンの廃墟)中公文庫より)

探検中のスタイン一行
 ニヤの町に着くや、スタイン一行のラクダを世話している青年が、偶然にも北の沙漠で2枚の木簡を拾った男がいるという情報を聞き出してきた。その男の名前はイブラヒムといい、1年前にいわゆる〈宝探し〉に出かけ、廃墟跡から木簡を見つけ出したのだという。しかし、これは男にとって〈お宝〉とはほど遠いものであった。結局掘り出した収穫は6枚の木簡だけだったので、それらを帰り道の途中で投げ捨ててしまった。ところが、思い直して2枚だけは自分の子供のおもちゃにと持ち帰ったのだ。もちろんその2枚はとうの昔に失くなっていた。このちょっとした情報が、のちのニヤ遺跡発見のきっかけとなるものであった。
 スタインはイブラヒムを捜し出し、すぐにガイドとして雇い、さっそくニヤの町の北にある廃墟跡へ出かけることとなった。それは3日を要する距離にあった。しかし、そんなことはスタインにとっては全く問題でなかった。むしろ古代言語学を学んだ青年時代の頃の情熱がふつふつと沸き起こり、今それが実践に役立つのかと思う期待に心躍らせていた。だが、その一方でこの情報がでたらめなのではという一抹の不安もないわけではなかった。

 ところが、その不安もイブラヒムが掘り出した建物跡の現地に立ったとき、大きな喜びと興奮に変わった。新たな発掘作業で見つけ出された木簡は、1日だけで100点以上にのぼった。そして、これらの木簡が古代のカローシュティー文字で書かれたものであることもわかった。


仏塔
(「尼雅遺址」新疆美術撮影出版社より)

スタイン発掘の住居跡
(「尼雅遺址」新疆美術撮影出版社より)

スタイン発掘の役所跡
(「尼雅遺址」新疆美術撮影出版社より)

遺跡近景
(「尼雅遺址」新疆美術撮影出版社より)
 スタインは16日間の調査を終え、2月13日にニヤ遺跡をあとにした。今、これらの収集品は大英博物館と大英図書館に収蔵されている。
 スタインと言えば、このニヤ遺跡での発掘出土品、それから2回目の探検のとき入手した敦煌の古文書類を本国イギリスに持ち帰ったがために、中国からは「憎むべき略奪者」の一人として悪名が高い。しかし、彼の調査の成果が、今日の「タリム盆地の考古学」の礎となったことは、素直に評価すべきであろう。

 ニヤ遺跡は、スタインが足を踏み入れて以来、1959年に一度地元自治区の博物館による調査があっただけで、その後発掘調査は行われていなかった。しかし、それが1988年、「日中共同ニヤ遺跡学術調査隊」が結成され、それ以降本格的な発掘調査が行われてきた。その成果をまとめた報告書の第1巻が1996年に刊行され、それを日本側の学術調査隊長であった田辺昭三先生(京都造形芸術大学)から戴いた。本文410頁、写真図版60点の分厚いものである。写真で見る遺跡は、1世紀を経ていてもスタインのものと全く変わっていない。田辺先生からは、「中央アジアを調査するときは誘いますから」という嬉しい言葉をいただいているが、残念ながら未だ実現していない               .

住居跡
(「日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書」より)

日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書

 スタインの調査から100年が経った21世紀、スタインがアレクサンダーの道に憧れたように、今、私はスタインの道に憧れている。そのスタインの辿った道のいくつかは、過去において知らず知らずのうちに歩んでいたが、ニヤの遺跡は残念ながら未だ足を踏み入れていない。遺跡はニヤの町から沙漠を北に向かって約120kmのところにある。90km地点までは車で行けるが、その先は沙漠車かラクダで行かなければならない。容易ではないが、いつかは是非訪れたい地である。               .
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