文机からエッセイ
【雛祭りの起源を中国青海省の舞踊紋彩陶に見る】
 ※本文は2004年4月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。

 3月が近づくと、女の子のいる家々では雛人形を飾り、雛祭りの準備をする。雛祭りが旧暦の3月3日に行われていた頃は春たけなわの祭りだったと思われるが、新暦の今日では春を招く祭りといえる。この雛祭りは桃の節句とも、上巳(じょうし)の節句とも呼ばれて、その風習は日本では室町時代に定着したとされている。

福山市鞆の商家

鞆の商家の雛飾り
 この桃の節句に飾られる雛人形を2月下旬に見る機会があった。場所は福山市鞆の旧家である。鞆は通称鞆の浦とも呼ばれ、古く万葉の時代以来風待ち・潮待ちの港町として栄えていた。また、江戸時代には朝鮮通信使の寄泊地ともなった景勝地である。その鞆の旧家に飾られた古式の雛人形を見ているうちに、いつしか中国青海省の遺跡から出土した彩陶(彩文土器)に描かれた舞踊紋様に思いを馳せらせていた。

鞆の旧家の雛飾り
 中国西北部に位置する甘粛省・青海省の黄河流域の新石器時代の埋葬遺跡からは、彩陶の壺類が副葬品として多く出土している。なかでも青海省の省都・西寧近郊の上孫家寨遺跡(1973年出土)、同じく青海省の北チベットに近い宗日遺跡(1995年出土)からは紀元前3000年から2500年頃のものとされる舞踊紋様の彩陶が発見された。

中国青海省青海湖周辺の位置図
(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)

青海湖

舞踊紋彩陶(上孫家寨遺跡)
 これらは従来の紋様とは全く異色のもので、前者には鉢状の器壁の内側に五人一組で3組の人物が手をつなぎ、足を振り上げて踊っている様子が、そして、後者にも同じく一組十一人と一組十三人の2組の人物がスカートのようなものを穿いて、やはり手をつないで踊っている様子が描かれていた。この舞踊紋は明らかにチベット或いは西方系の影響を受けたものである。
 これまで彩陶と言えば、黄河の中・上流域を中心に多数出土する格子、螺旋、流線状などを特徴とする紋様が一般的であった。また、その彩陶の伝播については、西方から東方への説、或いは東方から西方への説と学会でも見解が分かれている。もちろん、中国の研究者らは中国自生説をもとに東方から西方への説を主張している。しかし、上孫家寨と宗日の2遺跡から従来の紋様と舞踊紋様とが混在する形で出土したことから、一概に中国自生説とばかりは言えない状況となってきた。

舞踊紋彩陶(宗日遺跡)

柳湾墓地復元模型
(青海省彩陶研究中心柳湾墓地陳列室)
 ところで、副葬彩陶については当時の死生観や宗教観が大きく関わっている。たとえば、青海省文物考古研究所が行った青海省楽都県の柳湾墓地における1974年から5か年をかけての発掘調査の成果によると、遺跡内には約1500基の墓が存在し、そのすべての棺のそばに土器が副葬されていた。土器の出土総数は13227点に達し、そのうちの7109点が彩陶の壺であった。そして、棺のなかには少なくとも1個ないし2個、最多で91個の土器が副葬されており、その91個のうちの87個が彩陶の壺であった。中国社会科学院考古研究所の韓康信教授によると、柳湾墓地に眠る遺体の平均寿命は約37歳である。その内訳は4分の1が青年と壮年者、2分の1が未成年者で、そのうちの半分が幼児だそうである。
 となると、新石器時代に生きた人々の間では間断なく極めて頻繁に人の死と誕生が繰り返されていた。つまり、当時の人々は死への悲しみと同時に、命の復活といった死生観を身近に感じながら暮らしていたのである。この2つの遺跡で出土した舞踊紋彩陶はいずれも棺内の枕元に大事そうに副葬されていたことから、死者が生前舞踊に携わっていたとか、歌や踊りが好きであったとか、死後も楽しく過ごせるようになどといった単純なものではない。その解明には中国中原に住む人々と異なる羌・苗など少数民族との関わりや、彩陶製作における祭祀或いは宗教といった精神文化面における追究などが必要である。とりわけ、当時の人々にとっては死からの復活・誕生といったものに重きが置かれていたことが推察される。
柳湾墓地出土の彩陶

曲水の宴(「和漢三才図会」平凡社より)
 そんなことを考えていたとき、図らずも鞆での雛飾りを見る機会に恵まれ、その雛祭りの起源を探る拠り所が掴めそうな気がしてきた。そのヒントとは次のようなものである。
 元来、3月3日は中国伝来の3月上巳の行事であり、それに雛遊びが結びついてできた節句とされている。しかし、時代が新しくなるにつれ、3月上巳の行事は様相が変わってきた。梁(6世紀中頃)の宗懍の撰『荊楚歳時記』には、「三月三日……清流に臨んで流杯曲水の宴を催す」とある。曲水とは、上流から酒杯を浮かべて流し、その杯が自分のところへ来るまでに詩を作り上げるもので、首尾よく出来たら杯を取って酒を飲むという風流事で、曲水の宴とも呼ばれている。この曲水の宴は、唐代の文人墨客に好まれた。

 では、この曲水の行事の由来は何だったのであろうか。同じく梁代の呉均の撰『續齊諧記』には、次のように記されている。
 あるとき、晋の武帝(在位265〜290)が尚書(今の総理大臣)の摯虞に「三月の曲水にはどういう意味があるのか」と尋ねた。それに対して摯虞が、「漢の章帝(在位76〜87年)のとき、平原の徐肇では三月初旬、三人の女の子が次々と誕生したのですが、三日の日にはみんな死んでしまったそうです。人々は不安にかられ、その災厄が我が身にかからないよう、皆で酒を持って村の東にある水辺に行き沐浴をし、さらに水の流れに酒杯を浮かべて禊ぎを行いました。これが曲水の始まりです。」と答えた。それを聞いた武帝は、「もしそれが本当なら、元来は慶ばしいものではなかったのか。」と言ったという。
 このように『續齊諧記』は曲水の宴の由来を漢の徐肇の3人の女の死に関係づけている。
 では、なぜ女性が三月三日に死ななければならなかったのであろうか。これについて王秀文氏が『日本研究』第19集のなかで、「季春(三月)は陰と陽、生と死が対抗し、相争う月であり、陰が勝てば人が死ぬ。……女性は陰に属し、また、この月に懐妊し出産するという危険が伴うのだから、害の多く及ぼされるのは女性特に女の子であることは、信仰上十分に考えられる。したがって、三月上巳の儀礼は、女性に深く関わりがある」と述べている。この考え方からすると、3月上巳の行事は、生命の誕生を迎えるための祓禊の儀礼であると同時に、死の神を追いやる儀式でもあったということになる。だからこそ、生と死の運命を合わせ持つ女性と極めて深い関係があったのである。
 しかし、こうした古代の深い意味を持つ行事はやがて忘れ去られ、3月上巳の行事は桃の花を愛でる風習に取り込まれたあと、水辺における行楽や酒宴の享楽を経て、最終的には曲水の宴のような文人墨客の風流事として定着したようである。曲水の宴は中国では唐代に最高潮に達した。それが日本に伝わったのは奈良時代のこととされている。だが、3月3日の儀礼が曲水の宴へと変化したのは表の面であり、その源流は3人の女性の死にあり、女性との関係と切り離すことはできない。この3月3日の曲水の宴は、日本では桃の節句と呼ばれるようになったが、最終的には雛流しを経たあと、雛飾りとして定着したようである。したがって、雛祭りの本義は凶事・罪穢を人形に託して、流して身体を清める祓除の儀式であり、その異名として流し雛・送り雛などがある。今日、こうした本義は忘れ去られ、きらびやかな人形を飾る生を前提とした女の子のための壇祭りに変容してしまった。とはいえ、広島県大竹市の小瀬川などでは、現在も3月3日に流し雛の風習が残っている。

蟠桃と呼ばれる中国西域産の桃

大竹市小瀬川の流し雛
(「広島県文化百選2」中国新聞社より)
 以上が桃の節句の行事の由来である。ところで、桃の原生地は中国の陜西省・甘粛省の黄河流域とされている。また、桃は木偏に兆と書く。兆は象形文字にも表われているように、古代、亀甲獣骨を焼いてその割れた裂け目を見て物事の吉凶を占う、その裂け目を象ったものである。したがって、兆はものごとのはじめ、きざしといった意味を持っている。桃と女性との関係については、こうした桃の原生地や形状、語源なども決して無視できないものであろう。
 現在のところ、青海省で発見された舞踊紋彩陶の起源や意義などについては、まだ整理のつかない状態である。しかし、このたび鞆の雛人形を見て、古代中国で上巳の節句を生み出した人々の潜在的DNAには、確実に青海省の上孫家寨や宗日などで生活していた新石器時代の母系制社会の人々の死生観や宗教観が継承されていることを確信した。

あの彩陶に描かれた舞踊紋様は、多くの人々が大きな声で歌をうたい、大地を踏み鳴らすことにより、死から生へのよみがえり、一つの死からたくさんの誕生を祈る古代人のメッセージが含まれているに違いない。それは女性の存在を無視しては考えられないことなのである。
 折しも、丘の上に立つ鞆の浦歴史民俗資料館に日が射しはじめた。眼下には瀬戸内のうららかな春の海が広がっている。瀬戸内海の青い海と青海省にある青海湖が一体になったように思われた。鞆の海を見ながらいつの日か、未だ青海湖周辺に眠っていると思われる舞踊紋彩陶を持つ遺跡を訪れて、いわゆる彩陶文化の新たな展開に心を傾けたいという思いに駆られている。


鞆の浦の眺望
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