文机からエッセイ
【玄奘三蔵ゆかりの砕葉(スイアブ)城】
 ※本文は2006年4月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。


キルギス国位置図
(「地歴高等地図」帝国書院より)
 キルギス共和国は、1989年に旧ソ連から独立した中央アジアに位置する小国である。キルギスの正称は現地語でいうクルグズであり、通称もクルグズスタンである。しかし、日本ではロシア語でいうキルギス或いはキルギスタンの方が長く使われていて馴染み深い。


  砕葉城(アク・ベシム遺跡)位置図
(「週刊シルクロード紀行12」朝日新聞社より)
 キルギスは、旧ソ連時代から謎の多い国であったが、キルギス人自身も謎の多い民族である。キルギスの語源は「40の部族(kirk+uruu)の子孫」からきているとも言われている。キルギス人が現在の地に住み始めたのはほんの400〜500年前のことで、元来は羊や馬などの遊牧を生業とし、国家や国境などの観念とはほど遠い民族であった。彼らの原郷は、一説では中央シベリアのエニセイ川上流地域で、そこから徐々に天山山脈の方へ移ってきたと言われている。しかし、歴史的に見ると、この地域は紀元前3世紀頃の匈奴にはじまり、その後、柔然、突厥などのモンゴル系やトルコ系の民族が住んでいた。さらにその間には、古代イラン系のサカ族、種族不詳の烏孫やフン族も現われ、はたまた唐の西域経営による漢人や商売を得意とするイラン系のソグド人も暮らすなど数多くの種族、民族、部族が連綿と興亡を繰り返してきた。したがって、不明の部分も多いが、キルギス人の民族形成におけるDNAはモンゴル・トルコ・古代イラン系の構成要素をもとに、最終的には17〜18世紀頃までに出来上がったようである。それだけにキルギスには多くの伝説が残されており、また、時代を異にする多くの遺跡が眠っている。
 ここではその一つ、玄奘三蔵と関わりの深い砕葉(スイアブ)城についてみてみよう。


玄奘三蔵像
(「玄奘三蔵」光風社出版より)

天山山脈
 630年の春、唐の求法僧・玄奘三蔵はインドへ向かうに際し、天山山脈を南から北に越えて中央アジアのオアシス都市砕葉城に立寄った。それについて玄奘は、『大唐西域記』(水谷真成訳、平凡社刊)のなかで、「清池の西北に行くこと五百余里でスーヤーブ城に至る。城の周囲は六、七里で、諸国の商胡が雑居している。土地は黍・麦・葡萄によく、木立ちはまばらで気候は風寒く、人々は細毛の織物である氈や粗い毛織物の褐を着ている」と記している。
 玄奘のいう清池とは、湖のイシク・クルのことである。玄奘は天山山脈中央部西寄りのベダル峠を越えてイシク・クル湖岸に至ったが、砕葉城はさらにその西北約200キロのところに位置している。現在、砕葉城は、チュー川の近くのオアシス都市トクマクから西に約8キロ行ったところのアク・ベシム遺跡に比定されている。しかし、近年まではトクマクの南約10キロにあるバラサグン遺跡が砕葉城として有力視されていた。

イシク・クル湖岸からベダル峠方面への道を望む

玄奘三蔵の辿ったイシク・クルの西端部
 ところが1994年、滋賀県立大学の菅谷文則氏の目にとまった1枚の拓本がきっかけとなってアク・ベシム遺跡が砕葉城であることが明らかとなった。それは、682年に唐領の安西都護府の副都護であった杜懐宝が亡き母のために建てた石造の供養塔に彫られた文字を写しとったものだった。この供養塔は1982年に地元の農民が発見したものだったが、当時は旧ソ連領の時代であり、これを公表すると中国との国境問題の火種にもなりかねないとの懸念から伏せられていたらしい。
 しかし、昨今開放化政策が進展をみせ、こうした日本との共同調査も学術分野における成果の一つと言える。

 ところで、玄奘は砕葉城になぜ立寄ったのだろうか。それは、当時この地一帯を支配していた西突厥の王ヤブグ(葉護)可汗に会うためであった。玄奘が禁を犯して敦煌を出たあと、最初に歓待を受けたのは高昌国(現在のトゥルファン)であった。


砕葉城(アク・ベシム遺跡)遠景

遺跡遺構図
(「週刊シルクロード紀行12」朝日新聞社より)
 高昌国は漢人の麹文泰が支配していたが、実際は西突厥に服従し、国王の妹もヤブグ可汗の長男に嫁ぎ、西突厥とは姻戚関係にあった。そうした状況をみて、インドに向かう玄奘は、西突厥の保護下にある地域を通過する方がより安全と考えたのである。『大唐西域記』に、「スーヤーブより西に数十里の孤城があり、城ごとに長(おさ)を立てている。命令を稟(う)けているのではないが、みな突厥に隷属している」と記してあるように、当時、西突厥は中央アジア一帯を支配下に治めていた。こうした国際情勢を、玄奘は長安を出発する前から頭にインプットしていたのである。
 また、『大唐西域記』には、続けてソグド人について次のように記している。「土地はソグドと名づけ、人もソグド人という。……力田(農民の意味)と逐利(商人の意味)が半ばしている」とあるように、この地域一帯はソグド人が定住して農耕もやり、商品をラクダの背にのせて往来する交易も行っていた。商胡ソグド人の実態を会社にたとえて言えば、彼らの組織はサマルカンド(ウズベキスタンにあるかつてのチムール帝国の都)に本社を置き、内陸アジアの各地に支社・営業所・出張所のネットワークを張りめぐらした大貿易商社であった。

砕葉城市街区の遺構

遺跡で出会ったキルギスの子供たち
 そのネットワークの一つとして、砕葉城も6世紀後半に当時の権力者であった可汗(王ないし首長の意味)の許可を得てつくられたものである。ここは天山山脈の北麓を通るいわゆる天山北路のなかの交易拠点であり、西突厥にとってもソグド人にとっても大きな利益をもたらす中継の要衝であった。
 玄奘は、砕葉城外に広がる草原に設けた大テントのなかでヤブグ可汗に面会した。ヤブグ可汗は、さきに述べた高昌国王・麹文泰が玄奘に持たせた多くの贈り物を目にして大満足であった。ヤブグ可汗は歓待の意味をこめて宴を催したあと、玄奘に仏法の教えを乞うた。『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』によると、玄奘は不殺生や不邪淫など道徳の教えである「十善」や解脱の法について説教をし、ヤブグ可汗もこの教えを享けたという。

遺跡から北の草原を望む

遺跡から南の山岳方面を望む
 しかし、動物の肉を主食とし、他国に戦勝しては女性たちを奪い取ることを当然とするヤブグ可汗を説き従わせたというのは眉に唾して聞かなければならない。ヤブグ可汗は、高昌国王が玄奘に持たせた献上品に気をよくし、玄奘の説法にただ頷いていたというのが真実であろう。玄奘はヤブグ可汗の心象をよくして、彼の庇護のもとにインドを目指そうとしたのであるが、そうした前知識を玄奘は長安を旅立つ前にすでに得ていたと思われる。
と言うのは、インドの僧プラパーカミトラがヤブグ可汗に仏法を説いたりしながら、長安にやって来たことを玄奘は知っていたからである。玄奘としては、高昌国王である麹文泰が仏教に深く帰依している情報は早くに知っていたであろうが、実際、玄奘にインド行きを決断させたのは、プラパーカミトラのこの情報だったかもしれない。

バラサグン遺跡
 ところで、私がはじめて中国のシルクロードを旅行し、玄奘ゆかりの地を訪れたのは1980年で、今から四半世紀以上も前のことである。西安では玄奘がインドから持ち帰った経典の漢訳に取り組んだとされる慈恩寺(大雁塔)や玄奘の遺骨が埋葬されている興教寺を、また、新疆のトゥルファンでは玄奘が訪れた高昌国の城跡(高昌故城)などを見てまわった。

慈恩寺の大雁塔(中国・西安)
その後、何度かシルクロードを訪れるなかで玄奘三蔵の事蹟についても学んでいったが、それは玄奘を高僧として聖人化した見方であった。


興教寺の唐三蔵塔(中国・西安)

高昌故城(中国・トゥルファン)
 しかし、このたびキルギスの歴史に触れるなかで、玄奘が砕葉城に立ち寄った経緯の片鱗を窺うことができた。それは、玄奘の目的成就のための意志の強さだけでなく、緻密な情報収集能力と、チャンスを的確にとらえ実行に移す決断力のすごさである。つまり、西突厥のヤブグ可汗の支配力と、ソグド人の商業ネットワークをフルに利用した強かさがあればこそ、玄奘の偉業は成し得たのであろう。そこには純粋さだけでなく、ある意味での狡猾さをも持ちあわせた俗人玄奘の姿があった。これまでは玄奘の宗教的姿勢だけを見てきただけであったが、これからは玄奘の現実的な考え方をみていくのも面白いであろう。
 玄奘と西突厥王ヤブグ可汗、ソグド人の接点とも言うべき砕葉城は、現在、キルギスに所在するアク・ベシム遺跡である。私は、近々キルギスを旅する予定であるが、砕葉城(アク・ベシム遺跡)では、玄奘にあやかり、彼の運気を掴む力と、それからソグド人の金儲けの術を是非とも修得したいものである。
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