シルクロード紀行
ヤルツアンポ川の中州に立って
 ニューヨークで同時多発テロが起きた翌々日の九月十三日、私は長い間の念願であったチベットへ向けて旅立った。いつもなら出発前にはウキウキした興奮があるものだが、このたびはテロ事件そのものをテレビの画面からリアルタイムで目のあたりにした衝撃が尾を引き、心中複雑な思いであった。しかし、それも成都からチベットに向かう機中から見たミニヤ・コンカをはじめとするチベット高原の美しい山々を眺めているうちに、現実の血生臭さい事件も脳裏から遠のいていくのを感じた。
 チベット・ラサの空港はゴンカル空港といい、ラサから約一◯◯キロも離れた、標高三六◯◯メートルのところにある。タラップを降りたとき、「空気が澄みわたり辺りを山に囲まれた静かな空港」というのが第一の印象であった。滑走路には私たちの乗って来た飛行機のほかにもう一機が駐機しているだけで、ざわめきや雑踏からは程遠く、時間がゆっくりと流れているような現実と隔絶した世界がそこにはあった。「そういえば、ここは空気が希薄なんだ」とふと気がつき、意識的に大きく深呼吸をしたのが、空港建物に入るまでの次の行動であった。
 チベット第一日目、私たちは首都ラサとは逆方向にあるツエタンに向かった。ここは古代チベット国の発祥の地をかかえたヤルツアンポ川のほとりに位置する町である。ツエタンを第一に選んだ理由としては、ここがラサより標高が二◯◯メートル低いため、高山病対策として体を高度順応させるのにより適していると思ったからである。もちろんそれだけが理由ではない。ここから南に広がるヤルルン渓谷はチベットに仏教が入ってくる前の都があったところであり、チベット人の原郷とも呼ばれるべき、日本でいえばかつての飛鳥の地に例えられる地であるからでもあった。
川面にポプラの木々が美しい
ところで、私たちが出発前から怖れていた高山病であるが、いくつかの本によれば年に一人か二人は命を落とすと脅かされていたので、正直言って不安ではあった。その予防として「ダイナモックス」(本来は利尿剤)という薬がいいとか、体内の新陳代謝を活発にするにはスポーツドリンクがいいので、ポカリスエットの粉末を用意したらよいとか、人にはいろいろアドバイスをしたものの、自分自身には神経質になるのが一蕃よくないと言い聞かせ、さほどの準備もしていなかった。ただ、症状が出たら酸素を吸うのがよいと聞いており、酸素ボンベはバスにもホテルの部屋にも準備しておくように事前にお願いはしておいた。

川の中ほどにある大きな中州
その効あってか、バスに乗ったら早速現地ガイドから一人に一本プッシュ式の携帯酸素が渡された。五年前、中国の青海省を旅したとき、やはり三五◯◯メートルの峠越えをするというので、バスに酸素ボンベを用意してもらったことがあるが、このときは私がイメージしていたものとは程遠い大きな空気マクラのような酸素ボンベで、管を鼻の穴に突っ込んで吸引するものであった。そのことが思い出され、当時ご一緒したM婦人に「隔世の感がありますね」とお話ししたら、「あのとき私は知らないで、管を口に加えて吸いました」と言われ大笑いをしてしまった。
それほど安価で容易に手に入るようになった携帯酸素、行く先々やホテルの部屋を問わず全員がチベットを離れるまで肌身離せぬ必需品となり、最後まで重宝した代物であった。
 空港からツエタンへ向かう道路はずっとヤルツアンポ川の南岸に沿って走っている。川と山とが一体となった景色が一際美しい場所でバスを停めてもらった。青く澄んだ空に山々の連なりが間近に迫り、目の前をヤルツアンポ川がゆったりと東に向かって流れている。辺りのすべてが全く静粛そのもの、まさに「サウンド・オブ・サイレンス」の世界である。そのあまりに美しすぎる光景をただただ呆然と眺め入るばかりであった。月の世界に降り立ったときの感覚はこのようなものではないかとも思った。
 そのヤルツアンポ川と身近に接したのは、ツエタンでの見学を終え、いよいよラサへ向かう途中のことであった。対岸にサムイエ寺というチベット最古といわれる僧院があり、そこへは船に乗って行かなければならない。ガイドブックには川を渡るのに一時間を要すると書かれてあったが、たかだか川を渡るのにどうして一時間もかかるのかどうしても合点がいかなかった。宮島へ渡るのでも十分しかかからないのに…と思っていた。しかし、船乗り場に着いて、自分の考え方がいかに島国感覚で浅はかなものであったかをしみじみ痛感した。
対岸のサムイェに向かう人と物資
先ず川幅が約二キロもあること、船は東流する川面に逆らうように斜めに横切らなければならないこと、船は五十人が乗れるほどでそれに発動機が一機ついた川船独特の平底船だったこと等々である。朝の川風を切っての渡河は肌に冷たかったが、気分はきわめて爽快であった。川の流れは遠目にはゆったりと流れているように見えたが、実際は滔々と流れていて、船縁から水中に手を入れてみると灰色の濁流が手を力強く押してくる感覚があった。川は深いようで意外にそうではなく、中州がところどころに見られ、船頭も浅瀬を避けるように舵を操っていた。そういえば明治時代に求法僧としてチベットに密入国した河口慧海がその体験談として『チベット旅行記』(講談社学術文庫)を著わしているが、そのなかで慧海がヤルツアンポ川を渡るときのことを、「……十五、六丁ある水の流れて居る所を渡るのですが浅い所は腿(ひざ)ほどしかない。それも水は五、六寸位なもので底が見えて居るのですがやはり砂の中に足が嵌(はま)り込むから腿(ひざ)まで入る。また深い所は大抵腰の上まである。……」と記しているのがふと思い出された。

舳先から上流を望む
しかし、私が感動したのは、慧海の次の後述の部分を追体験できたことである。「……それからずっと川の行先を眺めて見ますと遥かの雲の中に隠れてどこへ流れ込んだか分からなくなって居るが、その蜿蜒と廻り廻って上から下までずっと流れ去り流れ来(きた)る有様はちょうど一流の旗が大地に引かれて居るような有様に見えたです。そこで例のヘボ歌がまた胸の中から飛び出した。 毘廬遮那(ビルシャナ)の法(のり)の御旗(みはた)の流れかと思はれにけるブラフマの川 ……」(筆者注:ブラフマはヤルツアンポのこと)
 サムイエ寺を参拝し再び船での帰路、ガイドは先を急ぎたがったが、無理をお願いして船頭に中州に立ち寄ってもらった。私がヤルツアンポ川にこだわるのは、『いちもん』の前号に記述したとおり、ここが五千万年前、インダスーツアンポ縫合帯と呼ばれるインド亜大陸とユーラシア大陸との衝突地帯だと言われたところだからである。その現場に直かに立ってみたかった。船から中州に飛び下りてみると、砂は表面的には固くしっかりしているが、ずっと立っていると沈み込んで足下から水が染み出てくる。しかし中州の先端で源流に向かって立っていると、悠久の歴史の息吹が押し寄せてくる感動を覚えるから不思議である。これは慧海が実感した思いと似た感触かもしれない。
 インダスーツアンポ縫合帯という大断層帯の名称から岩と岩とがぶつかりあった荒々しい景観をイメージしていたが、山々の連なりは意外と穏やかなものであった。ただ、黒い岩肌のいたるところが麓から中腹にかけて白く変容しているのが気になる。これは地球の温暖化の影響で山が砂漠化しているためだという。こんなところにまで文明の弊害が押し寄せているのかと慄然とさせられた。上空を見上げるとラサ空港に向かう飛行機の銀影がまばゆく光っている。この二千キロ西の国では、今まさに戦争が始まろうとしている。飛行機ならよいが、ミサイルや戦闘機が飛び交うことがないようにと思わず祈ったものである。中州にいたのはわずかな時間であったが、立ち去りがたく、せめてもと中州の砂をフィルムの空ケースに詰めてきた。今、いわゆるシルクロードと呼ばれる地域が、このたびのテロ事件でますます訪れにくい状況となってきた。その寂しさが思わず私に砂を掴ませたのかもしれない。しかし、現在のこの出来事も五千万年の悠久の流れのなかでは歴史のほんの一部に過ぎないのだろうか。ヤルツアンポ川の中州に立った私の心境にはやるせない複雑なものが膨らんでいた。
 (二◯◯一・一◯・一四記)
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