シルクロード紀行
カイバル峠のパシュトゥン人
 ※本文は2000年1月に認めたものであることを予めお断りしておきます。
 アフガニスタンとパキスタンの国境にあるカイバル峠は、古くはアレキサンダー大王の軍勢がインドへ向けて進軍し、中世には草原の覇者ジンギスカンの軍団も西方を目指して越えた「歴史の道」である。また名もなき旅人や遊牧民、そして数知れぬ物産が行き交った「文化の道」でもあり「交易の道」でもある。
 峠といえば人里遠く離れ、急峻な山道をようやく上り着いたところをイメージするが、カイバル峠はさにあらず、古代ガンダーラ国の都プルシャプラ(現在のパキスタン北西辺境州の首都ペシャワール)から西へわずか18キロ行ったところが峠の起点である。カイバル峠はその起点となるジャムルードにあるいわゆる「カイバルゲート」から40キロ先の国境地点トルハムの手前までの一帯を指している。ダラダラと続く九十九折りの道を上りきるとガンダーラ平野を望む展望地点があり、途中ランディーコタールの町を通過して、その先6キロ行ったところがアフガニスタン側の展望地である。ここから2キロ先の麓のトルハムが実質的な国境であるが、この2キロの道のりは治安上の問題から観光客は立入禁止となっていた。
 このカイバル峠を挟んでパキスタンとアフガニスタンとに住むパシュトゥン人の総人口は1100万人とも1500万人とも言われている。部族としては数十に分かれていて、それが両国でほぼ半数ずつ暮らしており、パキスタンの北西辺境州の人口の90%とアフガニスタンの50%がパシュトゥン人である。なお、彼らは自分たちのことをパターン人とは言わない。それは「インダス川の西に住む狂暴な隣人」を意味するインド人が使うヒンドゥー語に由来し、それを統治時代のイギリス人が継承したものだからである。彼らは自分たちを「パシュトゥン」とか「パクトゥン」とか称している。また、「アフガン」という語を使う者もいるが、これは「アフガン人」を意味するものであり、「アフガニスタンの国民」のことではない。したがって「アフガニスタン」とは「アフガン人の地(国)」を意味するものである。パキスタンが独立するとき主な地域名の頭文字をとってPAKISTAN(清浄なる国)としたが、そのAはまさにAFGANISTANのAであり、今の北西辺境州にあたる地域のことである。このようにパシュトゥン人は両国にまたがって暮らしているのが現実である。
カイバル峠周辺の地図
(出典:新詳世界史図説・浜島書店より)
 では、なぜパシュトゥン人が両国に分かれているのであろうか。これには19世紀初めのロシアの大洋を求めての南下支配の企てと、インドを防衛するイギリスとの権益をめぐる露骨な支配対立に起因している。その後両国間でいろいろな確執があったが、1893年に暫定的な軍事境界線として引かれたのがデューランド・ラインと呼ばれるもので、その両国の狭間で緩衝地帯として取り残されたのがアフガニスタンであった。デューランド・ラインは1919年にアフガニスタンが独立するときのイギリスのインド統治における勢力区分線、さらに1947年にパキスタンがインドからの分離独立する際の国境線としてそのまま継承されてきたのである。アフガニスタンの北東隅には現在のタジキスタンとパキスタンの国境に沿って細長いワハン回廊と呼ばれるところがあるが、そこは中国とわずか50キロほど国境を接しているだけである。これを見るとアフガニスタンがロシアとイギリスの緩衝地帯として利用されていたことがよくわかる。それはこの地に暮らす住民の意思を全く無視した一方的なものであり、その禍根がそのまま尾を引いて今日に至っている。本来パシュトゥン人は山岳遊牧民であり、彼らにはもともと国境という概念はなく、羊や山羊が草を食んで行き着くところが彼らの勢力範囲だったのである。近代のいわゆる列強大国の植民地時代の不自然な国境線という災いが来世紀にも持ち越されようとしている。
 堅苦しい話しはそれぐらいにして、それではカイバル峠の道をたどってみることにしよう。

パキスタンで暮らすパシュトゥンの人々
 カイバル峠の観光にはカイバル・ポリティカル・エージェントへの申請が必要である。許可がおりるとカラシニコフ銃を持った護衛兵が2名バスに同乗してくる。
 ペシャワールから道を西にとり、右手にペシャワール大学、アフガン難民のキャンプ地などを見ながら行くと、やがてカイバルゲートに達する。ここから先にある国境まではトライバル・エリア(部族地域)と呼ばれ、道路の舗装部分のみがパキスタン政府の法律の及ぶ範囲で、それ以外のところで何が起きても責任は保障されない。それ故このフリーテリトリーこそがパシュトゥン人の活動の場となっている。
 パシュトゥン人の銃の製造は世界的にも有名であり、麻薬の栽培と密売や外国からの密輸製品の取り引きも盛んである。これはみなトライバル・エリアを利用して行われている。外国製品の場合、アフガニスタンは内陸国であるため、海上からの陸揚げはパキスタンのカラチが利用されている。(現在この関係はギクシャクした問題となっているようであるが…。)そしてアフガニスタンへの商品に関しては、二国間の協定によりフリーパスで通すことになっている。パシュトゥン人はこの特権を利用して、一度アフガニスタンに持ち込んだものをパキスタンに逆輸入させるか、或いは途中で積み荷を降ろすかしている。だからカイバルの峠道を走っていると、麓の方にコンテナ基地がところどころ見かけられる。そうして税抜けした品々はペシャワールなどの町に持ち込まれ、安く売られるわけである。その密輸品バザールとして一番賑わっているのが国境の町ランディーコタールで、ここには世界中のものでないものはないと言われるくらい品物が豊富に集まっている。そのため土埃の舞う道は人と車で溢れ返っている。人々はここで買い漁った品を車にいっぱい詰め込んで帰っていくのである。これにはパキスタン政府も手を焼いており、実際に取り締まるには道路上でしかできないため、対向車が警官に止められて中味を調べられている光景にしょっちゅう出くわした。また、自転車の後ろにもう1台自転車を繋いで峠道を器用に駆け下りているのがいたが、あれも中国製の自転車を売りに行っているのだと言う。
 パシュトゥン人が暮らす家は基本的には日干しレンガで作られたものであるが、ところどころ高い土塀に囲まれた大屋敷も見られ、その塀の隅々に小さな銃眼があけられているのが特徴である。あるパシュトゥン人の家はまるで砦のようで、近年まで国会議員をやっていた大富豪の邸宅であった。そこの主は銃と麻薬で大儲けをしており、自分の財産が今どれぐらいあるのかもわからないという。
 カイバル峠はカブール川の渓谷に沿っているが、川と道を縫うようにペシャワールからランディーコタールまで鉄道が走っている。ここ数年政情の悪化から運転されていないため、線路の土盛りがえぐられたりしていて列車が走れる状態ではない。列車が走っていた頃は週に1回観光列車も運転されていたという。

ヒンドゥークシュ山脈奥深くで羊を追うパシュトゥン人
カイバル峠の景観は列車から見るのが最高だそうで、鉄道好きの私にはなんとも悔しい思いがするが、しかし1年前には立ち入ることも出来なかったのであるから、今回バスで行けるだけでも感謝しなければいけない。かつてイギリスがここに鉄道を通そうとしたとき、パシュトゥン人は当然反対した。実力阻止で立ち向かう彼らに弱ったイギリスは多額の補償金を払って解決した。そしていざ列車を走らせようとしたとき、パシュトゥン人は「線路の敷設は認めたが、列車を走らせることは認めていない」といって再び反対した。これに対してイギリスはやはり補償金と部族地域内のパシュトゥン人の乗り降り自由を認めて解決したという。彼らの一筋縄ではいかないしたたかさを物語る興味深いエピソードである。

カイバルゲート
 国境近く、スレイマン山脈の尾根上にある展望地から西を望むと黒い土色をしたアフガニスタンのどことなくもの寂しいモノトーンの光景が望まれる。近くの山頂に2か所要塞が築かれていて、現在はパキスタンの軍隊が駐屯している。国境線が2キロ先のトルハムに設けられているのは、かつてイギリスが国境線を引くとき、尾根の上にとると相手の動向が分からず、突然攻撃を受けたときに危険であると考え、山脈の向こう側の麓に国境を設けたためである。どこまでも悪知恵の働く国であるが、しかし本来国境という概念をもたないパシュトゥン人は昔も今もここを自由に行き来している。
 パシュトゥン人の生き方や考え方について触れるとき、「パシュトウヌワレイ」を抜きにしては語れない。これは「パシュトゥン人の掟」、つまり「パシュトゥン人の道徳と慣習」ともいうべきものである。決まりは数十にもわたるが、その最も代表的な徳目に「トウーラ(勇気)」があげられる。これは原語的には『刀』を意味する。パシュトゥン人は現在でこそ小銃を携帯するが、かつては刀が主要な武器であった。先祖からの刀を今も家宝として大事にしている家が多いという。勇気はパシュトゥン人にとって最も大切な精神であった。その象徴が刀というのは、日本の武士道にどこか通ずるものである。そのパシュトゥン人が戦いでとる最も勇気ある行動は勝利か死かの二者択一である。面(おもて)の傷は名誉、背中の傷は不名誉とされている。
カイバル峠(ガンダーラ平野を望む)

カイバル峠(アフガニスタンを望む)
そして戦いの方法としてはダーラ(夜襲)が正当化されている。まるで源義経の戦い方と同じであるが、これは強力な武器を持った強敵に対し峻険な地形を利用してゲリラ作戦を展開するのはちっとも卑怯なことではなく、山岳民の大事な兵法と考えられているからである。こうした精神構造を持った部族であるから、かつてのイギリスもロシアもここを制圧することができなかった。その前車の轍にもかかわらず、1979年にソ連軍はアフガニスタンに侵攻したが、10年後完全撤退を余儀なくされたことは記憶に新しい。今また性懲りもなくロシアはチェチェン共和国に大量の軍隊を送りこんでいるが、これも絶対に制圧できるとは思われない。

アフガニスタンからの車の荷物を検査する警官
 パシュトゥン人に政府の権力や国家の法律は及ばない。では彼等部族内部のトラブルに対する解決手段は何かというと、それは「バダル(復讐)」である。紛争の三大要因は「ザル(金)」「ザン(女)」「ザミーン(土地)」だそうであるが、復讐に時効はなく、何世代も前のことでも親から子へと申し渡されていく。だから例えばニューヨークやロンドンで奇怪な殺人事件があった場合、その原因は二世代前のパシュトゥン人の抗争にあったりするという。そしてそれが理に適った殺人であったときには人々は勧善懲悪の映画を見るように拍手喝采をおくるというからすさまじい。今この一連のいわゆるアフガン戦争で約300万人のアフガン難民がパキスタンに流れ込んでいるという。ということは、すなわち起因者は300万人の復讐者から狙われているということになる。いやいや考えるだけで背筋の寒くなる思いがする。
 こうした荒っぽい気質の一方で、人命尊重への配慮も人一倍強い。「メールマステイアー(客人歓待)」や「ヌナワーテー(避難)」などがそうで、これは遠来の客を暖かくもてなすというものである。山岳辺境の地だからこそ、そこをはるばる訪れた者や困っている者を労ろうとするものであろう。そしてこうした風習は復讐に優先するというから面白い。保護を求めて逃げ込んで来た者がたとえ自分の仇であっても、それを保護するのが義務であり、美徳とされている。関ヶ原の合戦前、石田三成が宿敵徳川家康のいる伏見城に飛び込んだ出来事を想像すればよいのかもしれない。パシュトウヌワレイについては、触れれば切りがないのでここらでやめておこう。

ソファラストゥーパのそばの鉄道線路

カラシニコフ銃を携帯するパシュトゥンの護衛兵
 カイバル峠観光の帰り道、カブール川の川幅が最も狭くなっている川床にテトラポット状のコンクリートが敷かれているのを見た。ガイドのJ氏によると「これはソ連の戦車を侵入阻止するために築かれたもの」だそうだ。J氏は続けて、「パキスタンの人たちはインドともアフガニスタンの人たちとも仲がいいんです。ただ国同士の仲が悪いのです。だけどもっと悪いのはロシアやアメリカです。」と真剣な眼で語っていた。大国と称する国々は戦地を絶対に自国に置かず、大義名分をかざしては他国の領地内で戦闘を行うが、犠牲になるのはいつもそこに暮らす住民である。ここカイバル峠に住むパシュトゥン人は、自分たちをアフガニスタン国民ともパキスタン国民とも思ってはいない。強いて定義づけるならば、「国境を持たない部族制を強く意識した血縁集団」とでも呼ぶべきかもしれない。そうした彼等が国家をつくるとすれば、それは「パシュトウニスタン」と称すべきものに違いない。これについては、長年パキスタンとアフガニスタンで現地医療に取り組んでいる日本人医師の中村哲氏が書かれた『アフガニスタンの診療所から』に次のように述べられているのが印象的である。
  パシュトゥンの一体感ということで生き生きと思い出される滞在中の出来事は、「辺境のガンジー」と称せられた反英運動の闘士、アブドウル・ガッファール・カーンの死(1987年没・99歳)である。彼の生きざまは「非常にパシュトゥン的」で、パシュトゥンにはこのような強烈かつ剛直な個性の持ち主が多い。
 彼は最後までマハトマ・ガンジーの国民会議派を支持して、パキスタン構想に反対しつづけ、「パシュトゥニスタン(パシュトゥン人の国)」の分離独立を主張した現地の英雄である。ガンジーの非暴力・不服従を奉じて「赤シャツ隊」をひきい、英国官憲の弾丸の雨をものともせず、同志の屍をこえて敢然と行進する様は敵をふるえあがらせた。英国人の中には発狂する者もでたという。
 彼はペシャワールの近郊のチャルサダの出身者であったが、「パキスタン国家」を認めず、一生の大半を牢獄で暮らし、「死んでもパキスタンには葬るな」との遺言をのこして死んだ。これを尊重して遺体はアフガニスタン側のジャララバードというところで埋葬された。当時、アフガニスタン政府軍とムジャヘディン(イスラムの戦士)・ゲリラは文字どおり死闘を展開していたにもかかわらず、戦闘が完全に停止して、北西辺境州の住民ばかりか、相争うアフガン人戦闘員もともにこの老闘士に最敬礼をささげた。
 1987年3月、私はペシャワールでは珍しく雨の降るなか、カイバル峠をこえてつづく荘重な葬列に居合わせた。その時沿道の人垣のなかで、あるパシュトゥンの退役軍人がさけんだことばが今でも耳に残っている。
「なんで我われがおたがいに殺し合わねばならないんだ。コサックとカウボーイどもを直接シベリアで戦わせろ!」

 こうして見てくると、カイバル峠の道は紀元前4世紀のアレキサンダー大王の軍団の侵攻から今日までの2000年以上ずっと「戦争の道」だったように思える。しかし、カイバル峠は「文化交流の道」であったことも事実である。21世紀にはこの峠道が真の「平和の道」となり、「文化交流の道」として再び蘇ることを願わずにはいられない。来世紀に生きる人類は、平和のための手段として昔ながらの戦争という短絡的な発想から脱却して、もっと他の賢明な方法を考え出してもいいのではないか。カイバル峠のパシュトゥン人の暮らしを垣間見て、それをつくづく考えさせられた。
(2000・1・15記)
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