シルクロード紀行
ラピス・ラズリに夢を托して
  ※本文は1999年10月に認めたものであることを予めお断りしておきます。
 パキスタン西北部の州は文字どおり北西辺境州と称されている。その辺境のなかでも最も西北に位置するチトラルは、アフガニスタンから北東に連なるヒンドゥークシュ山脈の山懐(やまふところ)に抱かれ、古来中央アジアや西アジアからの影響を強く受けてきた町である。1999年9月、ガンダーラ地方の仏教遺跡を見学の折り、足を延ばしてこの町を訪れてみた。ガンダーラの都ペシャワールから距離にすれば約400km、飛行機で飛べばわずか50分ほどであるが、往路は陸路を利用した。途中のディールの町までは大型バスで行くことができたが、そこから先はジープに乗り換えて5時間半ほど走り、夜遅くようやくチトラルの町に辿り着くほど過酷な道のりであった。
 チトラルでの滞在を終え、復路は飛行機を利用することにした。私たちが搭乗する9月9日の朝は雲も風もなく、チトラルの北にそびえる白雪を頂いた7700mの山チリチミールもくっきりと朝日に輝いており、絶好の飛行日和といえた。空港はチトラル川のそばにつくられているが、滑走路の一方に山壁が立ちはだかっているため、飛行機はもう一方の川側に向かって離着陸することとなる。機種は44人乗りのプロペラ機で、ペシャワールからの折り返し便である。有視界飛行のため雲と風による影響が大きく、運航は午前中に限られている。そのため気象の状況によっては欠航となることが多く、その確率は50%と言われている。
 私たちはホテルで朝食をすまし、飛行機がペシャワールを出発したことを確認してから空港へ向かうつもりで準備をしていた。ところが朝6時に出発予定の飛行機がまだペシャワール空港を飛び立っていないという。理由は機体のトラブルによるためらしい。


パキスタン西北部の地図
(出典:社会科新高等地図・東京書籍より)
 ガイドが空港へ連絡をとるたびに、「只今整備中なのであと30分」「あと15分」「もう少し」と応答され、結局午前10時、本日は欠航と決まった。欠航となればあとは陸路を再びジープで行くしかない。往路のあの苦しさが思い出され少々憂鬱な気分となってくる。それをふっ切るため、チリチミールを眺めようと外へ出た。そして壮麗な雪山を見ているうちにある考えがふと思い浮かんだ。「今からジープで出発してもペシャワールへ着くのは午前0時過ぎになるだろう。しかも車で疲れきっていても翌朝9時には体に鞭打ってペシャワールの観光に出かけなければならない。そんな苦労をするよりは、明朝の飛行機を利用すれば同じ9時にはペシャワールに着くはずである。今日の陸路でも明日の空路でも今後のスケジュールにさほど変更はないではないか。だったら何も無理をして今日ペシャワールに出発することはない。明日飛行機が飛んでくることをひたすら信じればよいのである。確率はフィフティ・フィフティ。今日飛ばなかったのだから明日は絶対に飛ぶはずである。そうと決まればこの静かなチトラルの町に期せずしてもう1泊滞在することができる。時間はまだ午前10時過ぎだ。となればあの美しいチリチミールに向かってジープを走らせるのも可能ではないか。」そう思うと矢も楯もたまらず添乗員とガイドに相談した。するとガイドが、「チリチミールとは方向が少しずれるけど、チトラルから北西に45km行ったところにガラム・チャシュマというところがあり、そこは温泉が湧いています。」という。そうとわかれば善は急げ即決行となり、ディールまで帰るために待機させていたジープは、急遽ガラム・チャシュマ行きに変更となった。

チトラル周辺図
(出典:地球の歩き方・西安とシルクロードより)



チリチミール山


九十九折りの難所・ロワライ峠

飛行機から見るヒンドゥークシュの山峡
 チトラル川沿いを上流に向かって行く道は、草木がまばらな灰褐色の地肌の岩山である。今にも大きな岩が崩れ落ちてきそうな崖っぷちと未舗装のデコボコ道を私たちのジープは土煙りをあげて飛ばして行く。腹(はらわた)の皮が捩れ返るとはこのことをいうのか、まさに進むも地獄、崖下の川に落ちるも地獄のサバイバルレースさながらの過酷な体験となった。
 こうした悪路を2時間余り、ようやくガラム・チャシュマに到着した。ガラムは熱い、チャシュマは泉という意味だそうである。温泉は宿泊や食事のできるレストハウスで、早速男性陣は温泉へと向かった。温泉は5×15mほどのコンクリートのプールのようなつくりになっていて、日本の岩間に湧き出る露天風呂のイメージとは大きく異なっていた。浴槽というかプールは手前が3段の階段状になっており、あとは約2mほどの深みが広がっている。私は恥ずかしながらカナズチなので、入ると溺れてしまうので手と足で湯をチャプチャプかき混ぜることしかできなかった。


ヒンドゥークシュの山懐

ガラム・チャシュマの温泉


ガラム・チャシュマのメインストリート
 温度は37度前後で、底に緑の藻のようなものが沈み、その幾つかが表面を漂っている、お世辞にもきれいとは言い難いものであったが、ほかの大方の男性陣はさすがシルクロードを旅する猛者だけあって、頓着もせず素っ裸になって湯に入っていった。湯のきれい汚いはともかく、背にヒンドゥークシュの山並みが迫り、前に滝の流れ落ちる情景が真っ青な空に溶け込んでいる、まさに時空を忘れさせる佳境の世界であった。男性陣が入り終わり、今度は女性陣が入ろうとしたとき、思いもかけずフランス人のグループがやってきた。こんなガイドブックにも載ってないようなところにやって来るのは我々ぐらいではなかったのかと感心もし呆れもした。日本とヨーロッパとの入浴習慣や入浴方法の違いから、トラブルを避けるためにもひとまず女性陣の入浴は後回しにして、そのかわりバザールと称する通りを歩いてみることにした。バザールと言ってもペシャワールやラホールなど大きな都市のものとは違って、道の両側に掘立柱風の建物が100mあるかないかの範囲で立ち並んでいるだけである。そこでは日常品の石鹸や洗剤、荒物、衣類などが主として売られている。人はそこそこにいるが大声で話す人がなく、シンと静まりかえったゴーストタウンのようである。しかし、それは決して不快なものではない。この時間が止まったような静けさは今も私の心に深く残っている。

雑貨屋の店先
 さて、この道をさらに西に進めば約100kmでアフガニスタンとの国境ドラー峠に達する。そのためこのガラム・チャシュマにはアフガニスタンからの難民が多く移り住んでいる。私はそうしたアフガン人、正確に言えばパシュトゥン族(パターン人)が商う店先を一軒一軒見てまわった。それには一つの期待があったからである。アフガニスタンとの国境に近く、かつアフガニスタンへの道が通じているとすれば、ひょっとしたらラピス・ラズリがあるのではないかと思ったのである。するとやはり予期したとおり二軒の店で店先に並べられていた。
 それは土埃まみれのガラスケースの中に入っていた。一軒の方のはあまり質が良いとは思われなかったので、もう一軒の店の方に行き、そのガラスケースの前にしゃがみ込んだ。ケースの中の皿の上に5cm立方ほどの原石とそれよりもう少し小さな塊と20片近い破片がのせられていた。早速ガイドを通しての値段交渉である。「このラピス・ラズリの原石はいくら?」「500グラムで2500ルピー(日本円で5000円相当)だ。」「全部はいらない。この大きな塊だけがほしい。それだけだといくら?」「それだけを売るとあとが売りものにならない、だからそれ1個だけでは売れない。もしそれだけなら2000ルピーだ。」「それなら全部買っても同じことだから全部買うよ。」とざっとこんなやりとりがあって交渉は成立した。普通なら土産物の値切り交渉はバザールでの楽しみの一つであるが、ここではちょっと様子がちがう。ガイドも「ここで観光客相手の阿漕な商売をやっているとは思えない。2500ルピーは妥当な値段だと思うよ。」との進言もあり、交渉は早々に打ち切り、結局2400ルピーで買うことにした。

ラピス・ラズリの売買交渉


ラピス・ラズリの原石
 ところでこのラピス・ラズリであるが、その品質と歴史などについて少し触れておこう。
 宝石には大別して宝石と貴石とがある。宝石は硬度7以上で、色彩が美しく、光沢の強いものをさす。一方貴石は硬度7未満で、色彩・光沢ともにそれに準ずるものをさす。ラピス・ラズリは硬度5〜5.5であるから貴石に属する。古来中国では青金石とか金星石とか呼ばれている。それは黄金色の黄鉄鉱の粒子を常に含んでいて、石の表面を磨くとその粒子がピカピカと夜空の星の如くに光輝くからである。色は極めて深く濃い青で、英語ではウルトラマリーン、漢字では群青という語で表わされている。群青色というのはラピス・ラズリ以外には他のどんな物質を使ってもどうしても出せず、そのためラピス・ラズリが群青色の顔料として古代から珍重されていた。
 あの有名な敦煌壁画の飛天が舞う天上の青を描くために用いられたのもこのラピス・ラズリを原料としていた。だが1820年代にフランスで人工的にウルトラマリーンを作り出すことに成功してからは、ラピス・ラズリの顔料としての価値は下落した。一方、それよりずっと古いオリエント世界に目をやれば、紀元前3000年頃のエジプト第一王朝のデゥエル王妃墓や紀元前1350年頃のツタンカーメン王墓から夥しい数のラピス・ラズリの装身具が発見されたし、紀元前3000年紀のメソポタミアのシュメール王朝のシュプ・アト女王墓で発見された黄金製ネックレスにもラピス・ラズリが散りばめられていた。このほかインダス文明のモヘンジョ・ダロの遺跡からも出土しているし、中国漢代の調度品や日本の正倉院宝物の紺玉帯などにもラピス・ラズリが見られる。
 このラピス・ラズリがエジプトやメソポタミア、またインドや中国で出土したものであればそう騒ぐものではない。しかし異論はあるかもしれないが、ラピス・ラズリはそうした地域からは全く産出されないのである。では産出地はどこなのかといえば、これがアフガニスタンの北東部バダフシャン地方なのである。それはヒンドゥークシュ山脈の北部、アム・ダリアの上流域のコクチャ川沿いにある鉱山だとされている。なかでもサル・イ・サング鉱山が有名で、一説では現在ではここだけが採掘中であるという。金子民雄氏の著書に『アフガンの光と影』(北宋社刊)があるが、そのなかの「群青の誘惑ーラピス・ラズリ」の部分を要約すると次のようである。「かつてラピス・ラズリはアフガニスタン政府が管理し、需要と供給のバランスをとっていたが、旧ソ連軍の侵攻以後どうなったのかはわからない。ある目撃者の話では、ソ連軍がアフガニスタンの鉱工業省の地下室からラピス・ラズリの原石を盗み出しているのを見たという。その量は250トン、当時の価格で6千万ドル(130億円)に上るとされる。このニュースが伝えられた後、しばらくしてヨーロッパの市場にラピス・ラズリがあふれたことがあったが、これは明らかに旧ソ連が西側に売却したものである。だが、それもやがて姿を消してしまい、ラピス・ラズリについては、今日のアフガニスタンの情勢からは全く不明である。」
 こうした現状のなかで私はラピス・ラズリの原石を、ここガラム・チャシュマでアフガン人から手に入れることができた。ガラム・チャシュマの道を西に進み、ドラー峠を越えてアフガニスタンに入れば、その先はバダフシャン地方である。私のラピス・ラズリがどのような手で交易の対象物になったのかはわからないが、少なくともバダフシャンの鉱山から採掘されたものには間違いないようである。

 ラピス・ラズリの考古学的研究については、1966年以降、イタリア調査団がアフガニスタン国境に近い、イランの南東部のシャフリ・ソフタの遺跡で発掘調査を行い、そこからラピス・ラズリの原石片とそれの加工工具が数多く発見されたことによって、ここがラピス・ラズリの一大加工場であることがわかった。そしてさらに南西のテペ・ヤフヤーでも同じような成果が上がっている。これらはイラン南道上にあり、いわゆるシルクロードに位置する町である。こうした点をつないでいくと、「ラピス・ラズリの道」が見えてくる。また、ここ数年アラビア半島のペルシャ湾沿いの海上ルートが注目されている。それはどうやらテペ・ヤフヤーからの南下ルートとどうやら結ばれるようなのである。
 このように「ラピス・ラズリの道」についてはなお未知の部分は多いが、それはシルクロードにおける大変興味深いテーマの一つである。ガラム・チャシュマで入手したラピス・ラズリの原石が「ラピス・ラズリの道」探究の励みになればと思っている。
 私はガラム・チャシュマからの帰り道、揺れるジープの中でビニール袋に入れられたラピス・ラズリを見つめながら、その青色とも紺色とも藍色とも紫色とも形容し難い、いわゆるウルトラマリーンの怪しい輝きに魅惑され続けていた。そのとき丁度夕暮れ迫るヒンドゥークシュ山脈の断崖の下を、アフガニスタンから羊の群れをひき連れて歩く牧人たちに出会った。
彼らは夜はテントで野営し、これからチトラル、ペシャワール、ラワルピンディ、ラホール、カラチとパキスタン国内を彼らの連れた羊を売りながら南に下っていくのだそうだ。それは古代から連綿と続くまさしくシルクロードの暮らしそのものであった。彼らと羊の群れが夕闇の中に消えていく水墨画のような光景はなんとも言い表し難い幻想的なものであった。

羊の群れを追う牧人
 この牧人たちの姿は、かつて私たちが先祖から受け継いできた情景そのものではないか。ただ現代の情報と物資の氾濫するなかで私たちはそれを忘れていただけなのだということに気が付いた。私はこれまでシルクロードに憧れ、いくつかの国や都市を訪れてきた。だがその反面、またいつかはヨーロッパも訪れてみたいと思っていた。しかし、今ははっきりと言える。私の中に文明国と称するヨーロッパの景色はいらない。自分のイメージや能力をはるかに超えた情景の展開するシルクロードの景色があれば十分である……と。 
 最後にもう一度、前述の著書のなかから金子民雄氏の言葉を引用して終わりとしたい。
 「北アフガニスタンの荒れた山地から掘り出されるこの青い貴石は、古来、多くの人々の心を魅了してきた。これからもこの石に夢を托す人も少なくないであろう。いまこの青い石の一片を手にとると、忘れていた遠いヒンズー・クシュ山脈の青い山並みや、深い渓谷を流れるせせらぎの音に混って、誘惑はつのるのである。」
(1999・10・11記)
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