シルクロード紀行
馬家窯遺跡の上に立って
 ※本文は1996年に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。
 スウェーデンの地質・考古学者J・G・アンダーソン博士が彩文土器(中国では彩陶と称する)のルーツを求めて中国の甘粛省・青海省へ出かけたのは、1923年のことであった。博士は北京から西安の手前までは鉄道を使い、そこから先はゴトゴトと荷馬車に揺られての旅であった。それから四半世紀後、私たちはマイクロバスでアンダーソンの足跡の一つ、洮河流域にある馬家窯(ばかよう)遺跡を訪ねることとした。

甘粛省洮河の位置図
(「大黄河4」日本放送出版協会より)

      甘粛省の大黄土地帯
   

耕して天に到る麦畑


洮河流域の遺跡分布図
(「黄河・シルクロードの考古学」・雄山閣より)
   
 甘粛省天水の町のポプラと桐の並木道を抜けると大黄土地帯に入る。土ぼこりの舞うデコボコ道と九十九折りの峠をいくつも越える。麦畑の緑が耕して天に至るかのように続くなかをマイクロバスは走る。遠くに古代の烽火台跡を望んでいると、やがて、黄土高原の大パノラマが目の前に広がる。

         洮河の上流

 バスに乗って7時間、岷山山脈の分水嶺を越え、黄河の支流である洮河(とうが)の上流に出る。水は今までと異なり西に向かって流れていく。川のせせらぎは清く、遠く望む山の頂きが雪に抱かれている。この辺りは標高がかなり高いためか、麦がまだ若い。洮河に沿って約1時間下ると会川の町に出る。ここは洮河の中流域に当たる。アンダーソンは彩文土器を求め、地元民から情報を得ながらこのあたりの遺跡を探し回った。私たちも同じように土地の人に聞きながら、目的地である「馬家窯遺跡」を探した。泥と日干しレンガで造られた家々とポプラ並木をいくつも過ぎ、ごつごつの石だらけの道とは言えぬ川床を2つ渡って、ようやく念願の地に到着した。
 遺跡には「甘粛省省級文物保護単位 馬家窰遺址」の石碑と指定区域を表す標界杭が巡らされており、間違いなく、ここが積年の憧憬の地である「馬家窯遺跡」であることを示している(※現地では窯は窰と記されていた)。

馬家窯遺跡の石碑

遺跡指定区域を表わす標界杭    
 遺跡は、この一帯に広がる高さ50〜60mの馬蘭段丘と呼ばれる段丘上にあり、麓の河面から約25mの断崖上に東西方向約350mにわたって位置していた。アンダーソンは1924年にここを発掘調査し、住居址と曲線文を基調とした彩文土器を発見した。その業績は今日の中国考古学の甘粛仰韶文化編年に大きく貢献することとなった。その後、1957年の中国科学院による再調査で、紀元前3000年頃の文化層を有することが明らかになった。


洮河渓谷の段丘上にある遺跡
 その結果、現在、この遺跡から出土した彩文土器は、中国新石器文化における甘粛仰韶文化のなかの馬家窯類型として位置付いている。

馬家窯類型の彩文土器(尖底瓶)

馬家窯類型の彩文土器(罐)
   
 今、遺跡地内は小麦とじゃがいも畑になっているが、地表ではボロボロの黄土に混じって彩文土器の破片や石器などをいくつも採集することができた。

遺跡採集の彩文土器片

遺跡採集の石器
   
 約5000年前、人々は眼下に洮河を眺め、農耕牧畜と狩猟漁撈の生活を合わせ持ちながら、粘土を捏ねて形を整え、それに水草や川の流れを連想させる文様や蛙の文様などを黒と赤の顔料で描いて、壺や碗などの土器作りに精を出していた。ここはまだ身分や階級などがそれほど顕著ではない母系制社会の集落である。そして今、遺跡の上に立って周囲の景観や人々の暮らしぶりを見てみると、細かいところではもちろん変化があるものの、大きな時代の流れのなかでは今も昔も人々の生活にそれほど差異がないように思われる。連綿と土地に生き続ける人間の強かさが伝わってくるようである。現代感覚を持ちすぎた私たちが、ここに暮らす人々よりも幸せであるとは思われない。しかし、だからといって彼らの暮らしが私たちに出来るかと問われれば、これまた哀しいかな、絶対に出来ないのが現実である。
 ここは、中国考古学に携わる者にとっては有名な遺跡であるが、中国の考古学者でも訪れた者は数少ないであろう。ましてや日本人では幾人もいないに違いない。私の父である松崎寿和は、若き日の1942年にアンダーソンの著書『Children of the Yellow Earth』を翻訳し、『黄土地帯』と題して出版した。それから長年にわたりアンダーソン考古学を追い求めて中国考古学の研究に携わってきた。その父にしても1983年に蘭州から炳霊寺石窟へ向かう途中、黄河に流れ込む洮河の河口から馬家窯遺跡のあるはるか上流を見やったにすぎない。いつの日か、是非ここを訪れたいという気持ちは強くあったであろうが、実現しないまま1986年に逝ってしまった。
 そうした万感をこめて遺跡に佇んでいると、同行者の一人である冷泉元豊さんが、「写真を一緒に撮ろう」と言われた。


    冷泉元豊氏と遺跡の上に立って

        『黄土地帯』
 冷泉さんは父の高校・大学時代からの親友である。年齢は81歳を過ぎても矍鑠としておられる。並んで立っていると、父と一緒に写真を撮っているような気持ちになる。
 遺跡の上には午後遅い太陽がギラギラと照りつけ、少し遠くの段丘下には現在の洮河、そして、はるかに黄褐色の黄土高原が広がる。ただそれだけのところであった。しかし、それ以上のものは何も必要なかった。


      遺跡の近くで暮らす人々

     遺跡から遥か洮河を望む

 中国の名のある名勝地は、今やどこも急速に必要以上に整備されつつある。だが、ここは恐らくこれからも変わらないままであろう。それを信じつつ、名残り尽きない「馬家窯遺跡」をあとにした。
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