シルクロード紀行
ホータンの玉を求めて
 ※本文は2004年7月に認めたものです。
 ホータンは、中国新疆ウイグル自治区に大きく横たわるタクラマカン沙漠と、その南を東西に延びる崑崙山脈とに挟まれたシルクロード上のオアシス都市である。市街地を貫いて走る道は西域南道と称されている。そのホータン市内の東側にはユルンカシュ(白玉河)、西側にはカラカシュ(墨玉河)が流れており、そこは古くから玉の産地として知られている。
 古来、万山の祖として古代の人々から崇められてきた崑崙山から玉を採掘する歴史は古い。『史記』大宛列伝には「その山には玉が多く…山を崑崙と名づけた」、『漢書』西域伝には「于テン(ホータン)国は…玉石を多く産する」などと記されている。このことから漢代には既に崑崙山で玉石が採掘されていたことがわかる。また、中国の文献を見ると、古代中国で珍重された玉はすべてと言ってよいほどホータンからもたらされたものと記されている。そしてさらに、20世紀に入ってからの考古学調査で発見された古代の玉器のほとんどは、ホータン産の玉であるとされている。例えば、殷墟(河南省安陽市)における殷王・武丁の妻である婦好の墓から出土した玉器も、河北省西部の漢の武帝の庶兄である中山国王・劉勝のいわゆる「金縷玉衣」に見られる2498枚の玉板もホータン産の玉とされている。とりわけ殷墟出土のものが事実だとすれば、中国中原地域と西域の間には漢代の張騫の西域遠征がきっかけとなったとされるシルクロード即ち「絹の道」の開通よりも遥かに古く、3千数百年前から「玉の道」が存在していたことになる。この「玉の道」は、ホータンを中心に東はタクラマカン沙漠から河西回廊或いはその北のステップルートに沿って中原地域につながり、西はイラクつまりかつてのメソポタミアのバクダッド付近までつながっていた。これは中華文明の誕生と発展、東西文化交流などを考えるうえで大きな鍵となるものである。    
ホータン周辺の地図
(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)


ホータンの位置図
 しかし、昨今、こうした「玉の道」の存在を疑うわけではないが、従来の鑑定方法と化学分析だけで果たしてすべてをホータン或いは崑崙の玉と断定してもよいのかという動きが生じた。そして、それをより科学的に分析・鑑定しようという気運が中国国内で高まった。その結果、2002年5月、「玉の道科学調査隊」が発足した。目的は新疆地区における玉の産地で玉のサンプルをできるだけ多く収集するとともに、古代の採鉱地と交易路を調査によって明らかにすることにより、「古代ホータン玉鑑定基準データバンク」を構築し、出土した古代玉器の材料の産地について正確かつ科学的な分析を行うことにあった。こうした方法は、アメリカのNASAを中心とした宇宙科学上の研究が契機となったものであろう。

 ところで、ホータンの玉は地学的には、マグネシウム質の大理岩と中間酸性のマグマの接触交代により形成された軟玉鉱と言われている。接触交代とは堆積岩と火山岩の接触地帯に侵入したマグマが高熱により水溶液に変質するもので、その後、軟玉として形成されたものである。

墨玉河

白玉河
 したがって、玉といえば新潟県の姫川で採れる翡翠がそうであるように、碧玉としての硬玉が一般的であるが、ホータンの玉は軟玉として、世界的に珍奇なものである。だからこそ、ホータンの玉には優美かつ柔和さが感じられるのである。品種には白玉、黄玉、青玉、墨玉、紅玉、紫玉などがあり、とりわけ白玉のなかの羊脂玉は、羊の脂のように白く艶があり、玉の中では最高品とされている。
 ホータンの玉は産出の状況によって山料(さんりょう)、山流水(さんりゅうすい)、子玉(しぎょく)に分類される。山料は山中の鉱床にある鉱石のことであり、それが水によって運ばれたものが山流水と子玉である。山流水は川の上流にあってまだ角の残る状態のものをいい、子玉は川の中・下流まで流れついて、丸く磨かれた状態のものをいう。したがって、自然の加工によって磨かれ、艶のある軟らかい美しさをもつ子玉に人気が高く、高級品も多い。しかし、大きな原石である山料を求めて山に入る人も古くから多くあった。山での採取は、川よりもはるかに難しい。なぜなら、険しい道を登り、雪を頂く崑崙山中に分け入り、それを持ち帰らなければならなかったからである。また、気温は低く、酸素も希薄となる。古代の『太平御覧』はその困難さを次のように記している。「三江五湖を越え、崑崙山に至る。千人往きて百人返り、百人往きて十人返る」と。中国の人々にとっては、そうした危険をおかしてでも得たいほど玉の魅力は大きかったのである。
 こうした机上での知識とホータン現地での実態がどれほどのものかを確かめたくて、6月下旬、敦煌から崑崙山脈の東の支脈であるアルティン山脈を越えてホータンまで足をのばしてきた。ホータンでは市内を流れるユルンカシュ(白玉河)とカラカシュ(墨玉河)の河床で心ゆくまで時を過ごすことができた。
両河には雪解け水がすでに流れ始めているのか、川筋をいくつか作り出している。しかし、本格的な雪解け水の到来はまだ先のようだ。河原は崑崙山脈から流れ込んできた積年の石でびっしりと敷き詰められ、それはまるで人工的にきちんと積み重ねられたかのようである。

アルティン山麓で出会った玉採取の労働者

それでも水の中に手をやって玉らしい石を拾い上げることができた。白色と黄色の二つを選び、近くにいた地元の老人に鑑定してもらったところ、それは水玉(すいぎょく)だという。

       墨玉河で採取の玉石

私たちが玉石を探していると、どこからともなく子どもたちが寄ってきて、玉石を買えと、持っている玉石を差し出してくる。いくら探しても玉は見つけ出せないと思い、少年から40元(約600円)で小さな青白玉を買って、日本へのお土産とした。


       墨玉河で採取の水玉

 今、私の部屋にはアルティン山脈の麓近くで出会った玉石工場に働く人からもらった玉石や少年から買った玉石が、白玉河と墨玉河で採集した石などとともにケースに納められている。

アルティン山脈の蛇紋石

 私は早速水際を選んで子玉を探す。ほとんどがただの石であり、そのなかから玉石を探し出すのは極めて難しい。ましてや、いたるところに土地のプロの採集者がいるなかでである。            .

墨玉河での玉探し

 石ではないが、玉に至る過程のもので、価値がないわけではなく、山で採れる山玉(さんぎょく)よりもいいものだそうだ。童心に帰って水辺でしばらく石と戯れていたが、成果はそれだけであった。


墨玉河で子供から買った青白玉


白玉河での玉探し

白玉河で採取の玉石    
 このたび、現地を訪れて実感したのは、ホータンが白玉河と墨玉河とが崑崙山から流れ出て形成された大扇状地にあり、玉の採取にとって最適の場所にあることであった。したがって、中国の歴代王朝が使用した上質のホータンの玉は、すべてここで採取されたものであるとされたのも充分に頷けるように思われる。長い歴史のなかで、ホータンの玉は特別な存在となり、中国は玉文化を主体とする時代に入った。その後、玉はさらに儒家思想のなかで「徳」の意味付けがなされ、中国の伝統文化を育む重要なものとなっていった。伝説のうえでは、崑崙山は中華民族の祖先である黄帝の住む場所で、そこには帝王や神仙が食する宝玉などがあるという。こうした伝説の誕生と中国の基層文化などを考えるうえでも、崑崙山が古来玉の産出地であったことは無視できないものと思われる。

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