シルクロード紀行
ミーラン遺跡の有翼天子像と砂時計
 ※本文は2004年10月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。

 2004年6月下旬、中国西域南道の仏教遺跡跡の一つであるミーラン(米蘭)遺跡を訪れた。ミーラン遺跡は、1907(明治40)年、イギリスの探検家オーレル・スタインが発見して有名になったところである。この遺跡を訪れたいと思った大きな理由の一つは、ここで発見された「有翼天子像」の描かれていた第3仏塔と称される寺址を、実際に自分の目で確かめたかったからである。
 中国新疆ウイグル自治区のタクラマカン沙漠の東南端にあり、かつ、アルティン(阿爾金)山脈の北麓に位置するチャルクリク(若羌)は、西域南道沿いに点在するオアシス都市の一つである。また、北の天山南路の都市コルラ(庫爾勒)からタクラマカン沙漠の縁に沿って弧を描くように走る国道が合流する中継地点でもある。そのチャルクリクから東に90キロに行ったところにミーラン遺跡がある。

ミーラン遺跡位置図
(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)

ミーラン遺跡
 ミーランはローラン(楼蘭)、ニヤ(尼雅)と並ぶ新疆の三大遺跡に挙げられる重要な遺跡である。ただ、ローランとニヤの遺跡を訪れるにはラクダや沙漠車を必要とする。そのため多大な経費と日数を要するが、ミーランは現在の国道から比較的近いところに位置し、四輪駆動車でチャルクリクから約2時間で行くことができる。したがって、ローラン遺跡、ニヤ遺跡に比べればずっと容易に訪れることができる。そんなわけで、いつの日かミーランの地に立ちたい、それが私の長い間の念願であった。そして、その夢が本当に叶ったのである。
 ミーラン遺跡の見学では、敦煌からの遺跡案内役であるホータン(和田)博物館の研究員とホータンの大学で数学の教師をしている日本語のガイドのほかに、現地からは若羌研究所のスタッフが一人インスペクターとして同行し、さらに遺跡管理人のでウイグル人の男が加わるというなんとも物々しいものとなった。ちなみに昨年はSARSの影響からこの遺跡を訪れた外国人はなく、今年も私たちが初めてということだそうである。

ミーラン遺跡第3仏塔
 さて、いよいよミーラン遺跡である。入口に遮断機状のゲートがあり、そこから目の前に広がる沙漠一面が遺跡である。先ず仏塔の並ぶ寺址、次に役所跡とされている吐番(チベット)時代の城砦址と寺址、最後に鍛冶炉跡の順に見てまわった。そして、それらはそれぞれが離れているため、移動は車で行うほど広大なものであった。

ミーラン遺跡第3仏塔の基壇部
 ミーラン遺跡は、かつてスタインが敦煌に行く途中、地元民の情報を得て、たまたま立ち寄ったとき発見したものである。彼はここで14の寺址と1つの城砦址を発掘調査した。ちなみにこの地域一帯は、古く楼蘭国の領域だったと考えられている。そうした遺跡のなかで最も興味深いのは、なんと言っても最初に訪れた寺址である。そこには第3・第4・第5の3基の仏塔が並んでいるが、第4仏塔はほとんど残存していない。だが、第3と第5の2基は仏塔の形状を留めつつ、沙上にぽつんぽつんと並んで立っている。2基とも方形の基壇の上に円塔がのっているが、第3仏塔よりもやや大きい第5仏塔の方が崩壊が著しい。
 しかし、意外だったのは、いずれの仏塔も円塔の周囲を取り巻く回廊部分が土で埋められていたことである。仏塔は発見されてから長い間そのままの状態だったことから、現状以上の風食による崩壊を守るためなのであろうが、その周壁内側の腰張り部分を見ることを楽しみに来ただけに、いささか拍子抜けする思いであった。
 とは言え、この場に立つことができたことはなによりも嬉しかった。とりわけ私にとっては第3仏塔への思い入れが強かった。


スタイン調査の第3仏塔

スタイン調査の第3仏塔遺構
 この第3仏塔は、スタインがギリシアの愛の神エロスを思わせる有翼天子像の壁画を発見したところである。そのときの衝撃をスタインは、「発掘が床面およそ1.2mのところに達して、翼のある天使を繊細に描いた腰羽目が壁面に現われてきたときには、さすがに不意を打たれてぼうぜんとしてしまった。内陸アジアの奥地にあるロプ・ノールの荒涼たる岸辺で、このようなギリシア・ローマふうのケルビム(9階級のうちの第2階級に位する天使。翼をもち、童顔であらわす。)の絵に出会おうとは、どうして予想できたであろう!」(澤崎順之助訳『中央アジア踏査記』白水社刊)と記している。天子たちの大きく際立った目鼻立ち、赤い唇などはまさにグレコ・ローマ的容姿であるが、前髪を剃り残している髪型はなんとも東洋的である。
スタインはこの有翼天子像の壁画を剥ぎ取ろうとしたが、敦煌へ急がねばならず、時間がなかったので再度訪れることを期して、慎重に砂や瓦礫で埋め戻して立ち去った。
 ところが、それから7年後にスタインが来てみると、「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。南の半円の部分にある通廊の床に、壁画の描かれていた漆喰がこなごなに砕けて散っているのを見ても、遺憾ながらそれは歴然としていた」(前掲書)状態であった。この若い日本の旅行者とは、第3次大谷探検隊の隊員の一人であった橘瑞超のことである。1911年にスタインの情報を得た橘瑞超はここを訪れ、壁画の剥ぎ取りを試みたがうまくいかず、一部を砕いてしまったのである。しかし、なんとか剥ぎ取ることのできた有翼天子像の一部は、現在東京国立博物館に納められている。

スタイン採取の有翼天子像
(インド国立博物館蔵)
また、残った有翼天子像はスタインによってインドに運び去られ、現在インド国立博物館に保管されている。私は、この有翼天子像のあった仏塔に立って、しばらくの間瞑想に耽る至福の時を味わうことができた。そこでの幻想をより具体的に示してくれる作品があるので紹介しておこう。
 それは、この有翼天子像をモチーフにした宮沢賢治の作品である。賢治と言えば、誰もが「雨ニモマケズ」の詩を思い浮かべるであろうが、彼の作品のなかには西域を扱ったものが意外と多い。それだけ賢治は西域に強い憧れを抱き、スタインや橘瑞超らの行動と業績に強い関心を示していたことが窺われる。

橘瑞超採取の有翼天子像
(東京国立博物館蔵)
 その彼の短篇小説のなかに『雁の童子』という作品がある。内容は西域のオアシスの泉のそばの沙中から翼のある童子の描かれた壁画が掘り出されたことから、その童子の前世の由来を、巡礼の老人が語って聞かせるものである。文中のいくつかを抜粋してみよう。

 「雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのやうなのです。この地方にこのごろ降りられました天童子だといふのです。このお堂はこのごろ流沙の向ふ側にも、あちこち建って居ります。」

 「いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変って居りました。赤い焔に包まれて、嘆き叫んで手足をもだえ、落ちて参る五人、それからしまひに只一人、完(まった)いものは可愛らしい天の子供でございました。」

 「雁の子、雁の子雁童子、………雁のすてご、雁のすてご、春になってもまだ居るか。」

 「ちゃうどそのころ沙車(さしゃ、註:正しくは莎車)の町はづれの砂の中から、古い沙車大寺のあとが掘り出されたとのことでございました。一つの壁がまだそのまゝで見附けられ、そこには三人の天童子が描かれ、ことにその一人はまるで生きたやうだとみんなが評判しましたさうです。」
 「そしてお二人は町の広場を通り抜けて、だんだん郊外に来られました。沙がずうっとひろがって居りました。その砂が一ところ深く掘られて、沢山の人がその中に立ってございました。お二人も下りて行かれたのです。そこに古い一つの壁がありました。色はあせてはいましたが、三人の天の童子たちがかいてございました。須利耶(すりや)さまは思はずどきっとなりました。何か大きな重いものが、遠くの空からばったりかぶさったやうに思はれましたのです。」

 「須利耶さまは童子をふりかへりました。そしたら童子はなんだかわらったまゝ、倒れかかっていられました。須利耶さまは愕(おど)ろいて急いで抱き留められました。童子はお父さんの腕の中で夢のやうにつぶやかれました。(おぢいさんがお迎ひをよこしたのです。)」


宮沢賢治
 こうして童子は須利耶の腕に抱かれながら眠り、魂は天に帰って行くという内容である。
 賢治は、有翼天子像の壁画の出土地をミーランのさらに西の莎車(ヤールカンド)と誤解していた点はあるものの、現地を実際に訪れることもなく、これを書き上げた。西域独特の風土や自然環境を作品のなかに包み込む想像力と感性は驚嘆に値するとともに、その情景描写には共感するばかりである。そのミーランの流沙に舞い降りた有翼天子が眠るのは、インドや東京の博物館ではなく、やはりこの荒涼とした遺跡の仏塔の下が最もふさわしいように思われる。

ミーラン遺跡の砂で作った砂時計
 こうした強烈な感動をなんらかの形で残しておきたい、そこで、ミーラン遺跡の砂を少しビニール袋に入れて日本に持ち帰り、3分計の砂時計にしてもらった。今、この砂時計は書斎の机の上に置かれている。ガラスのなかの砂はシルクロードを流れる悠久の時を感じさせてくれ、そして、ガラス管を落下する砂の動きは有翼天子が描かれた仏塔のそばを走る砂の流れを蘇らせてくれる。1日1回砂時計をひっくり返しては、それを実感し、確認している毎日である。
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