シルクロード紀行
カザフ族のゲルで搾乳の起源を考える
 ※本文は2000年10月に認めたものに一部修正を加えたものであることを予めお断りしておきます。

 2000年8月、中国西域のジュンガル盆地を越えて、カザフスタン、ロシア、モンゴルとの国境をなすアルタイ山脈の奥深くまで出かけた。アルタイ山脈は、天山山脈やカラコルム山脈の峻険な様相とは違って、全体的になだらかな稜線の続く山脈を形成している。そして、その山腹から南麓にかけては草原地帯が広がっている。

中国新疆ウイグル自治区ジュンガル盆地周辺図
(「地球の歩き方」ダイヤモンド社より)

アルタイ山脈

 私たちは新彊ウイグル自治区の首都ウルムチから770km、マイクロバスで日中12時間をかけて走り、アルタイ山脈の南麓の都市アルタイ(阿勒泰)へ着いた。                      .
 アルタイでは、近郊の草原に眠る6〜7世紀頃に活躍した遊牧騎馬民族である突厥族の墓のそばに立つ石人像や先史時代人が描いた岩刻画のある遺跡を見たあと、そこからさらに280km北方のハナス(哈納斯)湖まで出かけた。未舗装の道路の左右には半砂漠のステップが続き、牛や羊、ラクダなどの群れがところどころで草を食んでいる。行程の半分ほど行ったところであろうか、遠く山並みが見渡せる高原の中にぽつんと1つのゲル(人の住むテント)が見えてきた。私たちは澄み渡った群青色の空の下、まわりの山や草原の自然と実にマッチしたゲルのたたずまいに思わずバスを停めて、ゲルに近づいていった。

アルタイ市

突厥族の墓域に立つ石人像(アルタイ市郊外)
 ゲルには2頭の馬が繋がれ、1人の男性と若い2人の女性が暮らしていて、思わぬ来訪者に少々驚いた様子であったが、すぐに打ち解けて和やかな雰囲気となった。ゲルのすぐそばには作り付けのかまどがしつらえられ、そこでは羊の乳を入れた大鍋が火にかけられて、バターやチーズを作っているところであった。その横のムシロの上には既に出来あがって天日干しをしているヨーグルトの素といわれる豆腐状(カード状)の固まりが並べられていた。
 ゲルの住人はトルコ系のカザフ族で、目もとが細くキリッとしまった顔だちが特徴的である。彼女らが作っている乳製品は、加熱濃縮しているところからモンゴル族のいうガタースン・ウルムと呼ばれるものであろう。作り方は生乳を大鍋で火にかけてゆっくりと濃縮するもので、表面にできる乳の膜が厚くなってきたところで火を落とし、一晩静かに置いておく。すると、バター・オイルの固まった層が浮き上がってくるので、このバター・オイルを乳の厚い膜の中に包んで二つ折りにするとガタースン・ウルムの出来上がりである。彼らはこれを直接または茶に浮かべて食べている。

先史時代の岩刻画(アルタイ市郊外)

アルタイ周辺図(「新疆行」新疆人民出版社より)
 それに対して、乳を生のまま桶に入れて一両日静置しておくと、上層がクリーム、下層がスキム・ミルクに分離する。このクリームを撹拌させるとバターができ、クリームに砂糖や卵を混ぜて凍らせるとアイスクリームができる。一方、スキム・ミルクは、脂肪分は抜けているが蛋白質を多く含んでおり、これを発酵させるとチーズとなる。
ちなみに、脱脂粉乳は、スキム・ミルクを乾燥粉末化させたもので、バターの製造過程で大量に出来るスキム・ミルクの処置に困って窮余の策として産みだされたものである。このほかにもさまざまな過程からいろいろな乳製品が作り出される。

 当初、人間が動物を家畜化したのは、肉の補給並びに労役として利用されたものであり、乳を利用するものではなかった。では、なぜ人間は家畜から乳利用を獲得したのであろうか。ここでは牛を例に、搾乳について考えてみる。


アルタイ高原のカザフ族のゲル
 
カザフ族のゲルに立寄って
 メス牛が乳を出し始めるのはいつからなのか、帰国後、広島県畜産技術センターに問い合わせてみた。答えは当然のことながら分娩後ということであった。牛は出産後乳を出し始めると、その後約300日間乳を出し続ける。また、メス牛は発情が21日ごとにおこるので、そのときにオスと交尾させれば妊娠し、約280日で出産する。ちなみに、メス牛は生後16〜18か月で分娩可能となり、14〜15歳くらいまで妊娠が可能である。現在は品種改良がなされ、当初のころとなにもかも一緒に考えるわけにはいくまいが、牛の繁殖能力は実に大したものなのである。

騎馬民族の末裔カザフ族の男性
 ところで、本来、牛は自分の子どもには乳腺を開くが、それ以外のものに対しては開かないのが本能である。それを人間がなだめたりすかしたり、騙しながら約1500年から2000年かけて、家畜の乳を利用するに至ったのは紀元前5000年紀頃のことであった。起源は西アジアのいわゆる三日月地帯、なかでもカスピ海の南西部あたりではないかといわれている。その根拠はかの地で発掘された動物骨の年代測定によるものである。
 当初、人間が狩猟生活を営んでいたころは、獲得が容易な幼児の動物骨が多かった。それが家畜生活に入ると、幼児はもちろん、壮年の家畜も肥える間は基本的には殺さなくなる。しかし、高齢になると、草を浪費するだけのものとして殺されるため、そうした動物の骨が多くみられることになる。だが、乳利用が始まると、乳利用として可能な間はさらに高齢まで家畜は大事にされるようになる。こうした動物骨の年齢別出土の割合から推定されたのである。これは20世紀半ばのオリエントにおける動物考古学者の大きな研究成果といえる。

ゲルのそばのかまど

バター作りのカザフ族の女性
 では、この家畜化から乳利用に至った経過にはどんなことがあったのであろうか。
 動物は野性のときは分娩も子育ても自然の摂理、本能のままに行われていたはずである。しかし、人間が家畜化することによって状況が違ってきた。朝、餌である草を与えるために群れを草原に追いやり、夕暮れにそれを囲い柵の中に閉じ込めるようになると、出産後まもない母親と乳児とは離ればなれとなり、日暮れに柵の中に帰ってきても、実の母が子を認識できるか、たとえ認識できても群れが邪魔をして母子が近づくことができない事態が生じた。また、無事対面できても子に乳をやることを拒否する母親もでてきた。

 そこで、これらをうまく処理するために人間の介助が必要となったのである。ちなみに、よく牧童が杖を持って日がな家畜のそばにいて、彼は一体なにをしているのかと思うときがあるが、あれはどれとどれとが実の母子であるかとか、放牧中に出産が始まったらどうするかとか、いろいろなことを覚えておいたり、異常事態での対処や介助などに気を配っているのである。実際、子が実の母親のところへ近づけない場合は、抱いていって母親の乳房にあてがってやったりもした。こうして人間は家畜と接し、乳を利用するのではなく、純粋に介助・哺乳という目的でメス牛の乳房に触れることが可能となった。だから、これについては一朝一夕でない長い長い年月を要したのであった。

天日干しのヨーグルトの素

草原で放牧中の羊の群れ
(「中国阿尓泰草原文物」新疆美術撮影出版社より)
 しかし、やがて人間はその乳を自分たちに利用することを企てるようになった。牛は1〜2か月すると離乳期にさしかかる。そのときいきなりではなく、初めのうちは乳房にあてがっていたものを離し、あとの残りを人間が搾るということを始めた。だが、これも牛の乳を子から横取りして、人間が飲もうとしたものではない。乳の成分の85%は水分で、残りの15%の約3分の1ずつに蛋白質、脂肪、乳糖が含まれているが、乳糖は多糖類で、大人の人間が摂取しても、それを消化することができない。
 これが可能なのは人間では乳児だけであって、それ以後、1〜2歳を過ぎると乳糖分解酵素(ラクターゼ)は失われていく。まさに乳児だけのための栄養源なのである。それを大人がストレートに飲めば、乳糖分解酵素がないため下痢をしたり、腹痛を起こしたりすることになる。これを大人の体が消化するには乳糖を多糖類から単糖類に変えなければならない。そのためには乳を発酵させて酸乳化ないしアルコール化させる必要がある。酸乳化させたものは文字どおりサワー・ミルクと呼ばれるもので、モンゴルなどでは一般の食糧源として利用されている。

移動中の羊の群れ
(「新疆行」新疆人民出版社より)

初恋の味カルピスのポスター
 ちなみに、三島海雲という人が大正8年にモンゴルを旅行したとき、このサワー・ミルクと出合い、これを日本人向けに開発したものが、大正12年に<初恋の味>のキャッチフレーズで売り出したカルピスである。
こうしたことから、人間は乳をいきなり飲むことはしなかったし、たとえ飲んでもうまいはずはなかった。ところが、あるとき搾り残した乳を放置しておいたら発酵作用が起こり、それをなにかの拍子で口にしたところ、旨いものに変わっていたことを発見し、そこから乳を利用することを思いついた。こうして人間は人間のために利用する乳を獲得していったのである。

 現在、乳牛はホルスタイン種やジャージー種など乳腺が開きやすいものに品種改良されている。しかし、その搾乳の起源を探っていくと興味はつきない。現在、内陸アジア史学会の会長をされている早稲田大学の吉田順一先生に初めてお会いしたとき、先生はモンゴルの家畜およびそれに伴う食資源の研究をされているとうかがった。随分面白いものを研究されているとそのときは思ったものだが、このたび現地に立ってみて日本人の食生活と緊密な関係にある貴重な学問であることを実感した。

 アルタイ山中で偶然立ち寄ったカザフ族のゲルで、たまたまバターづくりを垣間見たことから、搾乳の起源という新たな好奇心が呼び起こされてしまった。だからシルクロードの旅はやめられない。

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